第29話

盗まれた山


 西へ行くほど雲は厚くなった。

 

 天気予報の文字の通り、地図上には、静岡以西をすっぽり雲が包んでいる。

 

 目を覚まし、暗闇の中で、健介はスマホの画面を見つめた。天気予報のアプリを立ち上げ、尾鷲の天気を見た。

 雨。横殴りの雨。


 今、健介は、尾鷲市行きの夜行バスの中にいる。時刻は明け方の四時。バスはもうすぐ愛知県を抜ける。

 嫌な夢を見ていた。どこか知らない町の駅のホームで、瑛太を見送る夢だった。発車時刻になっても電車は動かず、健介は先頭車両の運転手に、駅員に何度も尋ねに走る。戻ってくると、瑛太がいない。車内を歩き回って、ようやく瑛太を見つける。また、先頭車両へ走る。

――ここで待ってるんだぞ。

 夢の中でそう言ったとき、返事をした瑛太の顔が、奏人になっていた。七歳のときの、小さな奏人。

 目覚めると、びっしょり背中に汗をかいていた。


「開けても構いませんか」

 隣の座席の男に声を掛けられて、健介は頷いた。

 時計を見る。そろそろ尾鷲だろう。

 天気予報の通り、窓の外は雨模様だった。窓の雨粒が糸のように流れていく。

 熊野灘を左手にバスは走り続けた。雨脚は徐々に激しくなっていく。

 

 早朝の尾鷲は、激しい雨に煙っていた。人気のない駅前の通りを、雨が地面を叩きつけるように降り注いでいる。尾鷲の雨はどっと降る。そんな言い回しがあると、ここで暮らし始めて何度も耳にした。それがこの雨なのだろうか。

 傘は役に立たなかった。アパートへ向かうバスに乗り換えるため、バスロータリーまでずぶ濡れになって走る。

 数人が並んだバス停で、ようやくひと心地着いた。ポケットの小銭を出そうとしたとき、前に立つ老人の声が聞こえてきた。

「おーとうちょう忍土川が溢れたと」

 思わず健介は顔を上げた。おーとうちょうとは、土地の言葉で驚いたときに使われる。尾鷲に来て四ヶ月。健介も土地の言葉に慣れてきた。

「明見山の東側が崩れたようやが」

 ドクンと、胸が震えた。

 忍土川は、明見山から神尾井の村へ流れ込む川だ。その川が溢れたとなると……。

 村に暮らす虎太郎や小菱田の顔、そして羽矢子の生まれた家が浮かんだ。村の民家は、ほぼ山肌に建てられているから、水の被害はないかもしれない。だが、土砂崩れが起きたのなら。

 

 スマホを取り出して、虎太郎に電話をかけた。十回のコール。虎太郎は出ない。

 小菱田にかけてみた。音声が流れた。電波の届かない場所にいるか、電源を切られています。

 不安が胸にせり上がってきた。

 健介は踵を返し、神尾井村行きのバス停に向かった。バス停には、バス会社のロゴが入った制服を着た男が立っていた。何時に出るか訊くと、運行休止だという。雨が激しく、神尾井どころか、途中の山道が危険だという。

 健介は途方に暮れた。 

 どうすればいいのか。

 視界の中に交番を見つけた。

 何か情報が得られるかもしれない。


 交番では、初老の警察官が電話対応に追われていた。苛立ちながら、電話が終わるのを待った。五分待って、他の手を考えようとしたとき、別の警察官が飛び込んできた。ずぶ濡れの若い警察官に訊く。

「神尾井村はだいじょうぶでしょうか」

「忍土川が溢れたのは確かです。今、消防が向かっています」

「土砂崩れは」

「詳しいことはまだわかっていません。数ヶ所崩れたのは確かですが」

「あんた、村の人かね」

 電話を終えた警察官が、雨合羽を羽織りながら声を上げた。

「村に知り合いがいるんです」

「あそこは滅多に雨にやられんところやったが、たまにえらくたい」

 あとは聞き取れなかった。えらくたいとはとてもという意味の土地言葉だ。

 激しい雨の中に飛び出して行った警察官を、健介は呆然と見送った。

 煙る町の向こうに、うっすらと山が見える。その山の、そのずっと奥に、神尾井村はある。

 

 どうか無事でいてくれますように。


 健介は祈りながら、交番を後にした。



 昨日の土砂降りが嘘のような澄んだ空が広がっている。

 土砂崩れの片付け作業に有志が集められ、虎太郎も手を挙げた。

 村に、若者は少ない。しかも、山仕事に従事している虎太郎は、村の消防団員からも頼りにされている。

 明け方からずっと作業に追われ、虎太郎が一時休憩に家に帰ってきたのは、午後一時を過ぎてからだった。

「大変やったなあ」

 ぐったりと疲れて長靴を脱ぐと、母親の光代が泣き笑いのような顔で迎えてくれた。

 小さな村だ。知らない家はない。土砂崩れに遭った家の災難が、自分のことのように辛いのだ。

 居間のテーブルには、虎太郎の好物ばかりが並んでいた。カツにポテトサラダに、肉まん。普段、老人がいるこの家では、山菜の和物や魚の煮付けが多いが、今日ばかりは虎太郎を優先してくれたらしい。

