第三章①

「ふう……」

 全ての授業を終えるチャイムが鳴り響き、朱音はややぐったりとした様子で机に突っ伏した。

 あのあと、理事長二人には犯人探しの件は内密にすることと、自分たちも出来得るだけ協力するということを言われクラスへと帰らされた。

 そしてクラスに帰る際、他の生徒を驚かさないためにも、クロは緊急時以外、実体化しないという約束を交わした。

 最初はごねていたが、朱音の説得により、影の中へ溶けて消えたのだった。

「朱音、平気? なんか疲れたサラリーマンみたいだよ」

 真衣からそんなふうに声をかけられ、思わず笑ってしまう。

 体を起こした朱音は、帰りの支度をし始めた。

「ちょっとまあ、色々あってね」

「今日はなんか朝から騒ぎだったもんね。購買の近くであやかしが暴れたんでしょ?」

「あー……そうみたいだね」

 まさかそのあやかしと対峙した当事者だとは言えず、朱音は言葉を濁した。

「エリート科の鬼ヶ華さんが襲われたって聞いたけど」

「うん、そうみたい。蒼亥が付き添いで早退してた」

 朱音は、自身がクロの屋敷に居た間のことを理事長たちから聞かされていた。

 そうやらあの狐面は、クロに弾き飛ばされたと同時に消え去ったらしい。

 狐面に襲われた生徒たちの中に負傷者はいなかったが、大事を取って簡単な事情聴取だけして帰宅を命じたとか。

 その中には朱音のイトコである椿姫も含まれており、理事長たちの話によると、朱音の双子の弟の蒼亥を付き添いに指名して帰ったらしい。

「じゃあね真衣。また明日ね~」

「うん。ばいばーい」

 いつものように挨拶を交わし、朱音は帰路につく。

 学園の校門前では、エリート科の生徒の送迎者が何台か停まっていた。

 妖協学園の、とくにエリート科には、鬼ヶ華家のような格式高い名家の子息が通っていることもあり、ああやって送り迎えをしてくれている家もある。

 実際に椿姫もその類だ。

 蒼亥も椿姫に誘われていたが、朱音のことを思ってなのかそれは辞退していた。

 そんな送迎者を横目に、朱音は考える。

 あの狐面のあやかしは、何が狙いだったのか、ということだ。

 購買前で突如として現れたあの狐面は、そもそも何を狙ってあの場に現れたのだろうか。

 結界の関係で内部の犯行である線が高いとなると、無差別、というよりは個人的な恨み、または目的での犯行だと思うのだ。

 何せ『狐』のあやかしは、他のあやかしに比べて『呪い』の力に特化しているのだから。

「あの場にいたのは、私と椿姫さんとその取り巻きの人たち……」

 そして何の脈絡も無く、狐面のあやかしに襲われた。

 幸い怪我人は出なかったが、それなりに殺意の高い動きをしていたのも事実。

「うーん……これ以上考えてもわからない……」

 そうこうしているうちに、朱音は鬼ヶ華家へと到着していた。

 平屋で造られた、年代を感じさせる荘厳な屋敷。中には池を携えた和風庭園があり、植えられた草木の色付きによって四季を感じることができた。

 朱音は、本家の人たちが使用する門を通り過ぎ、勝手口となる小さな扉から中へと入る。

 そのまま自分の部屋へと帰ろうとした、その時。

「遅かったじゃない」

 怒りを孕んだ甲高い声が聞こえて振り返ると、廊下に、腕を組んで苛立った表情で仁王立ちしている椿姫の姿があった。

「つ、椿姫さん。あの……ただいま戻りました」

「あんた、私があやかしに襲われたって知っておきながら、突然どこかへ行って、呑気に帰ってきたってわけ?」

 椿姫の言葉に、朱音は黙る。

 確かに椿姫からすると、あの場ではいきなり朱音が消え去った……つまり逃げたように見えていたらしい。

 誤解であるのだが、果たして何て説明すればいいのか頭を抱えた。

「それに……何? あんた、変なもんまとわりつかせてない?」

「え……」

「妖気とも違う……なんなの、気味悪い」

 もしかするとそれはクロが原因だろうか。

 そう思っていた矢先、今度は蒼亥の姿が飛び込んできた。

「椿姫さん、あの!」

 そこで一度、蒼亥は朱音の姿を確認し、改めて椿姫へと向き直る。

「あの、大広間に……天鬼あまき様が現れまして……」

「なんですって?」

 それまで勝気だった椿姫が、明らかに顔色を変えた。

