第21話
目が覚めたのは、朝日に照らされた街に入ってからだった。
午前五時十七分。バスはすでに東京を抜けて埼玉県に入っている。
終点の大宮駅が近いとアナウンスの声が響く。
すみませんと声をかけられて横を向くと、隣の座席にいた青年が、網棚の荷物を取るために立ち上がったところだった。
「どうぞ、構いませんよ」
健介に覆いかぶさるようにして、青年は網棚の大ぶりのリュックサックに手を伸ばす。
青年が体を伸ばしている間、座席に置かれた雑誌にふと目がいった。このバス会社のカタログ誌のようだ。開かれたままの頁には、登山用の靴がいくつも並んでいる。
ドイツ製らしき無骨な靴の横に、小さな枠組みがされたコラム記事があった。その記事に吸い寄せられる。
コラムには、執筆者の顔写真が、楕円形に切り取られて載っていた。その顔に見覚えがある。
奏人じゃないか。
思わず声に出しそうになったのをこらえ、健介は雑誌を自分のほうへ引き寄せた。
写真の奏人は笑っていた。病院で十数年ぶりに会ったときのような、皮肉で陰気な影がない。
肩書きは、学生・起業家とある。健介には想像もできないことだが、奏人は雑誌にコラムを書くほど有名人なのだろうか。
コラムの題は、『窓から見える山』
どこかの宿へ泊まったときの、窓から見えた山の思い出が、淡々とした文章で綴られていた。ほんの数行。最後は、『窓から見た山は美しかった。実際登ったときよりも美しく感じた』そう終わっている。
奏人が山登りを好んでいたのは意外だった。子ども時代、山に囲まれて過ごしたのだ。長じてから、山登りの趣味を持つのはごく自然だっただろう。
「あのーー」
リュックサックを下ろした青年が、怪訝そうな顔で健介を見ていた。
「すみません。勝手に」
「いえ、いいです。よかったらそのカタログ差し上げますよ。もう、いりませんから」
「い、いや、それは」
そう言いながら、健介は嬉しかった。奏人の写真は、羽矢子と別れた際に持ってきた、ほんの数枚しかない。当然、どの写真の奏人も小学生のままだ。
ありがとうございますと頭を下げ、健介はカタログを自分のリュックサックに丁寧にしまった。思いがけず、奏人の写真が手に入った事実が、素直に嬉しい。
まるで、猪鹿毛を探すのを応援してくれているようじゃないか。
そんなはずはないとわかっていても、何かいい兆しの現れのような気がして、バスを降りる足が弾んだ。
初めて訪れる大宮の街は、すでに朝のラッシュが始まったのか、駅へ向かってくる人の数が多かった。忙しない足取りと、同じような表情。
神尾井から出てきた身には、恐ろしさすら感じる。
スマホのアプリで確認すると、鶴ヶ島市真砂町は、大宮駅から思いの外、アクセスが悪かった。JRで川越駅まで行きそこから私鉄に乗り換え、鶴ヶ島駅から歩かなくてはならない。
だが、久しぶりに訪れた関東の町は、神尾井に比べると、電車もバスも本数が多く時間を無駄にする必要はなかった。ただ、都心というわけでもないのに、どこか息苦しさを感じた。人の多さや隙間なく立ち並ぶ建物のせいだろう。
ほんの半年ほど前まで、似たような空気の中にいたというのに、身体がすっかり神尾井に馴染んでしまったらしい。
ラッシュ時の混雑に紛れて、電車を乗り継ぎ、鶴ヶ島駅に着いたのは、すっかり太陽が上った頃だった。
閑散とした駅前の通りを、地図アプリを見ながら進んだ。目指すアパートの住所まで、ナビがしっかり導いてくれる。
何度も見たニュース動画の、見覚えのある風景が道の先に見えてきた。アパートの向こうに見える焼肉屋の看板や、二軒並んだ茶色い屋根の家と、その隣にある瓦屋根の古い家。
その古い家の角を曲がると、アパートが見えた。振り込め詐欺犯が逮捕されたアパートだ。
サンハイツ・志手。
アパートの入口の看板にそうある。
ニュース動画で見たとおり、アパートは築年数が経っていそうな古びた二階建ての建物だった。外階段の上のトタン屋根には、壁から離れた部分に亀裂が見える。
部屋数は、全部で八部屋ほどの小規模なアパートだ。上下に四部屋ずつ。二階の奥のベランダに、洗濯物が揺れている。
ニュース動画では、犯人が二階の階段の踊り場から、警察官に脇を固められて降りてきていた。どの部屋に住んでいたのかはわからない。
じっとアパートを見つめながら、ふいに、健介は自分が馬鹿げたことをしている気がした。こうしてアパートを見つけたものの、ここからどうやって猪鹿毛を見つけ出すというのだ?
辺りを見回してみた。
日本中の中都市のはずれなら、どこでもみられるような、なんの変哲もない町が広がっている。あのとき、このアパートで起きた振り込め詐欺犯人の逮捕劇を見ていたからといって、猪鹿毛がこの近くで暮らしている保証はないのだ。
なぜ、来てしまったのだろう。
ここまで自分を急き立てた思いは何だったのだろうと思う。
まだ見ぬ息子に会えるかもしれないと思ったのだ。その焼け付くような思いが、ここまで自分を来させたのだと思う。
――疑うんなら、大宮に行ってみるといい。
覚めた声で言った奏人に、意地を見せたかったのかもしれない。
自分は親父だ。息子を忘れていない親父なんだと、見せたかったのかもしれない。
ニュース動画を開いた。猪鹿毛だと思った青年を、もう一度見た。この青年は自分の息子に違いないと思う。顎のあたりは、羽矢子の面影を継いでいる。
ふと、青年の着ている青い作業着に目が止まった。胸のポケットに、何か文字がある。
会社名か?
静止させた動画に、健介は顔を寄せた。
胸ポケットの文字は、小さいながら、陽工製作と読めた。
猪鹿毛を見つけられるかもしれない。
健介は顔を上げて、陽工製作という名の建物を探した。どこにもそれらしき建物は見当たらなかったが、希望は掴んだ気がした。
息子を見つけてみせる。
健介は歩き出した。
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