日陰の恋

月這山中

 


「彼が突然、私の脚を見て『醜い』と言って」


「傷ついた? いいえ、全く。冗談で言いあうこともあったんですよ、その程度のことは」


「私が気を遣われるのが嫌なことは知っていましたし、だから一緒になったのだし。でも、あの日は」


「私の脚を、ビニール袋に入れて、見たくもないって態度で……ええ、何も言わずに、一切、最期まであの人は声を荒げなかった」


「脚が無くても多少は動けるんです、私。気が付いたら掴みあいのようになっていて」


「それで」


 ◆


 三十一人の教室に放り込まれたあの日。

 同級生が順番に自己紹介をしていき、その頃の僕は考えて来た自己紹介の言葉を忘れないように、頭の中で予習していた。

 すでに幼馴染や仲のいい関係が出来ている者達がざわざわとお喋りをしている。

 声を張り上げなければ埋もれてしまう。


 前の席に座っていた女の子がよろめきながら立ち上がる。


 彼女自身がしゃべる時間は短かった。

 先生が、重苦しい雰囲気を隠すように言葉を続けた。


 彼女の右脚は膝から下が存在しないのだ。義脚はただ見ただけでは生身の足と区別はつかない。僕もその時まで気付かなかった。


 世界が止まった。ただ一人の女の子の、四肢が一つ足りないだけで雑談の声も止まった。

 恐ろしい沈黙に彼女はただ耐えていた。


 彼女の顔が見えたのはただの一度。こちらへ身体をひねって見えたわずかな表情。

 代わりに深い黒の中に混ざった鳶色の筋が、光の加減で浮かび上がる髪色が記憶にこびりついてる。


 真正面から見据えるには十二年掛かった。


 ◇


 あの頃の私の周りには、いつも誰かが居た。


 善意などではない。ただ、己が悪人になるのを恐れて彼らは近付くのだ。

 私の言葉を聞いた時の反応がその証拠だ。


「あなたに頼むことは、何もありません」


 新聞やテレビの取材が何度か家に来たが、断り続けると来なくなった。

 私が虐待を受けているのではないかと疑い相談所に電話した者が居た。

 両親は私と私達の暮らしを守るために戦っている。


 私の右脚。


 誰もが傾いだ立ち姿を支えたいと思うのだろう。

 だけどその時の私は独りで立てていたし、訓練を重ねれば誰よりも速く走れるようになれるとも言われた。

 支えて欲しいと思っていない時まで、私の言葉を遮ってまで、どうして彼らは触れてくるのか。


 彼らは気付いた途端、歩みを止める。


 そのうちに善人面するのをやめて、私の右脚を攻撃する者が現れる。

 私の態度を悪辣に真似る者も居る。

 それを受けて、私の周りに壁を作って彼らと敵対する者が現れる。


 私は困ってない。

 私の家族も困っていない。

 可哀想な存在などではない。

 それが真実だ。

 真実を守るための、私達の戦いだ。


 いつも胸の中には風が吹き荒れていた。


 ◆


 その頃の僕は、周りより自分は頭がいいと信じて疑わなかったが、それでも平凡な小学生だった。

 学年で習っていない言葉を使ってるのを先生に指摘され、クラスの笑い者にされても、傷ついてないフリが出来る程度には常識的だった。


 そうしていられたのも彼女に出会っていたからかもしれない。


 遠くから見ることしかできなかった。

 廊下を歩く時も、グラウンドに降りる時も、彼女こそが本来の地面を歩いていて、周りの人間は無理をして重力に逆らおうとして見えた。


 彼女は誰からも注目されていた。

 その頃から誰もが彼女を支える杖になりたいと思っていた。

 しかしそんなものは必要ないと、彼女自身が解っていた。


 無重力の宇宙空間では上下の区別もない。もしもクラス全員が放り出されたら僕を含めた三十人は大混乱に陥るだろうが、ただ一人彼女だけは落ち着き払って、凛と『正しい向き』で立っていることだろう。

