第三章③
◆◇◆
「はあ……緊張した」
このお屋敷の中で最も狭い部屋――六畳一間の自室へと入った朱音は、畳の空いているところにゴロンと寝そべった。
思えば今日は朝からとんだ騒ぎ続きだった。
狐面に襲われ、クロに助けられつつさらわれ、学園に戻ったら理事長たちと会話し、そして帰宅すれば天鬼と椿姫に真っ向から意見を告げた。
色んなことがいっぺんに起こった一日だったが、なんだかんだ一番緊張したのは、先程、椿姫に面と向かって自分の意思を通した時かもしれない。
それぐらい朱音は、長い間、椿姫とこの家に対し無気力でいたのだ。
「朱音、よく頑張ったね。ご褒美に膝枕をしてあげるよ」
「けっこうです」
寝転がった朱音の傍で正座しながら、クロはそんなことを言ってくる。
恐ろしい忌神としての威厳は、一体どこへ行ったのやら。
少なくとも朱音の前では、お茶目な一面ばかり見せる。
だが、だからこそ恐ろしくもあるのだ。
少しでも目を離そうものなら、息をするのと同じぐらい簡単に、人を消し去ってしまえる力を持っている。
クロは恐ろしい忌神であることを、常に頭の片隅に置いておかねばならないと思った。
「姉さん」
不意に、襖の向こうからそんな声がかけられた。
よく知ったその声の主は蒼亥だったので、朱音は体を起こし襖を開ける。
「どうしたの?」
「姉さん、ちょっといいかな」
言って、入室してきた蒼亥は、クロを鋭く睨みつけた。
基本的に温厚な蒼亥が、そんなふうに敵意を露わにするのは初めてで、朱音は少々戸惑ってしまった。
「あの……クロがいない方がいいなら席を外してもらうけど」
「いや。むしろ忌神にも訊きたいことがある」
朱音から差し出された座布団の上に蒼亥は座り、真面目な表情でそう言った。
「姉さん。そこの忌神が姉さんの旦那だとか言ってたけど……本当なの?」
「それは……まだわからない話で……」
「わからないってことは可能性があるの?」
「まあ、それなりに」
朱音の物言いが何とも歯切れの悪いものなのは、クロの様子を伺っているからだ。
あまり下手なことを言って怒りでもしたらどうなるか、考えただけでも恐ろしい。
そのことを蒼亥だってわかっているはずなのに、彼は少しも譲らず、強気に出る。
「正直言って、俺は反対だよ。こんな、力で相手を屈服させるような奴が旦那だなんて、姉さんが苦労することがわかりきっている」
「蒼亥……」
「姉さん。今からでも遅くないから、理事長先生にでもこのことを話して、的確な処分をしてもらうべきだよ」
「えっと……一応もう理事長先生たちには話してあるよ」
「なんて言ってた?」
「それは……」
狐面のあやかし退治に協力することを条件に出されたと言いかけ、はたしてどこまでこのことを喋っていいのか迷ってしまう。
そこに割って入ったのはクロだった。
「キミ……オレと朱音の邪魔をしたいの?」
ニタニタと笑いながら、クロは蒼亥を指差す。
細くて長いその人差し指が、まるで鋭利なナイフにでも錯覚してしまうほど、クロから強い殺意が放たれていた。
それでも蒼亥は退かない。
その端正な顔に強い意志を乗せ、真っ向からクロと対峙する。
「姉さんを困らせるなら容赦はしない」
「クッ……ハハハ。容赦はしない? キミごときが?」
「俺は刺し違えてでも姉さんを守る」
「相手にもならないことぐらい、キミだってわかっているだろうに」
クロは蒼亥のことをまるで相手にしていない。
小さな子供のわがままを、はいはいと流し聞きしているような態度だ。
そんなクロの態度に怒りを見せたのは、蒼亥ではなく朱音だった。
「……クロ」
朱音から名前を呼ばれ、嬉しそうにクロはそちらを向く。
しかし朱音から怒りの色が見え、クロは笑顔のまま固まった。
「蒼亥は私にとって大事な双子の片割れだから。蒼亥に失礼なことをするなら、もうクロと口きかないからね?」
「えっ……それは嫌だ」
思ったまんまを口にするクロに対し、朱音はツンとそっぽを向く。
途端に慌てたのはクロの方だ。
「やだ……朱音、あーかーね? ねえ、オレと口きかないなんてそんな悲しいことしないで? 朱音? やだやだ、無視はやだよ」
とても『神』とは思えない態度で、必死に朱音の機嫌を伺うクロ。
クロの豹変ぶりに、蒼亥も目を丸くしている。
「朱音、ねえ、朱音。ちゃんと朱音以外の奴らともお話するから。だからオレを無視するのやめて? ね? お願い」
「わかった? 相手にされないって凄く嫌なことなんだよ」
「うんわかった。すーっごくわかった。だからもう無視しないで」
お許しが出て安心したのか、クロは朱音をギュウギュウと抱き締める。
とても忌神としての威厳が無いと蒼亥は思いつつ、そういった態度を姉である朱音にしか見せないところに恐さも感じた。
さっきだって、強気に出たはいいものの、朱音が間に入ってくれなければそのまま消されていたかもしれない。
やはり注意を怠ってはいけないと、蒼亥は余計に覚悟を強めた。
「あのね蒼亥」
ふとそこで、ため息混じりに朱音が話し始めたので蒼亥はそちらを向く。
