第28話
駅に着いた健介は、改札の正面にあるバス停のベンチに倒れこむように座った。
息が整ってくると、怒りと興奮が覚めた。この二日間、抱き続けた期待、夢、そして後悔。それがすべて、泡のように消えていく。
目の前に、見覚えのあるスニーカーが現れた。顔を上げた。奏人だった。
奏人の顔を見た途端、自分でも気づかないうちに、腕が伸びていた。
奏人がベンチに倒れた。
奏人の唇から、血が流れる。
その血を見た途端、健介は我に返った。
なんてことをしてしまったんだ。自分の拳は、リングの外では使わないと誓ってきたのに。
「すまん、奏人。許してくれ!」
バスを待つ者や通行人が、物珍しそうに奏人を見ていく。健介には、非難の目を向けている。
ベンチに近寄った瞬間、奏人の反撃に遭った。肩に、奏人の拳が当たる。痛みも感じない頼りない力だった。おそらく、一度も人と喧嘩をしたことはないのだろう。
振り上げられた奏人の腕を、健介は掴んだ。奏人はあっけないほど簡単に、抵抗できなくなった。
「もっと殴れよ」
健介に両腕を掴まれたまま、奏人が叫んだ。まるで、小さな子どもが地団駄を踏んでいるかのようだ。
「向かって来いよ。勝負してやる!」
「俺は」
「なんだよ。父親なら、息子を叱ってみろよ。堂々と叱ってみろよ」
奏人は目を剥いて言い続ける。
健介は首を振った。元ボクサーの自分が本気で殴ってしまえば、奏人は重傷を負うはめになる。
それに。
自分は叱る方法を知らない。息子をどうやって叱ればいいのか、わからない。
「あんたの得意な左フックを受けてやるよ」
奏人が放った一言に、健介は言葉を失くした。
奏人は知っているのか。父親の得意技を。
熱い何かが、健介の胸に溢れた。
忘れられていると思っていた。興味を持たれていないと思っていた。
間違っていた。奏人は父親を遠くから見ていてくれたのだ。
力が抜けた。その隙に、奏人が離れる。
ふんと、鼻を慣らして、奏人はきれいなハンカチをポケットから出すと、ベンチに腰掛けた。先に座っていたおばあさんが、わずかに腰をずらしてくれる。
「訊かないの?」
「何をだ」
「どうやって騙したかって」
ふたたび健介は首を振った。
どうでもいい。そう思った。賢い奏人にしてみれば、こんな馬鹿な父親を騙すのは簡単だっただろう。わざわざそれを確かめたくもない。
「ニュース動画を偶然見つけてさ」
奏人は勝手にしゃべり出した。
「あんまり猪鹿毛に似てたから、ちょっと遊んでやろうと思ってね」
ふふと、思わず健介は笑ってしまった。こんな遊びの、何がおもしろいのか。
「でもまさか、ほんとに大宮まで行って瑛太にたどり着くとは思ってなかった」
まじまじと、健介は奏人の顔を見つめた。
「知らない少年だったのか?」
「そうだよ。瑛太を突き止めて、計画を持ちかけた」
ふうと奏人は息を吐いた。
「瑛太は成宮基也のところへも出入りしていてさ」
「あの連中の仲間だったのか」
「仲間というほどじゃない。大阪から家出してきてさ、困ってるとき、一、二度友達に連れられて、成宮のアパートに出入りしただけだ。それなのにさ、成宮のヤツ、僕が瑛太に関わろうとしたら、因縁つけてきてね。参ったよ」
奏人と電話で話したとき、怪我をしているような気がした覚えがある。あのときの奏人の相手は、成宮だったのか。
「成宮とは知り合いだったのか?」
「あんな馬鹿、と言いたいとこだけど、あいつとは名古屋にいた頃、ちょっと付き合いがあってさ」
羽矢子は各地を転々として暮らしたという。奏人も母親といっしょに様々な経験をしたのだ。
「瑛太には、感謝してもらいたいね。あのまま馬鹿な連中とつるんでたら、あいつ、人生を棒に振るところだった。こっちの計画のためとはいえ、僕が成宮の目の届く場所から連れ出してやったから、助かったようなもんだよ」
あの工場から連れ出したのは、奏人だったのか。
素早い行動が、奏人らしい。
「今、瑛太はどこで暮らしてるんだ? アルバイト先の寮は出たみたいだが」
「知らないよ。SNSでつながってるだけなんだ」
ラビットランドを教えてくれた、母親の顔が浮かんだ。瑛太の母親もどこかで辛い思いをしているかもしれない。
「瑛太とは連絡を取り合ってたわけか。俺からネットカフェの名前を聞き出して、すぐに向かわせたんだな」
「そう。バイト代として一万円を払うって言ったら、簡単にオーケーしてくれたよ。条件はね、ネットカフェでバイトをしているフリをすること。猪鹿毛のフリをすること。店員にも、瑛太を雇っているフリをしてもらったよ、五千円でね」
「ずいぶん、手の込んだ芝居だ」
「やるときは徹底してやるのが、僕の主義」
くだらないことを徹底してやったものだ。
これが、賢さなのか?
