第1話 赤竜の鱗 1

 三年後――。

 日本某所。政令指定都市。


 大学卒業後二年間勤めた会社を退職して一年、気がついたら探索者ランクがCになっていた。

 そもそも探索者になるつもりで仕事を辞めたわけではなく、求職中の日曜に探索者協会の近くを偶然通りかかったら、講習会の定員に空きがあると制服を着た女性に声を掛けられた。


 講習会を受けても、最初に獲得するスキルが探索者に向かずに泣く泣く諦める者もいると、以前にどこかで聞いたことがあった。

 それ以前に、探索者になる気など一切無い人間も多数参加していたはずで。

 会社の同僚も休日に受講し、【回避】と【水上歩行】とかいう日常生活に役立つような役に立たないようなスキルを取得していたのを思い出し。


 暇だからまあいいか、と。

 これも何かの経験だ、と。

 軽い気持ちで参加した結果。


 貸し出されたナイフで、どこのゲームキャラだと突っ込みたくなる外見と名前のモンスター、スライムを一匹潰した瞬間。

 俺の目の前の半透明のボードに、【短剣術】の文字が浮かび上がっていた。


 黙って帰れば良かったものを、近くにいたスタッフに「こんなスキルが出たんですが」とうっかり質問したばかりに。


 探索者にまったく興味のなかった俺は、何が使なのかも、それが出る確率がどれほど低いのかも知らなかった。


 そうして、人生が変わった。


 あの時、講習会に参加しなければ。いや、日曜の午前中にダンジョンの近くなんか散歩しなければ。


「……こんな低層でドラゴンを見る羽目になることもなかったよな」


 ここは十五階層。

 ドラゴンがいるのは百階層。日本中、どこのダンジョンでもそれは共通。

 ドラゴンが低層に突如出現するなどという異常事態が起こるとは、さすがは氾濫現象の真っ只中。


 周りには探索者が二十人程度いる。いるにはいるが、俺と同じように呆然と中空を見上げたまま動かない。


 岩だらけの高すぎる天井近く、突然展開した魔法陣のような模様の中心からは、最初に巨大な赤い足、次に胴、そして長い尻尾がゆっくりと下りて来ていた。


 大きすぎる鱗だらけの赤い爬虫類。頭がまだ出ていなくてもわかる。


 この街の探索者協会支部のビルの三階にある資料室で見た、アメリカで撮影された写真とあらゆる特徴が一致している。


 生きて帰れる気が、これっぽっちもしない。


     ◇


 一分前のことだ。

 協会職員が一階層でスキル【拡声】を発動した。

 協会職員の必須スキルと言われているが、実際に使用することは滅多にない。

 どの階層から叫んでも、ダンジョン内の全階層に声を響かせることができるという、嘘みたいな放送用スキルだ。

 これの使用が許可されるのは氾濫現象が起こった時のみ。


『氾濫現象発生! 氾濫現象発生! ランクE以下は五階層まで撤収! ランクC、ランクDは二十階層まで潜行! ランクB以上は二十階層から核モンスター捜索開始!』


 ダンジョンのモンスターは常に間引き続けなければならないらしい。


 モンスターが一定以上溜まると、何らかの要因により、普段は階層移動をしないはずのモンスターが階段を昇り始めるからだ。

 ついでに凶暴化までする。ただフロア内を彷徨うろついているだけのモンスターが一斉に上層を目指す。

 過去に何度か海外でモンスターが一階層から外界に出た事例があり、対抗手段を持たない一般人が犠牲になった。

 現在では、ダンジョンの半径五百メートルはランクD以上でなければ居住できないと世界基準で決定されているが、住まなければいいだけのことなので、当然、何かの理由で行き交う人は存在する。一体でも外にモンスターを出してしまえば大惨事が待っている。


 市内にダンジョンは三箇所。特にこのダンジョンは中心部にあり、オフィスビルの狭間に入口がある。

 水曜の夕方。外には無数の一般市民がいる。


 氾濫現象が起こった時、探索者にはモンスターを外に出さないよう抑えつつ核となった特定のモンスター一体を見つけて討伐する義務が発生する。

 何故特定の一体を倒せば氾濫現象が収束するのか、今のところ解明されてはいないが、メカニズムなんぞ居合わせた探索者にはどうでもいいことだ。


 俺も今、心底、どうでもいいと思っている。突然頭上から寒気のするようなおぞましい気配を感じ、振り仰いだ天井に、直径十メートル以上はある魔法陣のような物を見た瞬間から。