「実は……理事長先生たちにはもうクロのことは話してあるの」
「そうだったんだ。理事長たちは何て?」
「クロが本当に私に協力する気があるのかを確認するため、狐面のあやかしの正体を突き止めるよう言われたの」
「狐面って、今朝購買の近くて暴れたっていう……?」
「うん」
一瞬にして、蒼亥の眉根にしわが寄った。
大事な姉が忌神の巻き添えになったことや、これから危険な目に遭わせられるのではないかという心配が、蒼亥の顔を曇らせる。
「姉さん……だったら俺も協力するよ」
「えっ……でも……」
「追跡なら『狗』を使った方が早い」
蒼亥は『狗』のあやかしと契約しているため、確かに今回の事件の犯人探しにはもってこいの存在であった。
けれど蒼亥が朱音を心配するように、朱音もまた、蒼亥を事件に巻き込んでしまうという部分を懸念していた。
「蒼亥が危険にさらされるかもしれないんだよ……?」
「それはお互い様じゃないか。俺だって、姉さんが狐面に襲われるかもしれないのを黙って見過ごすなんてできないよ」
「うん……」
「それに、いくら『神』だろうと、追跡における能力の高さは『狗』の方が上だ。そこの忌神よりも俺の方がずっと役に立つと思うけど」
蒼亥がクロへ向ける視線は、バチバチと火花が散っていた。
「うーん……わかった。蒼亥にも手伝ってもらおうかな。正直どうやって事件を解決したらいいか何にも思い浮かんでなかったし」
「姉さん……」
「でも危険だと思ったら深入りは絶対にしないでね? 蒼亥にもしものことがあったら、言葉にできないぐらい悲しいから」
「何言ってるんだ。そんなの俺だって同じだよ。俺からすれば、すでに忌神に困らされていることだって許し難いんだ。姉さんのことはずっと俺が守るって決めていたのに」
姉に向けるにしては熱い感情を、蒼亥は一心に朱音へと向けていた。
実のところ、蒼亥はシスコンと言っていいほどに朱音に対し、強い思いを持っていた。
それというのも、幼い頃に両親を亡くしてから、朱音がずっと蒼亥を守り、頑張って支えてきてくれたからだ。
蒼亥は、朱音と一緒なら何処ででも生きていけると思っていた。それなのに蒼亥の為を思ってか、この本家に住まわせてもらえるよう頭を下げてくれたのも朱音だ。
最初は妖力を持っていないことで蒼亥だけが引き取られる話になっていたが、それだけは断固阻止しようと、蒼亥が椿姫を何とか言いくるめ、朱音も引き取られるようにしたのだ。
椿姫から彼氏まがいの扱いを受けようとも、上手く耐えてやり過ごしてきたのだって、朱音と一緒にいたいからだ。
なのにも関わらず、突如現れた忌神クロとやらは、人外ゆえの話の通じなさを盾に朱音にべったりと付きまとっている。しかも、契りを結ぼうとすらしているのだ。
だから蒼亥は心から誓った。狐面のあやかしからはもちろん、絶対に忌神から姉を守り抜くと。
「……とりあえず、明日からは一緒に登校しよう。椿姫さんの使用人として扱われなくなったから、これでやっと一緒に学園へ行けるね」
蒼亥は気を取り直し、優しい微笑を朱音へと向けた。
今までは朱音が使用人としての扱いを受けていたため、朝からやることが多く、一緒に登校することができなかった。
だけどこれからは違う。
蒼亥は密かに、朱音と一緒に登校するのが夢だったのだ。
「そうだね。いっつも別々だったもんね」
朱音が同意してくれて、蒼亥はますます笑顔を深めた。
こうやってできるだけ朱音の傍にいれば、忌神が手を出す機会も少なくなるだろうと蒼亥は思った。
「そろそろ夜も遅いし俺は自室に戻るけど……」
言いながら、蒼亥はチラリとクロの方を見る。
「まさか忌神もこの部屋にいるのか?」
「当たり前でしょ。オレが朱音の傍から離れる理由が無いもん」
ね~、と同意を求めてくるクロに、朱音は苦笑を返すしかない。
蒼亥がまた苛立ちを見せ始めたので、慌てて朱音は口を開く。
「だ、大丈夫。ボディーガードみたいなもんだし、もし変なことをしてきたら、それこそ二度とクロと口きかないから」
「変なことってどんなこと?」
純真無垢を装いながら、やや意地悪な言い方でクロはそう訊ねる。
朱音が難しそうな照れたような表情を浮かべる様子を、にまにまと笑いながら眺めている。
「わ……私が嫌って言うようなことだよ」
「ふぅん。何が嫌かわからないから、一つずつ色々と試してみようかな」
「姉さん。今日から俺と一緒に寝よう」
どこまでも図に乗って朱音の反応を楽しんでいるクロを見て、蒼亥が割って入った。
「蒼亥、名案だわ。そうする」
「この部屋だと狭いから俺の部屋に来ていいよ」
「椿姫さんに怒られないかしら……」
「俺がちゃんと伝えておくから、安心して」
こうして朱音は蒼亥の部屋へ移ることとなった。
「えー、やだ。朱音と二人きりで寝たい」
「知らないよ。自業自得でしょ」
朱音にべったりと抱き付きながら、この予想外の展開に、クロは忌神らしさの欠片も無いほど口を尖らせて拗ねるのだった。
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