 天鬼様……それは、鬼ヶ華家が代々契約している『鬼』のあやかしのことであり、『鬼』の中でも頭領を務めているような存在である。

 今、鬼ヶ華家の当主となる椿姫の両親は、事業拡大のために海外出張で出払っている。

 つまり、この鬼ヶ華家本家を任されているのは椿姫であり、そして契約した『鬼』とやり取りを交わすのも椿姫の役目である。

「わかったわ蒼亥さん。今すぐ大広間に……」

「それが」

 珍しく椿姫の言葉を遮り、蒼亥は口を開く。

 その目は朱音の方を向いて。

「天鬼様いわく、今この屋敷に帰ってきた者も同行させろ、とのことでした」

 それはつまり、朱音のことである。

 驚きで固まる朱音を余所に、椿姫は声を上げる。

「なんでこの出来損ないを……っ」

 鬼ヶ華家の恥となるような者を天鬼様の前になど出したくないという気持ちと、しかしその天鬼様が朱音を指名しているという葛藤。

 椿姫は口元を歪めながら、朱音に告げる。

「天鬼様の前で少しでも鬼ヶ華家の恥になるようなことをしたら、すぐに家を追い出すからね」

「は、い……」

 まさに鬼の形相といった椿姫を前に、朱音は静かに頷くことしかできなかった。



   ◆◇◆



 滅多に来ることの無い大広間へと向かった朱音は、正座と共に三つ指を揃えて深く頭を下げた。

 使用人が襖を開き、ゆっくりと顔を上げる。

 五十以上の畳が敷き詰められた、広く奥行きのある空間が目の前に広がった。

 鬼の透かし彫りのされた欄間が均等に配置され、その最も上座となる場所には妖しく光る一本の妖刀が祭られている。いわく、鬼ヶ華の初代当主が、『鬼』との契約の証として授かった妖刀なのだとか。

「来たか」

 涼やかな声がどこからともなく聞こえた。

 上座に近い柱の影から、一人の男が姿を見せる。

 後ろで一つに結んだ赤い髪に、おでこの左右から生えた角。金色の目は肉食獣のように鋭く、口から覗く牙は猛獣と同じぐらい研がれていた。

 平安貴族のような服を身に纏うその男こそ、この鬼ヶ華家が契約する『鬼』のあやかし、天鬼様であった。

「こちらへ来い」

 天鬼からの言葉に従い、椿姫、蒼亥そして朱音は、極力音を立てぬように畳の上を歩き、大広間の中頃で再び正座をした。

 まず口を開いたのは椿姫だった。

「天鬼様。今回は一体どうしたというのですか? 突然顕現けんげんされるだなんて……」

「先程、この家に入って来たのはどいつだ?」

 椿姫の言葉に被せ、天鬼は問う。

 神経質そうに椿姫はピクリと肩を震わせ、蒼亥は心配そうな眼差しを朱音へと向けた。

「あ……わ、私です……」

 天鬼とは初対面となる朱音は、恐る恐る返事をした。

 すると、天鬼は口元に手を当てながら、まじまじと朱音を見定める。

「ふむ、やはりか。先程、この家に邪悪な気が入り込んだと思ったが……それと同じ気がおまえから漏れ出ている」

 予想外の言葉に、朱音は目を見開いた。

「そんな、私は何も……」

「天鬼様を疑う気なのッ?」

 声を上げた途端に、椿姫から鋭い叱責を向けられた。

 確かに失礼だったかもしれないと朱音は委縮しつつも、しかし天鬼様自らが動いているこの事態に、ただ黙っているだけでは本当に家を追い出されるのではないかと心配でならなかった。

「その奇妙な邪気はなんだ? 呪いとも違う……災いそのもののような、禍々まがまがしい気配」

 畳の上を滑るように歩きながら、天鬼は朱音の前に立った。

 見上げた先の天鬼の姿は、まさに『鬼』の頭領に相応しい威圧感を持っている。

「あ、の……」

「この家への災いならば、わしは祓う義務がある」

 ゆっくりと、天鬼が朱音の方へと手を伸ばす。

 思わず朱音はギュッと目を閉じた。



「触るな」



 キシリ、と空気にヒビが入るような感覚。

 どこかで聞いたようなその声につられて目を開けてみれば、そこには天鬼の手を掴むもう一つの手があった。

「……貴様」

 天鬼ともあろう存在が、顔を歪ませ驚いている。

「オレの朱音に触るな」

 朱音を背後から抱きしめる体勢で天鬼の腕を掴むのは、朱音の影から現れた忌神クロであった。

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