第三章②

「クロ……」

「朱音、平気?」

 クロは朱音の顔を覗き込みながら、心配そうに尋ねる。

 椿姫も蒼亥も、見知らぬ男の登場に驚き、固まっていた。

 ただ一人、天鬼だけは、目を見開き口元を引き攣らせている。

「忌神……だと……」

 そう口にした途端、朱音に触れようとしていた天鬼の手が、掴んでいるクロの手によって闇に呑まれる。

「ぐあっ!」

 天鬼は数歩退き、無くなった自身の手を急いで治癒し始めた。

「あ、天鬼様……! こ、これは一体何事なのッ!」

 わけがわからないといった感じで、しかし朱音を睨みつけながら椿姫は声を上げる。

 隣にいた蒼亥もまた、困惑した表情を浮かべつつ、こちらはクロの方を睨みつけていた。

「姉さん、そいつは何……ッ?」

 いつでも『狗』を呼び出せるよう、蒼亥は構える。

 だが、蒼亥からの敵視など気に留めもせず、クロは冷めた目線を蒼亥へと向けた。

「『鬼』ですら相手にならないオレに、『狗』なんかが効くわけないでしょ」

「くっ……」

「ここは騒々しいね。やっぱり朱音はオレの家に居るべきじゃないかなぁ」

 朱音をギュッと抱きしめながら、クロは甘えた口調でそんなことを言う。

 その光景に蒼亥はますます敵意を高めるが、しかし本能的に力の差が歴然であることを理解してしまっていた。

「忌神……」

 クロに消された手を、この短時間で治癒し終えたのは、さすがは『鬼』といったところか。

 天鬼は苦々しい表情のまま、改めてクロと朱音を見た。

「何故貴様が人間と共にいる」

「だってオレは朱音のお婿さんだもん。旦那様で、夫で、花婿。ね?」

 緊張した天鬼など歯牙にもかけず、クロは呑気な口調で朱音の方を向く。

 板挟みになっている朱音は非常にいたたまれなかった。

「あのですね……彼は十年前の恩を返すために、私を色々とその……助けてくれまして」

「そう。だから朱音に手出しする奴には容赦しないから」

 クロの口元はヘラリと笑いながら、目元は一切笑っていない鋭さで目の前のモノを射抜く。

 天鬼と蒼亥は、クロのヤバさに気付いている。

 ただ一人、椿姫だけは違った。

 椿姫ももちろんヤバさは感じ取っているが、それ以上に朱音の態度が気に食わなくてしょうがない。

 天鬼様に失礼な態度を取り、突如現れた忌神とかいう顔のイイあやかしにちやほやとされている。

 それだけで椿姫は我慢ならなかったのだ。

「忌神だか何だか知らないけど、鬼ヶ華家の当主は今はこの私よ。私に歯向かうならこの家から出て行ってもらうから!」

 その気丈さだけならば立派なものである。

 相手が『神』であり、この状況に置いて朱音に対するちっぽけなプライドを捨てるべきであったということを除けば。



「こいつ、うるさいね」



 ぞわり、と背筋を逆撫でされるような感覚が、その場にいる誰もに走った。

 底冷えするようなその声音と共に、クロは、ゆっくりと椿姫の方を向く。

「ずっと気になってた。朱音に対してずっと失礼な目を向けてること。帰ってきた朱音にもキャンキャン犬みたいに喚き散らすし」

「く、クロ……?」

「いらないよね、こんなやつ。朱音の人生から消していいよね?」

 口角を上げて笑うクロの口元は、闇夜に浮かぶ三日月のようだった。

 さすがの椿姫も旗色の悪さを感じ取ったのか、傍に居た天鬼へと助けを求める。

「あ、天鬼様……この不届き者を追い出して下さい……っ」

 鬼ヶ華家の敵は天鬼の敵でもある。

 これまでだって、鬼ヶ華家に無礼を働いた者は『鬼』の力によって問答無用でわからせてきた。

 だが、天鬼から返ってきた言葉は冷淡なものだった。

「馬鹿を言うな椿姫。力量差が見極められぬほど、おまえは愚かではないだろう?」

「で、ですが……」

「わからぬのか? 奴が慈悲をくれているから我々はまだ生きているのだ。朱音という娘への気遣いが無ければ、我々はとっくに闇に呑まれている」

「……っ」

 ついに椿姫は黙りこくり、それでも悔しそうに、最後の抵抗とばかりに朱音を睨みつける。

「まだそんな目をオレの朱音に向けるんだ。目玉をえぐって、口を縫って、そのまま土の底へ埋めてしまおうかな」

「クロ!」

 あまりにも恐ろしいことを言うクロを、朱音は慌ててたしなめた。

「私は大丈夫だから、あんまり恐いこと言わないで」

「朱音は嘘が上手だね。大丈夫なんかじゃないでしょ? 十年前からずっと、朱音だけ格差のある扱いを受けてきた。そうでしょ? オレは何でもお見通しだよ」

「それは……」