バスがやって来て、隣にいたおばあさんが立ち上がった。
その姿を見送ってから、健介は訊いた。
「おまえも猪鹿毛の行方はわからないってことだな」
「ああ、知らないね。村のみんなの考えが正しいんだよ。猪鹿毛は山のどこかで眠っている」
「おじいさんは、山拐に連れ去られたと信じてるよ」
アハハと笑ってから、奏人は急に咳き込んだ。背中を丸めて、苦しそうに胸を押さえる。
「おまえ、医者に見せたんだろうな」
「喘息なんだよ」
言ってから、奏人はバツが悪そうに瞬きし、上目使いに健介を睨んだ。
「二度と、僕の体について口をはさむな」
「ーー俺は、ただ……」
「あんたには、僕の体を心配する資格なんかないんだ」
そのとおりだと、思う。目を剥いた奏人は、この目で、母親を助けて生きてきたのだろう。
「あんた、どうしてそんなに必死になって猪鹿毛を探すんだよ。もし猪鹿毛が生きて見つかったら、どうしたいと思ってるわけ?」
どうしたいのだろう。
なぜか、神尾井の山が浮かんだ。
「山の見える場所で、暮らせたらと思う」
自分でも思いがけないほど、素直に出た言葉だった。
「山の暮らしはいいぞ。空気がいいからな。喘息にも効くぞ」
奏人の目が険しくなった。また余計なことを言ってしまったようだ。
「山なんか、まっぴらだよ」
まだ短い付き合いだが、奏人の虚勢の張り方がわかってきた。好きなものを素直に口に出せない男なのだ。
「コラム、読んだぞ」
えっと、奏人が目を見張った。
「バスの中でな、山道具のカタログ雑誌を見たんだ。いい文章だったぞ。おまえも山が好きなんだと思った」
すっくと、奏人は立ち上がった。
「瑛太と店の店員に、報酬を払ってくるよ」
「おい、待て」
奏人は背を向けてしまった。
その後ろ姿を見つめていると、奏人の言葉が蘇ってきた。
――父親なら、息子を叱ってみろよ。
奏人と暮らしていた頃、自分は、自分の夢ばかり追っていた。奏人が何をしても、気にしなかった。そうだ。奏人の言った通り、叱ったことすらなかった。
殴り合いたかったのかもしれない。
奏人はそのために、わざわざ蕨までやって来たのかもしれない。いつか、自分の拳を思い切り父親にぶつけたいと願い、それができる機会だと思っていたのではないか。
そうでなければ、わざわざ本人に会って報酬を渡すなどという方法を、奏人が取るだろうか。
「奏人!」
健介は叫んだ。
「俺は神尾井にいる。いつでも待ってるから!」
奏人に聞こえたかどうかはわからない。奏人は人ごみに紛れていった。
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