第51話:1410室

 それから何の音さたもなく、時は7ヵ月も流れ、12月になった。


 前触れもなく真理から、12月15日に思い出の温泉を予約したの、と4日前に電話が着た。突然の事に、急にどうしたのと、龍一が聞く。何となく温泉に入りたくなったの、奢るから行こうよ、と言われた。

 その不自然に明るく話す声に、多くの事を詮索する。


 龍一はバスに乗って温泉に向かっている。真理は近くに用事があり、直接行くので、現地集合になっていた。

 車窓は去年と何も変わっていない。時が止まっているかのようだった。違うのは、真理は今、どこに住んでいて、何をやっているのかが分からないことだった。元気な顔を見られるだけで嬉しい。まだ自分のことを覚えていてくれただけでも嬉しい。

 

 しかし、心の奥底の中には、無意識のうちに、約7カ月振りにセックスが出来ることに、性的興奮を覚えているのではないかと、自分で自分自身の心の中を詮索し、自戒させようと努めた。


 

 温泉旅館に着きフロントで、木戸龍一です、と告げると、1410室と言われる。前回と同じ部屋だった。フロントマンはカードキーが無いことに気づき、宿泊者名簿を見る。お連れ様はもう到着されているようですよ、と言われた。


 約束の午後7時には20分早かったけど、真理は浴衣姿で洋室のソファーに座りテレビを観ていた。テーブルにはケーキにフライドチキンにドンペリにワインが並んでいた。まるでクリスマスパーティーのようだった。

 龍一の顔を見た真理は、早かったね、と立ち上がり、抱き付いてキスをしてきた。

龍一はわざとらしくテーブルに目をやり、これまたわざとらしく驚きながら、今日は何の日かを尋ねた。

 頬を弛ませて、急にパーティーをやりたくなったの、とそそくさとソファーに座わった。


 龍一は先に風呂に入った。ベランダにある客室露天風呂だ。身体を温めた。その間に部屋食が和室に運ばれてきた。急いで湯から上がり、和室のお膳を洋室に運び直した。


 ドンペリで乾杯をして食事が始まった。

 

 真理は終始笑顔だった。いや写真を撮る時に作る誇張された笑顔で、フライドチキンを手に取り、思い出のチキン! と言いながら、リスがドングリを食べるように、極端な動作で食べていた。


「言いたくなかったらいいんだけど、今どこに住んでいて、何をやっているの?」


 龍一は、不躾ぶしつけとは思いながらも、近況報告の話題が全くないのは逆に可笑しいと思い、何気に聞いた。


「住んでいるのはこの近くで、仕事は何もやっていないよ」


 真理は、意外なほど呆気らかんと話した。

 龍一も創作状況や最近感銘を受けた小説など、近況を報告した。真理も小説を少しずつ書いているらしかった。

 

 龍一は何気ない会話から真理の心情を探ろうとしていた。1時間も雑談をしていると、真理の笑顔がどんどん薄らぎ、同時に深刻さが増して行った。


「今住んでいる所から、明後日、夜逃げするの……」


 と深刻に言い、顔を引きつらせた。

 数十秒後、水銀灯に電気が点くように、徐々に明るく元気な表情に戻り始めた。

 龍一は大きな目をさらに大きく開いた。失礼なのは承知の上で、矢継ぎ早にいろいろ質問をした。

 真理は、少し表情を曇らせてうつむき、頷くだけで何も話さなかった。落ち着いたら手紙を書く、ということで話を纏めた。龍一も真理の今後の身の振り方について聞くのを止める。

 そして、今まで一緒に過ごした想い出を賛美した。


「今日12月15日を、私達のクリスマスにしようよ! そうすれば同じ人と3回もクリスマスを迎えるのは、今までで龍一ただ1人なの」


 真理は自分にエールを送っているかのような黄色い声を上げて、今度はワインのコルクを抜き乾杯をした。

 落ち着く間もなくテーブルの下に置いてあったラジカセの再生ボタンを真理が押した。


 当然のように『クリスマスキャロルの頃には』が流れた。


 龍一も真理も沈黙し、目に涙雲を溜めて、酷く汚れた安物のラジカセを見詰めながら、ワイングラスを傾けていた。


 今日ほどこの歌詞が心に重く響いた時はなかった。

 

 リピート機能で繰り返し何度も聞いた。感極まり2人で露天風呂に入ると、去年と同じ大粒の雪がゆらゆらと天から舞い降りてきた。

 2人も去年と同じ気持ちで、力を合わせて、この難局を乗り越えられるのか、と、大粒の雪に尋ねられているようだった。

 

 今夜中にその答えをだせ、と選択と決断を今すぐ促すように、古びた温泉街をけがれの知らない純白無垢な雪が、柔らかく繊細な白銀の世界に塗り替えて行った。


〈完〉

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