「おじいは?」

 ざっくりと手を洗っただけで、箸を持った虎太郎は、台所にいる母に訊いた。父親は森林組合で働いているから、昨日のような豪雨の翌日は電話応対に忙殺される。朝早くから出かけていた。

「それがねえ、朝から山を見に行って、まだ帰ってこんのよ」

「危ないなあ。まだ足元が悪いのに」

「あんた、手伝いに戻る前にちょっと見に行ってくれる?」

 ああとカツを噛みながら返事をした。山を見に行ったといっても、おじいの足だ。そう遠くへは行けないだろう。

 膨らんだ腹にコーラを流し込み、虎太郎は下地山へ続く村の道を進んでいった。

 道には、昨日の激しい雨の痕が痛々しく残っていた。畑へつながる脇道には、泥が溜まり、土がえぐられて水たまりができた場所もある。

 竹林を過ぎ、雑木林を抜けても、おじいの姿は見えなかった。土砂崩れの現場では、猫の手も借りたい状態だ。早く戻らなければならない。


「おじい、どこだ~」

 

 袈裟山は標高六百メートル弱の典型的な里山で、春にはわらび取り、秋にはきのこ狩りと村人たちに親しまれている。言ってみれば、神尾井村の者にとっては、家の庭の延長のような場所だ。ただ、袈裟山の先には、標高が千メートルを越える明見山があり、紀伊山地の山々へ連なる。森も深くなり、人の下りられない沢もある。

 まさか、九十二という年齢で、明見山まで行っているとは思えないが、子どもの頃から杣人として山に入ってきた人だ。もしかするとということも考えられる。

 

 奥へ行けば行くほど、倒木が目立った。昨晩は雨ばかりでなく北風も強かった。きのこ狩りの際、目印にしていたスダジイの木が根元から折れていた。その先の、栗の木も無残だった。

 その栗の木の下に、伏せた人の姿が見えた。

「おじい!」

 虎太郎は飛び上がるように地面を蹴って駆け寄った。

 俯せに倒れたおじいは、枯葉の中に顔を埋めている。

「だいじょうぶか!」

 おじいを抱き上げ、虎太郎は叫んだ。うう、うと返事があった。傷はないようだ。  

 着ているものに乱れもなかった。ツルか小石に足を取られ転倒したのかもしれない。

「痛いところはないか?」

 ぐったりとして、口をきくのも億劫そうだ。

「さあ、俺におぶさって」

 おじいの体を持ち上げた。おじいが、虎太郎の腕を掴んで、パクパクと口を動かす。

「痛いのか?」

 おじいが首を振る。

「――おったんや。見たんや」

「え」

「山拐や。あいつは山拐に」

 だが、おじいはそう言ってから、目を閉じてしまった。気を失ったらしい。

 

 おじいを背負って立ち上がったとき、ふいに突風が起き、虎太郎はよろめいた。傍らの木に捕まり態勢を立て直す。と、また強い風が、虎太郎の体をめがけるように吹いてきた。枯葉が舞い、目が開けていられない。

「あああぁ」

 背中のおじいが叫んだ。

「どうした、おじい」

 振り向いた虎太郎は、勢いよく投げ飛ばされた。おじいも土の上を転がる。

「あわわぁ」

 目の前のクスノキの大木が、笑うように揺れている。枝だけではない。大人の腕一抱えもありそうな幹が、大きく左右に揺れているのだ。

「おじい!」

 おじいに駆け寄って、抱き寄せた。おじいは目を見開いて、呆けたようにクスノキの梢を見ている。

「あっ」

 虎太郎は見た。梢に何かがいる。動物じゃない。人の姿に似ている。白に近い灰色の影だ。

 梢が大きく揺らいだ。その刹那、手前の枝が膨らんで跳ねた。と、葉の塊が割れた。


 いた。同じ白に近い灰色の姿。

 一つ、二つ、三つ。

 いや、もっといる。動きが早い。跳ねて飛んで、それからまた跳ねる。


 叩きつけるように、横風が吹いた。ゴウッと風が唸る。

 風に乗って、灰色たちは次の木に移った。移った木が大きく揺れ始める。

 そしてまた、跳ねながら次の木へ。

 上へ上へ、灰色のモノたちは渡っていく。梢から梢へ。枝から枝へ。


「待ってくれ!」

 叫びながら、おじいが起き上がり、駆け出した。

「おじい、行くな!」

 おじいは森の奥へ奥へと突き進んでいく。

 虎太郎も後を追った。

 


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