第27話

 風が冷たい。

 大宮駅を出たときには感じなかった冷たい風が、北のほうから吹いてくる。

 

 蕨駅の西口を出て、健介は頭上にアーケードのある通りを右手に歩いて行った。蕨に来るのは初めてだったが、スマホの画面の店のアクセス案内はわかりやすかった。  

 交番の前を通り過ぎ、宝くじ売り場も通り過ぎて、更に先へ進む。

 目印となるコンビニが見えてきた。店のアクセス案内によれば、その隣の建物の二階に、ネットカフェ・ラビットランドはあるはずだ。


 建物を見上げると、オレンジ色に白抜きの文字で書かれた、店の名前を見つけることができた。

 やけに白い顔をした女の子のポスターがいくつも貼られた階段を上り、店に着いた。ドアは開けられている。中から、テンポの早いJポップが聞こえてきた。

 入ってすぐに、受付カウンターがあった。その向こうに、人がようやく一人通れるほどの廊下があり、両側にドアが並んでいる。全室個室のようだ。

 受付には誰もいなかった。カウンターに手をついて声をかけた。途端に、奥のドアが開いて人が出てきた。

 いらっしゃいませと、けだるい声で迎えられる。

 二十代の終わりと思える、太めの青年だった。けだるかった声とは裏腹に、神経質そうな目でこちらを見る。

 客ではないと断ってから、猪鹿毛の名前を出した。

 一瞬、警戒する目つきになった店員は、何度も瞬きをしてから言った。


「フユミイカゲ?」

「ええ。ここにそういう名前のお客さんが来ていると聞いたもので」

「警察?」

 健介が首を振ると、小さく息を吐いてから、お客さんの名前を言うわけにはいきませんと続ける。

 健介は食い下がった。

「そりゃそれはわかります。実は、わたしは父親なんです。息子を探しているんです。まだ十七歳で」

 はあと、気のない返事が返ってくる。

「もしかしたら、偽名を使ってるかもしれない。伊藤、伊藤瑛太という名は知りませんか」

 すると、店員の表情に動きがあった。

「知ってるんですか、伊藤瑛太を」

 まずいなあと、店員は何度も呟く。

「お願いします。絶対にご迷惑はかけませんから、伊藤瑛太の居場所を教えてもらえませんか」

「本人に聞いてみないと」

 当然だった。

「わかります。お客さんの個人情報を他人に教えるなんてことはできるはずがありません。だが」

「お客さんじゃないですよ」

「え」

「伊藤瑛太は、ここのアルバイトです」

「アルバイト……」

 そして店員は、ちらりと壁の時計を見てから、ぽそりと言い足した。

「お宅さんがここで一時間ぐらい待ってたら、伊藤瑛太に会えるかもね」

 一時間ぐらいなんともなかった。入会手続きをし、利用する時間とタイプを決めた。いちばん料金の安いブースでの短い時間を選択し、料金を払う。


「右の手前のブースにどうぞ」

 ふたたびけだるい声で言うと、店員は興味をなくしたように顔を背け、奥のドアへ引っ込んでしまった。


 与えられたブースは、狭かった。人一人がようやく座れるほどの空間だ。そこに机と椅子が置かれている。

 ネットサーフィンをする気にも、ビデオを見る気にもならなかった。ただ、パソコンの黒い画面を見つめる。

 四十分が経った頃、健介はブースから外に出て、伊藤瑛太を待った。

 カウンターの脇に立つと、一度さっきの店員がドアを開けたが、健介を認めてすぐに引っ込んでしまった。受付にはカメラがあるのかもしれない。カウンターに人が来ると、店員は出てくるようだ。


 一人になってからは、ただ、入口のほうを見つめて過ごした。ここにいれば、階段を上ってくる人の足音が聞こえる。

 じりじりした。時間が驚くほどゆっくり流れる。

 こんな姿を奏人に見られたら、さぞ笑われるだろう。馬鹿じゃないの。そんな声が聞こえる気がする。

 五十七分が経ったとき、ようやく階段から足音が聞こえてきた。

 身構えた健介に、相手はほんの少し頭を下げて、店の中に入ってきた。

 

 彼だ。

 間違いない。ニュース動画で見た少年だ。

 中肉中背。どちらかといえば筋肉質か。髪を切ったのか、ニュース動画の彼よりも幼く見える。幾分くたびれた感じのするグレーのパーカーに黒いパンツ。靴は汚れていない。家出少年というよりも、ごく普通の学生に見える。