「この家にいる限り、朱音は酷い目に遭うんだよね? だったらオレからできる提案は二択。オレの家に来るか、この場で全員皆殺しにするか。朱音はどっちがいい?」

 そんなの、選択肢など始めから無いのと同じだった。

 そこまで考えて朱音は、もしかしたらクロがこの状況を待っていたのではないかと思い立つ。

 全てお見通しというのならば、狐面から助けてくれて屋敷に連れて行かれたあの時だって、家に帰ればどういう扱いを受けるのかわかっていたということだ。

 それなのにあの時、強引に屋敷へと引き留めなかったのは……

 こうして人質のように椿姫や蒼亥の命を天秤にかけさせることで、朱音の選択肢を一つに絞らせようという魂胆だったのではないだろうか。

「………」

 朱音は、首筋に冷や汗が流れるのを感じた。

 目の前でニコニコと笑うクロが、恐ろしくてたまらない。

『逆に言うと、学園の平穏は朱音くんの一存にかかっているとも言えるがのぉ』

 今日言われた時房理事長からの言葉が、頭の奥でリフレインした。

 強い意志を持たなければ、この忌神に飲み込まれてしまう。

 朱音はグッと奥歯を噛み締めた。

「クロ。私はどっちの選択肢も選ばない」

 朱音の返答に、クロは笑顔のままゆっくり目を細める。

「……どうして?」

「確かに私はこの家であまり優遇されていないけれど……だけど、身寄りの無い私と蒼亥を育ててくれた恩がある。それに、今の環境に甘えていたのは私だから。もし環境を変えたいなら、自分でどうにかするよ」

 まぎれもない本心だった。

 思えば、今の環境でいいと、とくに何もしてこなかったのは自分だ。

 蒼亥から提案されても今の扱いでいいと思ったのも自分だし、もしこの家のことが嫌ならば出て行く選択肢だってあるはずだ。

 耐えればいいと、結局何もしてこなかったのは自分自身だと、朱音は逆に気付かされた。

「椿姫さん」

 朱音は椿姫へと向き直り、そっと頭を下げた。

「クロが失礼なことをしてしまい申し訳ありませんでした。クロは忌神ではありますが、鬼ヶ華家に害をもたらしに来たわけではありません。なのでどうか、引き続きクロと共に私をこの家に置いて下さい」

 もちろん朱音も、もう黙って椿姫の言い成りになる気はない。

 これは、先程まで散々見せ付けられたクロの恐ろしさを加味した上での交渉だ。

 現に椿姫は顔を引き攣らせている。

「っ……いいわよ。ただしお父様とお母様にこのことは報告させてもらいますからね」

「はい。ありがとうございます」

「それと……明日から使用人の真似事はしなくていいから。うちの使用人はもう事足りているし」

 クロの影響か、悔しそうにではあるが椿姫はそう言い捨てた。

 もしもこれ以上、朱音を使用人としてこき使えばクロがどう出てくるか……それを考えられないほど椿姫も馬鹿ではない。

 だから鬼ヶ華家の当主として、これ以上無い的確な判断であったと言える。

「ふむ」

 そんな二人の様子を見ながら、天鬼は朱音へと視線を移しながら一人感心する。

「よく知らぬ娘だったが……なかなかに気高いな」

「オレの朱音だからね。あげないよ」

「わかっている。おまえのモノに手を出す愚かなあやかしなどいるものか」

 横から割って入ってきたクロに、天鬼は即座にそう言い切った。

「ああ、朱音……オレの提案を蹴られちゃったのは悲しいけど……そういうところも素敵だなぁ」

 クロは朱音の頬を撫でる。

 その目にはハートマークでも浮かんでいそうなほど、クロはうっとりとした様子だった。

「ねえ……本当にオレの屋敷に来ないの? オレと一緒に二人っきりで、甘い夜を過ごそうよ」

「しないってば、もう」

 ベタベタと引っ付こうとしてくるクロを押し退け、朱音はうんざりとした口調でそう答えた。

 だが、その顔のどこかには感謝の気持ちも浮かんでいた。

 クロがこの事態を起こしてくれなければ、一生、何もしないままだった気がしたから。

「クロ……ありがとう」

「朱音~!」

 聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな呟いたはずなのに、クロにはしっかりと聞こえていたようで、勢いのままに抱き付いてきた。

 朱音は大型犬がなついてくるような気持ちで、もう抵抗する気もせず好きにさせておく。

「………」

 そんな朱音とクロを見つめる蒼亥は、何か言いたそうに唇を固く閉じていたのだった。

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