第四章①

「ん……んぅ……」

 朝の気配を感じ、朱音はゆっくりと目を開ける。

 滑らかなシーツの感触と、寝起きにしか感じられないまどろみを味わいながら、ふと、何かが視界に入る。

 それは、眠る朱音を至近距離で眺めているクロの姿だった。

「キャアアアア!」

「どうしたの姉さん!」

 咄嗟に上げた悲鳴で自らも覚醒する。

 襖を開けて隣の部屋から駆け付けた蒼亥が、クロの姿を見て心底嫌そうな表情を浮かべた。

「おまえ……姉さんに何をした!」

「何にも。寝てるから可愛いな、って」

 なんてことは無いといった口振りで、クロはそう返す。

 きっと何を言っても無駄だと思い、朱音は蒼亥の方へ向き直った。

「ごめん蒼亥。ビックリしちゃって……」

「そりゃビックリするだろうさ。姉さん、本当に何もされてない?」

「大丈夫、ありがとう」

 自分抜きで話が進んでいるのが面白くないのか、クロは毛布の上から朱音に向かってダイブする。

「ちょっ、クロ、重い!」

「朱音はオレのお嫁さんになるんだから、オレのこともっと大切にして? ね?」

「お嫁さんになってほしいなら、朝から驚かすような真似しないでよ」

「はぁい」

 朱音の関心が自分に向いていればそれで満足なのか、クロは素直にそう返事をする。

 こんな姿を見ているととても『神』とは思えないのだが、彼の恐ろしい一面は何度も目にしているので気を抜かないよう気を付けないといけない。

「姉さん、支度が終わったら声かけて。一緒に登校しよう」

「うん、わかった。ちょっと待っててね。……というわけだから、クロは部屋から出て行って」

 相手があやかしだろうが何だろうが、着替えや支度を誰かに見られながらするのは恥ずかしい。

 クロは寂しがる猫のようにチラチラと朱音を見つめながら、これ以上苦情が来ない内に部屋から出て行った。


「昨日のこと、一応お知らせとして全校生徒に通達があったけど、やっぱりお休みする生徒が増えるのかな?」

 朝の支度を終えて家を出た朱音は、隣を歩く蒼亥にそう訊ねた。

 いつも一人で登校していたから、傍に人がいることが新鮮でたまらない。

「どうだろう。あやかしと関わる学園として事前にそのことは了承して入学しているし……エリート科の人たちは、むしろ犯人探しに躍起になるんじゃないかな」

「そうなの?」

「早い内からそういったあやかし関係の事件をこなしておくと、内申が良くなって進学や就職に有利に働くからね」

 妖力が全く無いゆえに、朱音からするとそれは初耳だった。

 確かにあやかしの事件を専門で扱う警察や弁護士などがいるのは知っていたが、そういう人たちは学生の頃から、こういった事件に積極的に参加しているようである。

「もしかしたら私たちより早く、エリート科の誰かが事件を解決しちゃうかもね」

「そうなると忌神の友好性は証明できないから、おさらばかもしれないよ? 俺はそれでもかまわないけど」

「それは駄目だねぇ」

 ゆらり、と朱音の影が揺れたと思うと、そこにはクロの姿があった。

 真っ黒の長髪をフワフワとなびかせ、トンビコートを羽織った影色の着物姿。

 黒で構成されたその姿の中で、透き通るほどの白い肌と、血のような赤い目が強く目立っている。

 人として見るには神々こうごうしく、神として見るには禍々まがまがしい、実に異質な存在感。

 クロはその赤い目を細め、愛おしそうに朱音を見つめる。

「国のあやかし機関に報告されると、役人たちが否応なく朱音と引き剥がそうとしてくる。そうするとオレはその役人たちを片っ端から消さなければならない。それを朱音は望まないでしょう?」