 カウンターの向こうに回るため、伊藤瑛太は健介の前を行き過ぎようとする。


「――あの」

 健介は声をかけた。喉がひりひりする。

 振り向いた伊藤瑛太は、訝しげな目で健介を見た。

「伊藤瑛太くんですか」

 はいと、頷く。

「突然びっくりするだろうけど」

 そう言ってから、健介は言葉に詰まってしまった。目の前にいるのは、自分のもう一人の息子なのだ。父親がいないまま大人になろうとしている少年なのだ。

「神尾井から来たんだ。わたしは君の」

 瑛太はじっと健介を見つめている。

「わたしは君の父親で」

 心臓の動悸が早くなった。

「伊藤瑛太というのは、偽名なんだろ?」

 一瞬だけ、瑛太の瞳に怯えが走った。

「ほんとうの名前は、風弓猪鹿毛だね?」

 返事はなく、瑛太はカウンターの向こうへ回る。折り畳みのスチール椅子を広げる。


「君が神尾井からいなくなって、おじいさんもおばあさんも心配してるんだ。どんな事情があるかわからないが」

 何を話すべきかわからなくなってしまった。父親と名乗ることで、相手からもっと別の反応を予想していたのだ。驚きとか、怒りとか。こんな、無反応は予想外だった。瑛太、いや猪鹿毛がこちらを見る目は、まるで他人を見る目だ。

 瑛太、いや、猪鹿毛がパンツのポケットからスマホを取り出して、いじり始めた。メールが入ったようだ。返信しているのか、指先が慌ただしく動く。


 その指先を見て、健介は違和感を覚えた。

 目の前の少年の爪は、短かった。短く切ったせいではなく、もともとの形が、横長の短い爪なのだ。

 健介も死んだ羽矢子も、思い出してみると奏人も、縦長の爪だ。同じ家族で、一人だけ爪の形が違うということがあるのだろうか。

 一度違和感を覚えると、すべてがぎくしゃくし始めた。俯いた少年の瞼は、自分にも羽矢子にも似ていない。鼻も、どちら似でもない。

 そう感じる自分に、健介は嫌悪を感じた。ようやく会えた息子に疑いを持つのか? 初めて会うのだ。違和感を憶えて当然じゃないか。


「君のほんとうの名前は、風弓猪鹿毛だろ?」

 そうだとはっきり答えて欲しい。

 目の前の少年は、健介から目を逸らし、うんうんと眉をしかめて頷いた。

「こっちを見て返事をしてくれ。君を探し出すために神尾井村から来たんだ。君のおじいさんは今、病院にいる。もう長くないかもしれない。できるなら一目会いに行って」

 そこまで言ったとき、店の入口に客が現れた。

 すぐさま、後ろのドアが開いて、さっきの店員が出てきた。店員は瑛太を無視して客の対応をする。

 瑛太、いや、猪鹿毛は脇へどいた。スマホをカウンターのテーブルの上に置いたままだ。

 客は常連らしく、会員証を出そうと財布をまさぐっている。店員はカウンターの内側のテーブルに体を屈め、客の名前をパソコンに打ち込む。

 一連の動作が、瑛太、いや、猪鹿毛をまったく無視して行われた。店員は、アルバイトの存在を忘れているかのようだ。

 ふいに、カウンターのスマホに着信が入った。瑛太、いや、猪鹿毛が慌てて立ち上がる。

 震えるスマホの画面が目に入った。


 その画面を見た健介は、呆然となった。


 スマホの画面に表示されている名前は、風弓奏人となっている。


「――どうして」


 健介の視線に気づいた瑛太が、慌ててスマホを取り上げる。

「待て!」

 健介の大声に、客と店員が驚いて振り返った。

「なぜだ。なぜ、奏人がおまえとつながっている? なぜ、奏人がおまえを知っているんだ!」

 鳴り続けるスマホを握り締めたまま、瑛太は怯えた目を返す。

「おまえ、猪鹿毛じゃないんだな、猪鹿毛の偽物なんだな」


 奏人だ。奏人が仕組んだのだ。


 なのために?


 父親に復讐するためだ。自分を捨てた父親を、弄ぶことで、奏人は復讐しようとしたのではないか?  

 奏人の歪んだ笑顔が、電話の向こうに見える気がした。

 

 カウンターの向こうへ回り、健介は瑛太からスマホをむしり取った。

「おい! 奏人!」

 店員が呆れた顔でため息を漏らし、客は驚いたままブースへと進む。

「返事をしろ!」

 やや間があって、奏人の声が聞こえてきた。

「そんなに興奮しないでよ」

「ふざけるな。おまえーー」

「バレちゃったんだね」

「やっぱり、おまえ」

 言葉が出て来なかった。こんな仕打ちを受けるほど、自分は奏人に憎まれているのか。

「うまく騙せると思ったんだけどな。やっぱり瑛太じゃ役不足だったね」

 楽しんでいたゲームを中断されたときのような、その程度の悔しさが声に現れている。

「おまえら、二人して騙したのか」

 横で瑛太が震え上がるのがわかった。

「瑛太を責めないでよね。瑛太はただ僕に雇われただけなんだから。瑛太に伝えてくれる? これからバイト代を払いに行くって」

 

 バイト代? 瑛太は金で雇われたのか。

「今、そっちに向かってるところだから」

 そう言ったところで、電車の音が聞こえた。

「あと十五分もすれば蕨に着くから」

 電話を切り、瑛太に叩きつけるように返し、健介は店を出た。

 怒りで、何も考えられない。人にぶつかりながら、ぶつかった相手に謝りもせず、健介は駅まで走った。

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