第32話
「斧か?」
声を上げたのは、オヤジさんだった。
「この丸太の下で見つけたんです。おそらく、盗伐者の物だと」
斧は柄の長さが五十センチはある。刃もがっしりとして太い。使い込んだものらしく、持ち手が当たる部分が茶色く変色している。
いい斧だと、健介のような素人でもわかった。ホームセンターで売られている斧とは、風格が違う。
「――これは」
オヤジさんが、斧を手に取った。
「和鉄に玉鋼を割り込んだ、本格的なもんや。なあ、社長」
と、社長に見せる。社長は刃の部分に掘られた文字に目を凝らした。
「重いなあ。こりゃ、相当ええもんや。斧菊琴の判じ物も掘られとる。それに、銘もな」
社長はそう言って、ふとに黙り込んだ。
社長とオヤジさんが、顔を見合わせる。
「どうしたんですか」
佑樹が斧に顔を寄せた。
「僕らにも見せてください。いい斧を見るのは勉強に」
そこまで言ったところで、オヤジさんが小菱田を振り返った。オヤジさんの目が、射るように小菱田を見据えている。
「あんた、忘れもんをしたんと違うか?」
小菱田がうっと呻いた。
「これは、儂の記憶では、あんたの斧やないかと思うが。あんたの道具には菱の銘が彫られとると、儂は記憶しとったが」
「どういうことや、小菱田さん」
社長が小菱田に詰め寄る。
「ここは盗伐のあった場所や。そんな場所になんであんたの斧があるのか、納得のいく説明をしてもらえんか」
「いや、待ってくれ。あんたら、わたしが盗伐の犯人やと言うんか?」
オヤジさんが、ゆっくりと頷く。
社長が覚めた声で言った。
「あんた、森林組合の、年間の賦課金を滞納しとるらしいな」
「なんで、社長さん、そんなこと知っとるんや」
「あんただけやないからや。森林組合では頭を抱えとるらしい。滞納者が年々増えとってな。組合のほうでも、対策を練らんとあかんちゅうことで、個別に調べ始めたようや。それで、あんたの山について訊かれた。あんたのとこの山のすぐ北には、うちの管理地があるからな」
小菱田が目を剥いた。その表情は、いままで健介が知っていた小菱田とは別人のようだ。
「ちょっと待ってください。わたしの山も盗伐に遭ったいうのを忘れてもらっちゃ困る。馬鹿馬鹿しい。自分の山に盗伐に入る者がおりますか」
三人の会話に、健介は何か引っかかるものを感じた。
「そうやったな。自分の山の木を盗む男がおるはずない」
バツが悪そうに、社長が呟く。
「だが、そんなら、なぜここにあんたの斧が」
オヤジさんは納得がいかないようだ。
「それは、それは多分、山の見回りをしとるときにでも落としたんやと」
「山の見回り? あんた、見回りするのに、こんな重い立派な斧を持ち歩くんか?」
不審そうなオヤジさんの目つきに、小菱田の表情が変わった。
「わたしは村のために骨身を惜しんで働いておる男や。それだけは認めてもらいたい。そんな男が、人の木を盗むと思うか?」
「そうやな。悪かった。儂らが言いすぎた」
社長が謝る。
佑樹が割って入った。
「もう、いいんじゃないですか。早く虎太郎を探しに行きましょう」
「そうですよ。こんなところでグズグズしてる暇はないです」
美月も声を上げた。
「誤解が解けてくれれば、何も言うことはありません」
何か、引っかかる。なんだ?
何が気になる?