「そりゃあ……」

「だったらオレと朱音で、頑張って事件を解決しなくちゃね」

 ニッコリと笑ってみせるクロに、朱音は苦笑しか返せなかった。

 たぶんクロからすれば、その役人たちを片っ端から消す方がずっと簡単なことなのだろう。

 そのことを人質に取った上で、共に事件解決に乗り出すことを脅迫してきている。

 実に意地の悪い神様だ。

「クロ……あんまり簡単に外に出ないって約束したじゃない」

、ね?」

 どこまでも口が達者な『神』である。

 口を尖らせる朱音を、クロは愛玩動物を愛でるかのように、ニコニコと笑いながら頭を撫でていた。

「姉さん。とりあえず学園に着くまでに昨日のことを整理しよう」

 蒼亥は一度クロを睨み付けて牽制しつつ、そう切り出した。

「姉さんが昨日、狐面のあやかしに遭遇した時、どういう状況だったの?」

「どういう状況っていうと……」

 朱音はやや口ごもりながらも、購買に行き、椿姫とその取り巻きに絡まれたことを素直に話した。

 途端に蒼亥は眉をひそめ、その整った顔に不機嫌な表情を浮かべていたが、すぐに切り替えて話し始めた。

「……なるほど、状況はわかった。タイミング的には、姉さんが椿姫さんたちに絡まれていた時に突然、狐面は現れたわけだね?」

「うん、そうなるね。それで取り巻きや椿姫さんに向かって突進していって……」

「姉さんもやられそうになって、忌神に助けられた、と」

 口元に手を当て、悩ましげに首を傾げる蒼亥。

「狐面ということは『狐』の仕業だろうから、呪いや恨みの線が濃厚だね。ただ、理事長たちがまだ犯人を特定できてないということは、使役の契約をしている『狐』ではなく、その場限りの契約で『狐』に怨恨を願った線が濃厚なわけだ」

 蒼亥の言う通り、賢神アクルも個人的な呪いの類だと言っていた。

 それに呪いには秘匿の制約があるため、そもそも犯人探しをするのが難しいのである。

 ただしその代わり、呪った相手は『狐』にそれ相応の捧げものをしなければならない。

 時には自分自身の命すら必要になることもある。

 人を呪わば穴二つとはよく言ったものだ。

「無差別な呪いとは思えないから……やっぱりあの場にいた誰かを狙ったのかな?」

「うーん。その場に居た全員を攻撃している辺り、なんとも言えないね。そもそも『狐』の呪いを使いこなすにはそれなりの妖力がいるから、昨日の時点でどれだけ犯人の思い通りに『狐』が仕事をしてくれたかわからない」

 やはり現時点では、わからないことが多すぎる。

 だから朱音は、隣を歩くクロの方をちらりと見上げた。

「なぁに?」

 朱音から視線をもらい、嬉しそうにクロは反応する。

「クロは狐面のあやかしについて何もわからないんだよね?」

「朱音以外興味が無いからね」

 即答だった。

 思わず朱音は呆れた表情を見せたが、クロは言葉を続ける。

「ただ、オレからの攻撃でかき消されたにも関わらず、まだ学園内に居るってことは、それだけ強い恨みの気持ちがあるってことじゃない?」

「そっか……『神』の一撃を受けても消えなかったほど、強い呪いってことか」

「悩んでる朱音も可愛いねー」

 人の気も知らず、クロは朱音の頭を撫でてご機嫌な表情を浮かべる。

 それを蒼亥はしっしっと追っ払った。

「もう学園に着く。とっとと姿を消せ」

「わぁ、恐い。それじゃあ朱音、いつでもそばにいるからね」

 そう言ってクロは、朱音の頬にキスを一つ。

 蒼亥から追撃が来る前に、その体を影へと溶かし闇に消えた。

「あ、あいつ~ッ!」

「……ビックリした」

 怒る蒼亥と、キスを受けた方の頬を撫でる朱音。

 二人して忌神クロに振り回されていた。

「姉さん。狐面のあやかしもだけど、あの忌神にもちゃんと注意を払うんだよ」

「う、うん」

「それと……休み時間になったら、『狗』を使って狐面を探ってみようと思う」

 蒼亥は高い妖力を持っているため、『狐』と同格の『狗』を使役することができた。

 人間に対し友好的で、探し物を見付ける力に飛んでいる『狗』ならば、何か事件に関わるものを見つけ出せるのではということだろう。

「ありがとう。蒼亥も無理しないでね」

「わかってる」

 こうして蒼亥と顔を合わせ、ゆっくり喋るのはいつ以来だろうかと朱音は思った。

 鬼ヶ華家の本家に入ってから、主に椿姫の意向で、二人きりで喋る機会は一気に減った。

 だから朱音は内心、この点においてはクロに強く感謝していた。

「それじゃあ姉さん、気を付けてね」

 そう告げて、蒼亥はエリート科の校舎へと向かっていく。

 しばらくぶりに話した弟の背中は、実に頼りがいのあるものになっていた。

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