第54話:みゆきちゃん退職

 その日の夜、清川真理は事務員を隣町のビジネスホテルの1室に呼び出した。清川真理の自宅にも訪ねてくる債権者が多く、居られなくなった。しばらくはホテル住まいと決めたのだ。


 事務員は衰弱した表情で、指定された部屋のチャイムを鳴らした。もっと衰弱した表情の清川真理がドアを開けた。廊下の左右を確認するように首を振り、部屋に入れる。

 シングルベッドの他に、小さなテーブルと、それに対になっている椅子が1つと、化粧鏡の前にも椅子が1つある、狭いシングルルームだった。

 打ち合わせに使うような部屋ではない。何とか工夫して、小さなテーブルに向かい合う形で椅子をセッティングして腰を下ろした。


 ホテルの試供品のティーパックを手に取り、コーヒーを淹れる。


「専務の淹れたコーヒー、美味しいです。今日の仕事やっと落ち着いたって感じです」


 事務員はコーヒーカップに口を付けた。


「みゆきちゃん今日、ごめんね。大変だったでしょう」

 

 清川真理は頭を下げた。


「もうそれは大変ですよ。来客中もずっと電話鳴りっぱなしで。下請けの工務店の社長、激怒していましたよ。コピー屋さんも、何かいつもと態度が違って、超ムカつくんですよ」


 重たい空気に耐えられないのか、この場を何とか活気のある場にしたいのか、清川真理を励ましたいのかは分からないが、事務員は普段通り、明るく元気に答えた。そんな気遣いが余計に辛かった。


「で、会社どうなっちゃうんですか? バカな私でも、何かヤバそうなのは分かりますよ」


 清川真理は一度瞬きをして、床に目を伏せた。

 数秒間沈黙が続いたのちに、重い口がゆっくりと動く。


「そのことなの……、みゆきちゃん、落ち着いて聞いてくれる」


 明るく振る舞っていた事務員の表情は、上司から指示を貰う、勤務中の表情に変わった。はい、と返事をし、清川真理を見つめた。


「今日、1回目の不渡りを出したの。来月2回目の不渡りを出して、銀行取引が停止になるの。事実上の倒産よ、もう万策尽きたから決定事項なの」


 事務員は、倒産、という言葉に目を大きく見開いた。


「不渡りの噂は、すぐに広がるから…… 日を追うごとに、この事実を知った取引企業が、会社にどんどん押し寄せてくると思うの。みゆきちゃん、もう会社に行ってもただ煩いだけで、何の業務も出来ないから、明日から出勤しなくてもいいわよ」


「いや、急に言われても……、会社に私物もあるし……」


 清川真理は、静かに微笑んだ。


「みゆきちゃん、ディスクの引き出しに、お菓子とか、化粧道具とかいっぱい入れているしね。会社のパソコンの中には、彼氏の写真や動画なんかも保存してあるしね。明日出勤して整理しなさい。それで終わりにしましょう」


 事務員は、頭を掻いて微笑んだ。勤務中にこっそりと、彼氏の写真や動画を観ていた事がばれていたことに、照れていた。

 清川真理は茶色い長型封筒をハンドバックから取り出し、小さなテーブルに置いた。事務員の前に、すっと滑らせた。


「これ、少ないけど受け取って……」


 事務員は手に取り中身を確認した。帯封の付いた100万円だった。


「こんなのいいですよ、貰えませんよ、専務の方が今は大変なんですから」


 手に持っている茶色い長型封筒を清川真理の方に差し出した。


「全然足りないと思うけど、退職金と明日までの給料よ。今ウチの会社に出来る精一杯なの。素直に受け取って」


 事務員は差し出した手を自分の膝の上に、そっと戻す。清川真理は、今度はビジネス鞄から、自社の角型封筒を取り出した。


「この中に雇用保険の申請書類が入っているわ。会社が記入するところは全部書いたから、あとは、みゆきちゃんが必要なところに署名して、ハローワークに持って行くんだよ。日当の50日分くらい貰えると思うからね。あと、所得税や市民税等の納付証明書なんだけど、いま会計士が計算しているから、数日中にみゆきちゃんの自宅に、会計士事務所から郵送で送られてくるわ。次に勤める会社に持って行くんだよ。厚生年金と社会保険の関係は、社会労務士からみゆきちゃんの携帯に連絡が行く手筈にしたから、その人とよく相談するんだよ。関係機関の連絡先とか担当者とか必要な情報は、数枚の紙にまとめてあるから、自宅に帰ったらよく見るんだよ。間違うんじゃないよ、分かった」


 角型封筒を手渡した。事務員は中身を確認することなく、両手で強く封筒を胸で抱きしめた。


「いま専務……、すごく大変な時なのに、私の為に、ここまでやってくれたんですね……」


 事務員は目に涙雲を浮かべていた。


「みゆきちゃん、高校卒業してから5年間も、ウチみたいな小さな会社で働いてくれて、ありがとうね。本当に助かったし、感謝しているの。明日でお別れだけど……、私が考えていた、みゆきちゃんがウチを退職する時って、あなたの結婚式で、とても綺麗で、華やかで、めでたくて、幸せな時に、今までの感謝の気持ちを、私なりに精一杯言いたかったの。2次会も3次会も出席して、あなたの若いお友達に混じって、1人ババアが混じって、バカ騒ぎしている友達から1人浮いていても、最後の最後までその場にいて、ずっと祝福し続けようと思っていたの。でも、実際はこんな別れ方になって、すごく悔しいけど……」


「専務……、私の方こそ、同級生の中で給料良くて、有給たくさん取れて、仕事もたくさん任されて、やりがいがあって、すごく感謝しているんですよ……」


 号泣しながら立ち上がり、椅子に座る清川真理に抱きついた。事務員はそのまま胸に蹲るうずくま。清川真理は両手で、乱れた頭を抱きしめた。


 数分なのか、数十分なのか、強く頭を抱きかかえた後に、2人は見つめ合う。事務員の目から流れる大粒の涙を、親指でそっと拭き取った。


 そして顔を近づけ、静かに唇を合わせた。

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