第四章②



   ◆◇◆



「このように、板の頂点をA、B、Cとし、板と壁が垂直になるようにすると、値を求めやすくなります」

 一限目の授業が『物理』であるため、すでに教室内に眠気が充満していた。

 また、『物理』を担当するとどろき秀一しゅういち先生の覇気の無い声が、余計に生徒たちの眠気を誘っている。

 朱音も何とか机に突っ伏して眠ってしまわないよう、頑張ってノートを取っていた。

 と、そこで授業終了のチャイムが目覚まし代わりに鳴り響く。

「あー……では今日はここまで」

 轟がチャイムをバックにそう告げると、それまで寝ていた生徒たちが次々と伸びをしながら起き上がっていった。実に現金なものである。

「すみませんが、デモンストレーション用の道具を一緒に運んでほしいのですが……」

 授業中、『物理』の問題をわかりやすく再現するための道具を使用していた。

 授業前は日直が分担してそれらの道具を教室に運んでいたが、また頼まれるのを察知してか、すでに日直たちは教室から出て行ってしまっていた。

 そんなものだから、朱音はしっかりと轟と目が合ってしまう。

「鬼ヶ華さん、手伝ってもらってよろしいですか?」

「あ……はい」

「私も手伝おうか?」

 横から真衣が、名乗りを上げてくれる。

 しかし真衣の右腕には包帯が巻かれていた。何でも昨夜、料理中に火傷をしてしまったのだとか。

「何言ってんのよ真衣。怪我人は無理しないの」

「そこまで大層な怪我じゃないんだけどね」

「そういう時が一番安静にするべき時なんだよ。ありがとね、気持ちだけもらっておく」

 そう言って、朱音は教卓に置かれた道具をいくつか持ち、轟の後をついて教室を出た。

 学園では、昨日の狐面の話題で持ち切りだった。

 轟と共に廊下を歩いているだけで、四方八方から狐面の話が聞こえてくる。

 普通科の生徒たちでこれなのだから、エリート科では巻き込まれた椿姫と椿姫の取り巻きたちを含めてもっと話が盛り上がっていることだろう。

 今朝、蒼亥と話していた通り、エリート科の生徒の中には、我こそはと今回の事件の犯人を見付けるべく躍起になっているだろうから。

「朱音さんも、昨日、巻き込まれたんですって?」

 不意に、これまで黙々と歩いていた轟からそんなことを訊ねられた。

 元々、轟は陰気な先生として生徒からあまり好かれていない。

 それというのも、口数が少なく、生徒だけでなく他の教師とも喋っているところをあまり見たことが無いほど、交流を断っている先生だった。

 あの、交流するのを嫌がっている独特の雰囲気は、言葉にしなくても伝わるものである。

 だから生徒たちから轟に関わることはほぼ無いし、轟もまた、生徒たちに関わる気が無い状態である。

 そんな轟から昨日の事件について話しかけてくるとは思っておらず、朱音はすぐに言葉が出てこなかった。

「あ、えっと、はい、そうです」

「怪我……などはしていませんか?」

 長い前髪の所為で目元が隠れているため、その視線がこちらを向いているとまるで気付かなかった。

 朱音は轟からのその言葉に、『心配』よりも何か他の思惑を感じ取る。例えるならば『詰問』に近い気がした。

「怪我はしてません」

「そうですか」

 質問した割には、会話はそれで終了してしまう。

 目的地である職員室までそう遠くはないのに、気まずい空気が流れている所為か何キロも先にあるような気がした。

 なので朱音の方からも轟に訊ねてみることにした。

「やっぱり先生の間でも、昨日のことは知られているんですか?」

「当然ですよ。緊急の会議が開かれて、私は帰りが遅くなりました」

「あ、あはは……それは大変でしたね」

「あの理事長たちが目を光らせるこの学園内で『呪い』を行使するなんて、よっぽど見つからない自信があるのか……。それとも、それほどまでに追い詰められているのか」

 独り言のように呟かれた轟の言葉に、朱音は胸がギュッと縮まった。

 確かに、時房理事長と賢神アクル理事長の凄さを、この学園で知らぬ者はいない。しかも学園内には、妖力に富んだ他の先生たちだっている。

 それなのに白昼堂々『呪い』を発動させたのは、自信があるからではなく、『呪い』に頼らなければならないほど犯人が追い詰められているのだとしたら。

「………」

 朱音にだって、人ではなく境遇を呪いたくなる時はあった。

 鬼ヶ華家の、とくに椿姫から虐げられている時、悔しい気持ちが無かったと言ったら嘘になる。

 つまり誰だって、今回の犯人になり得たということだ。

「……犯人に同情しますか?」

「え……」

 まるで朱音の脳内を全てお見通しかのように、轟はそう訊ねてきた。

「同情は……わからないです。ただ、特定の誰かを呪う気持ちを持っているのなら、その根本的なところも解決できたらいいな、と思っています」

「鬼ヶ華さんはお優しい人ですね」

 抑揚の無い轟の物言いは、本心からそう語っているのか、それとも皮肉で言ったのかわからなかった。

 そうこうしているうちに、気付けば職員室に着いている。

 轟は何てことない所作で、朱音から道具を全て受け取る。

「運んで下さりありがとうございました」

「先生……全部一人で持てたんじゃ……?」

「そうかもしれないですね」

 さらっとそう返すと、轟は自身の席へと去っていった。

 残された朱音は、どうにも釈然としないまま職員室を出る。

「なんで……」

 廊下で一人立ち尽くしながら、思わずそう零した。