小菱田の穏やかな横顔を見つめた健介は、そしてあっと小さく叫んだ。
「待ってください」
全員が健介を振り返った。
「小菱田さん、言ってましたよね。イノシシの箱罠を二つ置くのがポイントだと」
「何の話だ?」
オヤジさんが、訊いた。
「さっき、義父の家を見回りに行ったとき、小菱田さんが教えてくれたんです。イノシシの箱罠を置くとき、どうすればイノシシは騙されるかというのを」
「そりゃ、小菱田さんが箱罠作りの名人やいうのは、この辺りで知らんもんはおらんが」
「小菱田さん、言いましたよね? 仕掛け糸も蓋も付けない、ダミーの箱罠を置けば、イノシシは騙されると」
「それが、なんやと」
小菱田が健介を見据える。
「小菱田さん所有の山の盗伐は、罠のない箱罠と同じなんじゃありませんか?」
「あっ」
叫んだのは、美月だった。
「もしかして、自分のした盗伐をカモフラージュするために、自分の山も盗伐されたかのように見せかけたって、こと?」
健介は頷いた。
全員の目が、小菱田に注がれる。
「もしや、小菱田さん」
佑樹が顔を歪めた。
「あなたがイノシシの骨を置いたんじゃ」
ビクッと、小菱田の肩が揺らいだ。
「――なんのために」
「今、思い出しました。盗伐に遭った小菱田さんの山に行ったとき、イノシシの骨を見つけたときです。これは山拐の仕業かもしれないと言い出したのは、小菱田さんだった。あれは、山拐が現れたかのような錯覚を起こさせるためですよ。そうすれば、人は恐れて盗伐された場所を詳しく調べないだろう思ったんじゃないですか」
チッと佑樹は舌打ちした。
「僕らはすっかり騙されましたよ。山拐の影に怯えるようになってしまって、奇妙な幻覚を見たのも、山拐のせいだと思い込んでしまった」
小菱田の顔色が変わった。
冷静な佑樹は、そのためかえって、静かに小菱田を追い込んでいくように思える。
自分も小菱田に踊らされたのか。健介は唇を噛んだ。
神尾井の人々が奇妙な伝承を信じていると、初めに健介の耳に入れたのは、小菱田だった。小菱田自身は、さりげなく何度も否定しながら、山拐の伝承を健介に伝え続けた。
小菱田にとって、山拐伝承が信じられたほうが、都合がよかったのではないか。
「あんたほど、イノシシを捕獲できるもんは、この辺りにはおらん」
オヤジさんの呟きに、社長も同意する。
「骨を手に入れるのは簡単やったはずや」
「なあ、小菱田さん」
社長が体を小菱田に向けた。
「林業の苦労を、あんたはようわかっとる人のはずや。そんなあんたが、儂らがいちばん困る盗伐を。なんでや」
小菱田が肩を落として俯く。
「木を盗まれるいうことが、どれだけ山仕事に就いとるもんにとって痛手になるか、あんた、わからんはずがない」
「そうです。よくわかってますよ」
小菱田が顔を上げた。
「だが、どうしようもなかった。わたしのような小さな山主では、手間暇かけて木を育てても、思ったように利益は出ない。その上、四年前の豪雨で商品価値のあった木がやられた。毎年の固定資産税も重荷になって、借金が増えていった。首でもくくろうかと悩んでいたとき、いろんな土地を渡り歩いて仕事をする伐採業者に話を持ちかけられたんや。盗伐すれば、借金から逃れられると。自分の山も盗伐されたとすれば、疑われることはないと」
小菱田の声が震えた。
「イノシシの骨を置いたのは、山拐の仕業と思わせれば、みんなの注意がそれると思ったからです」
「でも」
美月が声を上げた。
「あの、骨についてた歯型。あんな歯型、どうやってつけたの?」
「歯型?」
「それに、崖地にあった骨。あんなところにどうやって置いたんですか」
小菱田が顔色を変えた。
「わたしが村のみんなを惑わそうとして、イノシシの骨を置き、山拐のせいにしようとしたのは事実だ。だが、わたしは歯型など付けた覚えはないし、崖地へ骨を置いた覚えもない。大体、あんな崖地に行ったら、落ちて死んでしまう」
「じゃ、誰が」
美月が声を震わせた。
「――ほんとに、いるの? 山拐……」
「まずいよ。だとしたら、虎太郎とおじいは、山拐にやられたんじゃ」
秋生がオヤジさんに顔を向けた。
「まさか」
オヤジさんはそう言ったきり、黙り込む。
健介は踵を返して、車へ向かった。
「西尾さん、どこへ行くんですか」
社長が声を上げた。
「すみません。ちょっと車を借ります。村に行って、すぐに戻ってきます。それまでここで待っていてもらえませんか」
「あんた、何をしに村へ」
「頼みます。すぐ戻りますから」
健介はそれだけ言って、車に乗り込んだ。
山拐と対峙するには、武器がいる。
健介は総一朗の持つ刀を手にするために、村へ引き返した。
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