     ◇


 いつものようにダンジョンに潜り、なんとなく今日は十階層からスタートし、十五階層の中央にある、常にモンスターがいないレストエリアに到着。

 このダンジョンでは十五階層と二十五階層に存在していることまではわかっている。

 広めの空間は、まるで人間が休憩するために用意されたかのようで、モンスターが足を踏み入れることはない。


 適当な岩場に腰を下ろし、バッグからミネラルウォーターのペットボトルを取り出した時、探索者になって初めて【拡声】の発動に立ち会うことになった。


 これが【拡声】か、と、わざと自分を落ち着かせるために感慨深げに心の中で呟いてはみたが、効果なし。心臓の音が聞こえる。耳鳴りもしてきた。


 それでもアナウンスに従い二十階層目掛けて移動しなければ、と思ったまでは良かった。緊張はしていても立ち上がることはできた。


 そして不意に上を見上げて。動けなくなって今に至る。


「でもまあ、黙って見てるだけだと絶対に生きて帰れないしな」


 この一年でいくつか増えたしょっぱいスキルと、多少上がったレベルでどこまで通用するか。


 両手の短剣をしっかりと握り込み、深く深呼吸をした。


 と。

 ついにドラゴンの頭が現れた。

 鱗だけでなく、縦長の瞳も赤い。

 皮膚が粟立つ。目を見ただけで全身に奮えが伝播する。

 絶対に勝てない相手を前にした時、人間にもそれを察する本能は残っているらしい。


 ドラゴンは全身を覆う防御スキルを常に展開している。資料で見た。

 普通に斬り掛かっても弾かれるだけ。全力で全てをぶつければ、多少の傷くらいは付けられるかもしれない。


 その爪が掠っただけで俺達の身体は真っ二つになる可能性が高い。あの大きな前足の動きは時速に換算することすらできなかったらしいが、射程に入らずに有効なダメージを与えるにはどこを狙えばいい?


 生物である以上、後ろ脚の腱を切られれば動きは鈍るだろう。

 初撃で広範囲の魔法を放たれたらそれまで。本当ならまだこの階層に出現中の今、どこかを狙うのがベスト。ただ高すぎる。

 あんな高度に跳び上がるスキルも、あの高さまで届く攻撃手段も俺は持ち合わせていない。


 それでも向かって行くしか選択肢がない。逃げ場がないことだけは分かっているから。

 俺は奥歯を痛いほど噛み締め、両手にもう一度力を籠める。

 不意に、しばらく帰っていない実家の両親と妹の顔が思い浮かび、そしてすぐに消える。感傷的になっている場合でもないし、この先どうなるのか俺にも想像がつかない。


 周りの奴らもそれぞれに覚悟を決めたらしい。

 と言っても、たまたまこのレストエリアで出会でくわしただけの関係だから、連携が取れるはずもない。ランクもばらばら。名前も知らない奴ら。


 それでも誰もが同じ結論に達したはずだ。

 あれが今回の現象の核となっているモンスターだ、と。


 核モンスターは稀に、氾濫現象の発生と同時に階層を転移することがあると聞いた。実際に目撃した生存者の証言で、海外で二度確認されている。

 つまり、突然テレポートして来る強力なモンスターに対応できた事例は、たったの二件ってことだ。


 短剣なんぞというリーチのやたらと短い武器の扱いが上手くなるスキルを最初に引いた俺は、探索者になると決まった時、真っ先に魔法の取得を目指した。

 千ポイントも必要なコストの馬鹿高いスキルだが、ガキの頃からの習性で勤勉にポイントを稼いで【水魔法】を覚えることができた。

 まあ他にも一人で活動するにあたって協会が勧める【地図】やら【時計】やら、細々したスキルを取っていたためにかなり遠回りはしたが。


 探索者のステータスはレベル表記があり、スキルポイント制ではあるが、馴染みのゲームのようにHPやМPの表示がされるわけではないし、INTがどうとかいう能力値もない。

 いっそ全部数値化してくれよと思わないでもないが、スキルだけは厳格に数字で管理されている。


 モンスター討伐で得られるのも数字、スキルを取得するのも数字。更に、スキル自体にもレベルがある。

 熟練度に応じてレベルが上がるらしいが、そこのところの細かい数値は非表示。


 とりあえずモンスターを倒せばステータスレベルもスキルレベルも上がる。

 深く考えずに突き進むのが一番正しいらしい。


 取得までに時間のかかった【水魔法】は、残念ながらまだLv15。

 探索者になった日から使い続けている【短剣術】が既にLv83。

 比較にもならない。完全に基礎の基礎だ。

 こんなことなら【地図】は後回しにしておくんだった。


 そんなことを考えている間に、ついにドラゴンの全身が魔法陣から抜け出た。

 と同時に。


 ドラゴンを吐き出したことで消えかけていた魔法陣から、何か小さな物が飛び出した。


 いや、ドラゴンと比較するから小さく見えただけだ。何メートルあるのか知らないが天井が高すぎるのも悪い。いつか【測量】も取得すべきかとしれない。


 あれは人間だ。

 それも、黒っぽい湾曲のある長い何かを片手にした人間。


 とんでもない速さで落ちて来る為、最初は姿をはっきりと捉えることができなかったが。

 見る間に近づくそいつは、どうやら女性のようで、右手にあるのは抜き身の大太刀。


 次の瞬間。

 見間違いでなければ、そいつは大きく振りかぶり。


 そして、巨大なドラゴンの首が落ちた。


「……は?」


 間抜けな一音しか発せられなかったのは、俺のせいじゃないと思う。

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