第30話
翌日、朝いちばんに丸橋林業を訪れた健介は、オヤジさんから、虎太郎の家が無事だったと伝えられた。
「あの家が残ったんは、奇跡と言ってもええ。数メートル先の家は、下敷きになったらしいからな」
詳しい状況が明らかになりつつあった。オヤジさんが集めた情報によれば、神尾井村の土砂崩れで崩壊した家屋は、二軒。老人一人が死亡したという。
小菱田の家も無事だとわかった。
「亡くなった人は気の毒やが、虎太郎が助かって……」
言葉を詰まらせたオヤジさんは、首に巻いたタオルで顔を拭った。命の値段は同じだが、若い者の死は一層こたえる。健介も胸の中で合掌した。虎太郎が生きていた奇跡に、ただ感謝したい。
ただし、丸橋林業としては、深刻な問題が勃発していた。管理をまかされている山が土砂崩れを起こしたらしいと、消防から連絡が入ったのだ。正確な情報ではないが、過去の経験から、昨晩の雨の量では、土砂崩れを起こしている可能性が高い。
間伐に向かうはずだった、ゆこあみ組と健介は、予定を変更して、社長とオヤジさんとともに、管理地の見回りに出かけることになった。
管理地へ行くには、神尾井村を通る。村に着いたら、羽矢子の生家の見回りに行かせてもらう了解を取った。義父夫妻は町の病院にいるため安心だが、家屋がどうなっているか確認したい。
虎太郎を覗くゆこあみ組は一台のトラックに乗り、健介は社長とオヤジさんが乗るバンの後部座席に乗った。
トラックのワイパーに残っていた雨の雫も、すっかり乾いている。道端の常緑樹の葉が、生き生きとして見える。
途中、いたるところに、昨夜の豪雨の爪痕が見られた。爪痕は、町のはずれへ向かうにつれてひどくなった。県道から見える家々は、背後に山裾を控えている。家屋が壊れないまでも、道に水が溢れた痕や、土砂でふさがれた畑がいくつもある。
山に入ると、更に状況はひどくなった。倒木が道を半分塞いでいる。大きな岩が転がっている。土砂でガードレールが歪んでいる場所もある。
車は一つ目の山の峠を越し、ふたたび登り、やがて曲がりくねった山道の合間から、神尾井村が見えてきた。
静寂を乱しているのは、段々畑の脇に並んだ数台の消防車とパトカーだった。
村の左手にある、なだらかな山の裾野に、土砂崩れが発生していた。その周りには、救助する消防隊員が数十人集まっている。
壊れた家屋の横にはビニールシートが掛けられていた。農機具を入れる小屋があった場所らしい。
倒木が数本、扇状に広がり、消防隊員が木を乗り越えて進むのが見える。
救助関係者の邪魔にならないよう、被害のなかった右手の畑の横に、トラックが停められた。
健介だけが先にトラックを降りた。オヤジさんと社長、そしてゆこあみ組は、虎太郎の家を見舞うという。あとで合流すると約束して、健介は義父母の家へ向かった。
羽矢子の生家は、尾鷲に来たばかりのとき、総一朗の病院から、小菱田に連れてきてもらって以来だった。道は間違えようがなかった。村のすべての家が、山の中腹に建てられている。目印となる小屋や庭木を憶えていれば、下から見分けがついた。
記憶にあるグミの木が見えた。羽矢子の生家だ。土砂崩れの被害はなさそうだ。
念のため、段々畑を登り、家の前まで行ってみる。
雨戸を締め切った家も、前庭の畑も、目立った損傷はないようだった。裏へ回ってみた。山から水が流れ、足元はぐずついていたが、崩れているところはなさそうだ。
よかった。
健介はほっと胸をなで下ろした。
義父母たちにとって、この場所は心のよりどころのはずだ。今日中に病院へ報告に行こうと思う。
家の前へ戻り、段々畑を下ろうとしたとき、健介を呼ぶ声がした。声のしたほうへ顔を向けると、下の道で小菱田がこちらを見上げていた。
「ご苦労さんです」
挨拶は受けたものの、小菱田の悄然とした様子に、健介は胸を打たれた。小菱田の家は被害に遭わなかったと聞いているが、村で一人死亡者が出ている。村の世話役をしている者として、ショックは大きいはずだ。
悔やみの言葉を口にし、健介は小菱田と肩を並べた。小菱田は世話役として、今朝は未明から村を見回っていたのだいう。
「土砂崩れのあった場所は、道路の建設予定地でした。奥にあるダムへ通じる道を造るんやそうです。だが、ダムへ行く道は、反対の山からの立派な道路がもうすでにある。それを、なんで無理して神尾井を貫通する道路が必要やったのか」
「土砂崩れは、その工事のために起きたというんですか」
「要因の一つでしょう。硬い岩盤を慣らして造る場所ばかりやなかった。なるべく体裁のいい道を造るために、盛土をした箇所もあったはずです。盛土は崩れ易い」
数羽の鳥が、段々畑から飛び立った。村は朝日を浴びて輝いている。
「何度も話し合いが持たれまして。その度に、役所のほうも丁寧な説明をしてくれたんやが、工事を断念する気はなかった。土木業者が強引でしたからな。政治家もからんどるようでした。それに、建設予定地となった山主が、両手を挙げて賛成しましたから」
この静かで美しい村に、様々な思惑が絡んでいたらしい。
「山主の気持ちもわからんではありません。西尾さんも丸橋林業で仕事をなさって、林業の実態が少しはわかってきたんやないですか」
「はあ、まあ。いろいろ聞いてはいます」
山の暮らしが、様々な矛盾をはらんでいるのは、ここ四ヶ月ほどの間に何度も耳にしてきた。
「山には、材木という財産があった。ところがその価値が下がり、山主にとって、山はお荷物と成り果てとるんです。何もしない山には、何の価値もないといっていい」
