ひかりの絵
鈴音
ひかりの絵
曇天の中、まもなく夜闇が訪れる黄昏を一人歩いていた。
ため息の中に混じる、嫌な記憶たち。話が伝わらない人間たちとやる仕事は、嫌だとか疲れるより先に、吐き気が込み上げてくる。きっと、ストレスだろう。
家に食べるものはあっただろうか。そういえば、洗濯物を干していたが、これから雨は降るのだろうか。あれこれと考えを巡らせても、頭には仕事のことしか浮かばない。
そもそも、上司が描けと言ったのを別の部署の人間が変更し、それを私に伝えないのか。報連相どうこうの問題じゃ……
いやいや、こうしてまた考えていると、気が滅入ってしまう。
平日なのに、随分と静かな住宅街に、私の足音だけが響き、また消えていく。なんと言えばいいのだろうか、寂しいと言えばいいのか、よくわからない気持ちになりながらとぼとぼ歩いていると、小さな公園にたどり着いた。
何も考えず歩いているうちに、いつもの帰り道から外れたのだろう。地図は無いかと首を回すが、見当たらず。しょうがないとスマホを取り出し、地図を開こうとした、その時。
公園の真ん中に、一人の女の子がいることに気づいた。
少女は、丈の余った大きすぎる白衣に色とりどりの絵の具をべったりと着け、真っ白なカンバスを前にぼーっと空を眺めて……いや、眺めているのは、カンバスではなくて、街路灯だった。
ぽかんと空いた口が、とても愛くるしい少女は、カチカチっと音を立てて光った街路灯を見て、一言呟いた。
「……ひかり。きれい、かわいい」
目を細め、楽しそうに笑う少女は、足元にあった工具箱から、何本かの筆とぐちゃぐちゃのパレット、それと近くの水飲み場から汲んできたであろう水を用意して、絵を描き始めた。
真っ白だったカンバスに、あっという間に色が増えていく。下描きなんて無いのに、筆は迷わず走り、一つ、また一つと、光のはじけるような球体がそこに現れていく。
その後ろ姿と、出来上がっていくカンバスに、自然と目が吸い込まれていく。少女自体はハチャメチャに動いているのに、空間そのものは静謐としていて、息をすることがはばかられる。
時間にして、十分も経っていないだろう。少女はぴたりと動きを止め、筆を洗わずしまう。
どす黒くなった水に手を突っ込み、空を眺めてから、淡い紺色の絵の具を指で掬い取り、一番大きな球の真ん中に指紋を残し、道具を全て片付け始めた。
そして、くるりと振り返り、不審者こと私を見つけて、首を傾げる。
「ね、なにしてるの?」
すぐに逃げようとした私を見て、少女は声をかけてくる。
私は素直に、君に見惚れて、絵を見ていた。と答えると、少女は嬉しそうに笑って、
「じゃ、このえをあげる。はい、どーぞ」
と、カンバスごと手渡してくる。ずっしりと手に伝わる重みと、絵の凄み。あんなしょぼい絵しかかけず、その上仕事の無茶振りもこなせない私は、今日何度目ともわからないため息を絞り出して、ありがとうと少女に伝えた。
「どういたしまして! じゃ、またね!」
走って立ち去ろうとした少女を見送り、手を振っていると、彼女ははっとした感じで、戻ってきた。
「さいん、したげる! またあおうね!」
わや。それが、彼女のサイン。可愛らしい丸文字が、カンバスの裏に堂々と書かれ、
「おねえさんも、おえかきするんでしょ? こんど、みせてね!」
と、私の手をぎゅっと握ってくる。その無邪気さと、彼女の後ろ姿に、好きなことをするのは、あんなに眩しいものなんだなと、他人事みたいな感想を抱いた私は、久しぶりに、仕事に関係の無い絵を描いてみることにした。
家に帰って、ご飯も食べずに、鉛筆を走らせる。大好きなサンリオキャラの立体フィギュアのデッサンは、昔からやっていたからか、久しぶりでも問題なくかけた。
それから、仕事で頼まれていたデザインイラストも一気に描きあげてみる。出来がいいかはわからない。結局は、あいつらの評価次第なことはわかっている。
でも、狭い部屋の一角にどっしり構える少女の絵が、そっと背中を押してくれたから、私は手を真っ黒にして、好きなことを、好きなようにすることにした。
ひかりの絵 鈴音 @mesolem
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