 馬鹿馬鹿しいが、当時は本気でそう思っていた。


 ◇


 両親に連れていかれたお寺で、腰をかがめるあの女性の姿を忘れられない。


 無数の文字が書かれた丸太を摩る。

 それを回している「支援者」の顔は私を支える時の表情と同じだった。


 私の脚に経文は書かれていない。私が独りで歩くための私の一部だ。

 私を支えようとして来た大人は、皆同じ表情に見えた。

 母と父と話す時も彼女の言葉は空っぽだった。心なき信仰。自分が善くなろうとするためだけに、中身を知らないまま縋っている。


 数年後、彼女はどこかへと消えた。

 私からの御利益はなかったようだ。


 きっと私自身も、大事な何かを失った時、自分で自分を許せなくなった時に、からっぽの存在に縋る時が来るのだろう。

 私が信じていた『真実』は今や私にだけ重要なことで、だとしたら、これこそがそうなのかも知れない。可能性は否定できない。


 彼女がひどく可哀想に思えたし、両親も疲弊しつつあった。

 それからは、昔ほど大人達に当たらなくなった。


 ◆


 君と日陰の恋がしたい。


 ◇


「君と日陰の恋がしたい」


 そう告白されてからするりと事は運んだ。

 誰にも見つからず、祝福されず、ただひっそりと君の傍に居たいと。


 それは偽善ですらない、薄暗い独占欲だった。


 だから私は受け入れた。


 大学を卒業し、就職し、両親とも離れ一人で暮らしていて、生活に必要なことは少しずつ自分で出来るようになって、その面倒臭さの愚痴を言える友人も出来ていた。

 私の周りに人が居ない時はなかった。その中でも彼は妙な人で、周りの友人からは「ストーカー」なんて陰口を言われていて、ちょっと異常な執着ぶりだった。

 だから気が合った。


 風はまだ止んでいない。

 彼が近くに居るだけで、ずいぶん楽になった。


 ◆


 彼女の義足は精巧だった。


「ない爪先がかゆくなるんだよ、時々」


 日陰の恋。何も道徳に触れることはなかったのだが、それでも『日陰の恋』としか言いようがない。

 肩に手を置かせて支えると、彼女はいつもくすくすと笑っていた。


 注目を集めてしまう彼女が逃れられる日陰。

 隠れ忍び、素の姿で安心できる場所。

 その場所に僕が居てもいいだろうかと、そう伺い立てたのだ。


 そう、これは善意でも何でもない。

 彼女はそんな僕を気に入っているようで、ふたりきりの時は大きな声で笑った。


 ◇


 私に愛想をふりまくように指示したテレビクルー。

 言葉を切り貼りして意味を反転させた記者。

 私の理想を「それでは生きられない」と脅して、否定しようと躍起になった学生。

 あらゆる場所で一緒に過ごしたクラスメイトの、私の傍に居た子も、距離を置いていたあの子も。

 わかっている。

 本当は優しかったのだと。

 私が頑なで、言葉にするのも不器用で、だから傷つけてしまった。悪徳をさせてしまった。


 私の問題は見えている右脚だけではないのだと、とっくにわかっていた。


 特別な託児施設に居た頃、私には友人がいた。彼女は脳の一部の機能がうまく働かなかった。

 その頃の私はまだ大人に気に入られようともしたし、冗談に腹を抱えて笑うこともあった。


「脚も脳も同じ」


 そんなことを、彼女とはよく話していた。


 あの日は職員がなかなか来なかった。

 私の服を引っ張る彼女の手をどうにか抑えて、彼女の体を抱きしめた。

 痙攣するあの子の体は普段とは別人のようで恐ろしかった。


「収まって。誰か来て、誰か!」


 小さな爪が私の額を掻いて、赤い血が散った。

 それから私達は、部屋を離された。


「同じじゃなかったね」


 私の唯一の友達は、そう言って去ったのだ。


 勝手に遠い記憶を掘り起こした頭を殴りつける。

 暗い寝室で、隣にいる彼を起こさないように、暴れまわる心臓を抑えた。


 私が余計なことをしたせいだ。

 危険なのは私だ。

 自分を顧みない、私が悪かったんだ。


 私が恐れていたのは。


 ◆


 いつからだろうか。

 家に立ち代わり訪れる彼女の友人を、介助人を、両親を、疎ましく思い始めたのは。

 僕と二人きりでいる時よりも、大きな笑い声が隣部屋から聞こえてくる。


「だって、いつも頼りたくはないよ。あなたにも気の休まる時が必要だし」


 僕は彼女の唯一の杖だと思っていた。

 そうではなかったらしい。


「あなたに気を遣わずに、お風呂に入りたい時だってあるし」


 これはいいことだ。彼女が安らげる場所が増えることは。

 考えてはいけない。

 思ってはいけない。

 裏切られたなどとは。


 義足にすら嫉妬している自分を醜く感じた。


 ◇


「緊張しながら話さないといけない相手なんて誰が好きになると思うの」


「僕のことか。それは。だったら、謝るよ」


「違う、違うの」


「……ごめん。何が違うのか教えてほしい」


「あなたはただ、私をあらゆる存在から遠ざけて、私が動けなくなるように仕向けただけ。あの可哀想な人達と同じ」


「誰の話だよ。誰のことを、言ってるんだ」


「よかったの、今まではそれでも」


「ごめん」


「謝らないで、そうやってすぐ、自分のせいにしてしまう」


「なにを……」


「少なくとも、私はあなたが見ている理想には応えられない。あなたを、あなたを物のように扱う事なんて」


「介助ならいいのか」


「そういうことじゃないの」


「僕はただの杖で居たかったんだ。君の」


「そうね、ただの杖だったら恋なんてしなかった」


「………醜い」


 ◇




「いいえ、この罪は私だけのものです」



 了

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