神尾井に来て以来、山の素晴らしさに触れてきた。その山が、存在するだけでは価値がないとは思えないが。
「山を維持するには、ものすごう費用がかかるんです。ただ木が植わっとるだけだは、何も生み出してくれん。下世話な言い方ですが、飯の種にならんいう意味です」
それがいちばん大切だと、健介にも理解できる。きれい事では、人間は生きていけない。
「木はただ生えておるだけではお金になりません。金にするには、商品価値が出る大きさまで育てなきゃならん。そのためには、間伐――植林密度を薄くする――を、せにゃなりません。十本植わったところを七本にすれば、日当たりがよくなり栄養が行き渡り、大きな丈夫な木となります。そのためには、伐採業者に頼む費用が発生する。当たり前のことです。そうして育った木は、処理をして運搬して。この運搬がやっかいです。運搬するのには、林道に重機が入りゃならん。重機を入れるために、道を整備しなきゃならん。こういった行程を通って、ようやく木は商品になるんです。とても小さな山では利益が出ません」
聞けば聞くほど、木を育てるには多額の費用がかかるのがわかる。
「しかも、金にするには、最低二十年はかかる。長い年月です。そこへ、道路建設のために山の一部を買いたいと話がきた。断れるはずがない。特に、建設予定地に当たる場所の山主たちは、山仕事を捨てて、町に出とる人たちでした。彼らにしてみれば、願ってもない話でした」
ところが、売った場所が土砂崩れを起こした。
「山が崩れるんを手をこまねいて見とったわけです。世話役として何もできんかった。ほんとうに後悔しています」
言葉もなかった。雨は誰のせいでもない。
「山拐の怒りをかったんでしょうな」
ぽそりと小菱田が呟いた。
「まさか」
健介は左手に見える、茶色に変色してしまった斜面を見た。人為的に起こした災害ではないが、かといって……。
「前触れがあったのに」
「前触れ?」
「イノシシの骨ですよ。山拐はイノシシの骨で、警告したのかもしれません」
「まさか」
「山拐はほんまにおるんかもしれませんな。山を自分たちの勝手で変えていく人間たちに、怒りをぶつけたのかもしれません」
「山拐はどこにいるんでしょうか」
「どこでしょう。山は広く森は深い。その上、彼らは尾根から尾根へ渡り歩くといわれています。だが、案外近いところにおるんかもしれんです。村の誰かの家の裏山に、ひっそり隠れておるかもしれん」
連なった山並みを見つめた。開いた扇を立てたように、幾重にも重なる山。そのどこかに、山拐は潜んでいるのだろうか。
ふと、視線を戻したとき、裏庭へつながる家の脇に、頑丈そうな金網で作られた長方形の箱が目に止まった。大人が悠々入れるほどの大きさで、地面の部分は草で覆われ、白い粉のようなものが振り蒔かれている。
「あれは何ですか」
健介は訊いてみた。犬小屋にしては、奇妙だ。入口部分がスライド式の蓋になっている。
「ああ、あれは、イノシシの罠で、箱罠と言います」
小菱田さんは、目を細めた。
「わたしの手作りです。総一朗さんに頼まれましてね。イノシシに畑がやられて困っておったから」
「小菱田さんご自身が造ったんですか?」
「まあ、そう難しいもんでもないです。イノシシの生態に通じとるもんなら、どういう罠がいちばん捕獲率がいいかわかっとるもんです」
そう言ってから、ちょっと誇らしげに、小菱田は、
「この辺りで、いちばんイノシシを捕まえとるんはわたしじゃないかと思いますよ」
と付け加えた。
箱の中の地面に蒔かれている白い物は、米ぬかだという。
「まずウリ坊を呼びよせるんが、コツです。そのために、箱の中の仕掛け糸は、ウリ坊より高い位置に張ります」
イノシシの子どもだ。
「ウリ坊が箱の奥まで入り込んで餌を食べれば、親は警戒心を解く。ただ、わたしの罠の特徴は、それだけやないんです。あのアラカシの木のそばに」
小菱田が、箱罠の向こうにある一本の木を指差した。
「仕掛け糸も入口の蓋もない、罠ではない箱をもう一つ置いてあります。イノシシは、あの箱の中で餌付けされ、箱が安全と思い込む。ところが、こちらの、畑に近い箱罠には、仕掛け糸があり、奥へ入れば蓋がガシャンと下りるようになっとります」
なるほどと、健介は頷いた。ダミーの箱を用意すれば、イノシシはどの箱にも警戒心を解くのだろう。
おーいと、下から声がした。
佑樹が手を振っている。
「これで、失礼します」
そう言って坂道を下ろうとしたとき、小菱田が訝しげに呟いた。
「何かあったんやないか?」
たしかに、佑樹の表情は硬い。
どうした?と大声を返すと、佑樹が駆け上がってきた。
「虎太郎が戻ってこないんですよ。隠じい山に探しに出たらしいんですが、もう、一時間も前らしくて。虎太郎のお母さんが言うには、こんなこと、めずらしいらしいです」
「近くは探したのか?」
小菱田が心配そうに言った。
「もちろんです。それで、これからみんなで探しに行くことになりました」
村の道を、社長とオヤジさん、そして秋生と美月がやって来るのが見えた。一様に表情が硬い。昨日の今日だ。普段の山とは様相を変えているはずだ。間違って沢にでも落ちているかもしれない。
「わたしも行きましょう。これ以上犠牲者を出すわけにはいかん」
小菱田が噛み締めるように言った。
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