 何故、自分一人でも持てるものを、わざわざ朱音と分担して持ったのか。

 授業開始前に日直が道具を用意するのはいつものことだからわかる。

 思い返せば、これまでの授業だって轟が授業後に誰かの生徒を頼るような姿を見たことがない。

「もしかして私……疑われてる?」

 朱音が思い付いたのはそこだった。

 道具運びも、最初から朱音にさせるつもりだったのかもしれない。

 それは何故か。

 昨日の事件のことで探りを入れるためではないだろうか。

 何故なら朱音には、忌神が憑いている。

 呪いどころか、厄災そのものの『神』だ。

 しかもあの現場で、唯一怪我もせずに助かったのは朱音だけ。

 確かに第三者目線だと、朱音が『呪い』を行使し、椿姫やその取り巻きを攻撃したように見えなくもない。

「だから理事長先生たちは、犯人探しをするよう命じたんだ……」

 クロが忌神として安全かどうか。

 そして、第一に疑われる立場だからこそ身の潔白を晴らすために。

 朱音は率先して犯人探しをする必要があるのだ。

「……っ」

 その考えに至った途端、朱音は周囲の目が気になり始めた。

 廊下の至る所で昨日の事件について話している生徒たちが、実は自分に疑いの眼差しを向けているのではないかと恐くなってくる。

「……あれ?」

 その時、廊下の窓から丁度見下ろした位置に数人の人影が見えた。

 高い木々の間から見えるのは、よく見知った真衣の姿。

 二限目がそろそろ始まるというのに、何をしているのだろうか。

 そう思った矢先、真衣の体が突き飛ばされる。

「えっ」

 よく目を凝らせば、真衣の前には四人ほどの女生徒が立っており、嫌な笑い方で真衣に向かって何かを話しているようだった。

 どう考えても、真衣にとって良くない状況なのは一目瞭然だ。

 急いであの場に行かなければと思った矢先、真衣たちの周りに、突如真っ赤な火が灯る。

「な、なに……?」

 上から眺めているしかできない朱音からすると、あの場で何が起きているのかよくわからない。

 ただ、火の玉は真衣を突き飛ばした女生徒たちにとっても予想外だったようで、真衣と同じように怯えた表情をしている。

 いくつもの火の玉はやがて一つになり、そして……あの赤いフードの狐面が現れた。

「嘘……っ」

 思わぬ展開に、朱音は駆けだそうとする。

 しかし、その体がふわりと浮かぶ。

「朱音、何処に行くの?」

 突如、影からその姿を現したクロが、軽々と朱音を抱きかかえていた。

「クロ! ふざけてる場合じゃないの! 真衣が……っ」

「あの場所に行きたいの?」

「そうだよ。だから早く降ろして……」

「走るよりこっちの方が早いよ」

 そう言ってクロは、朱音をお姫様抱っこしたまま、窓を開けてその縁に立つ。

 ちなみにここは二階で、それなりに地面との距離がある。

「う、嘘……待ってクロ、まさか……」

 クロは、何のためらいもなく飛び降りた。

「キャアアアアっ!」

「はい、着いた」

 叫んでいる内に、朱音は叫び声と共に真衣の前へ現れる。

「あ、朱音……」

「真衣~……」

 半泣きで朱音は真衣の無事を確かめる。

 だが、クロはずっと朱音をお姫様抱っこしたままだ。

「クロ、もう着いたんだから降ろして」

「ご褒美が欲しいなぁ」

 甘えた口調のクロに、この状況がわかっているのかと言いたくなった。

 真衣と、どう考えても真衣に敵意を向けている女生徒たちと、そして現れた赤いフードの狐面。

 そんな一同が介しているところで、個人的なご褒美をねだるあたり、空気を読む気が無いようだ。

「ご褒美って……そんなことしてる場合じゃないでしょ。狐面がいるんだよ!」

「あいつをやっつけたらご褒美くれる?」

 目を細め、口端を持ち上げながらニンマリと要求してくるクロにとって、あの狐面はたいした敵ではないのだろう。

 それどころか、ご褒美をもらうための交渉の道具でしかないところに『神』の威厳を感じた。

 ただし、『神』は『神』でも忌神だ。

 それを忘れてはならないと、朱音はグッと拳を握り締めた。

「やっつけるんじゃなくて、捕らえることはできないの?」

 それができるなら、理事長先生たちにでも引き渡して、この事件の犯人が誰か突き止めてもらえないかと思ったのだ。

 クロは腕を組み、考えているというポーズを取っていた。

「できなくはないよ。でも力加減が難しいなぁ。その分いっぱいご褒美が欲しいなぁ」

 そんな場合じゃないのに、クロはもったいぶった口調でますます要求を強くしてくる。

 朱音にとっては一大事でも、クロにとってはたいした事ではないのだとよくわかる。

 改めて、『神』に何かを頼むとはこういうことなのだと感じた。

 強い力を持つ者は常に優位であり、そして気分次第に事を運ぶということだ。

「……わかった。何を褒美に欲しいの?」

 朱音は様々なものを頭の中で天秤にかけた結果、その結論に至った。

 それを聞き、クロは邪悪な笑みを浮かべ、欲しい褒美を口にしようとした……その時だった。

「あっ」

 朱音が気付いた時にはもう遅く、狐面は炎をまとわせ、凄い速さでその姿を消してしまった。

「………」

 その場に残された、何とも気まずいメンツ。

 遠くの方から斎藤先生が駆け付けてくるのが見えて、また下手に狐面と関わってしまったと、朱音は頭を抱えるのだった。

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