第19話
着信は、奏人からだった。
「どうした」
健介の顔色が変わったのがわかったのだろう。虎太郎が表情を固くして黙り込む。
奏人の返事はなく、代わりに、車のクラクションの音や、街の騒音が響いてくる。
「おい、奏人。どうした」
「――やられちゃったよ」
情けない声だ。
「やられた?」
胃がキュッと縮む。
「ちょっと喧嘩しちゃってさ。それで、くたばってる」
「怪我は」
怒鳴り声を返すと、細い笑い声が響いてきた。
「あんた、俺のことでも、そんな声、出すんだ」
「冗談を言ってる場合か!」
喧嘩なら、これまでの人生で、嫌というほど見てきたつもりだ。自分は手を出さなくとも、カッとなるとすぐに人に掴みかかる連中と付き合ってきた。
「怪我ってほどのもんはしてないよ。肩を殴られて、よろけちゃってさ。それで気を失っただけ」
「相手は誰だ」
「誰でもいいよ。あんたの知らない人」
話すうちに、以前会ったときの奏人の口調に戻っていった。この様子なら、だいじょうぶだろうか。
「医者に行くんだ」
「わかってるよ」
「今、行け」
「うるさいな。わかってるって言ったろ」
「誰か、いっしょに行ってくれる人はいるのか」
沈黙が返ってきた。
「明日、そっちに行く」
「は?」
奏人の声が裏返った。
「その様子だと明日も痛むぞ。一人じゃ心配だ」
「やめてくれよ」
「今からでも行きたいところだが、もう、東京までの足がない」
時刻は九時過ぎ。この時間から関東方面へ向かう長距離バスの便はなく、電車を乗り継ぐしかない。乗り継いでいっても、今夜はどこかで足止めを食らうだろう。
「明日、日吉のマンションに行く」
「やめてくれよ。突然、親父面するつもりかよ」
そんなつもりは。
そう言おうとしたとき、奏人の笑い声が響いた。
「あんた、案外騙され易いんだな。怪我なんかしてないよ。ちょっと脅かしただけ」
笑い声が続く。
怪我をしているのは、本当だ。
ふいに、子どもの頃の奏人の顔が蘇った。父親を見上げる無垢な目が、今、目の前に蘇る。
「奏人」
そう呟いたとき、奏人は意外な話を始めた。
「聞いたよ。あんた、神尾井村に猪鹿毛を探しに行ってるんだってね」
奏人は、これが言いたくて電話をしてきたのかもしれない。弟を探そうとしている父親を責めたくて、連絡を寄越したのかもしれない。
「おじいさんか」
「おじいじゃない。おばあのほうだよ、教えてくれたのは」
羽矢子を墓に埋葬するために、奏人は栄子に連絡を取ったのだろう。
「だけど、無駄だよ。猪鹿毛は神尾井の山になんかいないんだから」
確信している言い方だった。
「どういうことだ」
「猪鹿毛は山ん中なんかにいないってこと。当たり前じゃない。家出少年が山の中に二年も身を隠しているなんて、有り得ると思うわけ?」
「それなら、猪鹿毛はどこに」
「猪鹿毛は埼玉にいるんだよ」
「埼玉?」
予想外の答に、健介は話についていけない。
「あんた、ニュース、見ないの?」
「ニュース?」
「埼玉の大宮であった振り込め詐欺事件の犯人グループの中に、猪鹿毛がいたんだよ」
言葉が出なかった。
「俺、見たんだ。逮捕された振り込め詐欺グループの一人が連行される画像を。その画像の端に、猪鹿毛がいた」
「――ほんとうに、猪鹿毛だったのか」
「これでも兄弟だからね。弟の顔は覚えてる」
深い山の沢で朽ちていないかもしれないという安堵と、振り込め詐欺や逮捕という言葉の衝撃に、考えがまとまらない。
「だが、犯人と同じ画面に映っていたからって、猪鹿毛が犯人グループだとは限らない」
「あいつは野次馬の中にいたんだ。でも、あの目は、逮捕された男を知っている目だよ」
冷えた声だ。
これが、息子の声なのだ。
「もし、疑うんなら」
そう言ってから、奏人は激しく咳き込んだ。よくない咳だ。
「だいじょうぶか」
自分は、こんなところにいるべきじゃないのかもしれない。奏人のそばにいてやるべきではないのか。
「もし、疑うんなら、大宮へ行ってみるといい」
「その前に」
健介はスマホを握り締めた。
「お前のところへ行く」
ふたたび、乾いた咳。
「かんべんしてよ。親父面はやめてくれって言ってるだろ」
電話は切れた。
待ち受け画面に戻ったスマホを見つめていると、虎太郎が心配そうな顔を向けてきた。
「だいじょうぶですか?」
ああと返事をして、健介は慌ててネットニュースにつないだ。
奏人に知らされた振り込め詐欺事件は、ネットニュースのいちばん最初にあった。
埼玉の大宮郊外で起きた事件で、画像とともにトップニュースとして扱われている。
事件そのものは、全国のどこでも起きている典型的な振り込め詐欺で、末端の受け子と呼ばれる、現金受け渡し役の男が捕まった事件だった。
画像を再生すると、まだ、どこかあどけない面影を残した二十代前半らしき男が、警察官に連行される瞬間が映し出された。
男はアパートらしき建物の階段を、警察官に腕を取られて降りてくる。緊迫した雰囲気はなかった。
画面は建物の前に駐車されたパトカーに変わり、その背後に群がった野次馬たちも映し出した。野次馬たちは、建物の横の駐車場で、遠巻きに逮捕劇を見ている。
どれだ?
健介は画面に食い入った。テレビと違って、画像を止められるのが有難い。
野次馬たちは、数にして十数人。夕暮れどきのせいか、学校帰りらしい制服の学生や、スーパーのビニール袋を下げた主婦らしき姿も見える。
奏人の言葉を思い返した。
――あの目は、逮捕された男を知っている目だよ。
その目をした男はどいつだ?
野次馬の一人一人に目を凝らしていく。一人目は、初老の男。二人目は自転車を引いた学生服の三人組。三人目は太った中年の女。
「あ」
思わず声を漏らした健介に、虎太郎が顔を向けてきた。
「何か問題が起きたんですか?」
返事をする余裕はなかった。
健介は見つけた。
これだ。太った中年の女の右二人置いて、次。
これが、猪鹿毛。
健介は一人の青年を見つめた。いや、少年と言ったほうが近いかもしれない。青い作業服の上下を着て、足元は黒い普段履きといったサンダルを履いている。
幼さを残した頬の感じと、逮捕劇を見ている覚めた目。
その少年は、似ていた。十代の、母に反抗し、ろくに学校に足を向けなかった頃の自分に。
もし、髪型を変えて、服装も変えてしまえば、画像の少年はそのまま健介になるんじゃないか。拗ねたような目つきと、細い顎。
画像をズームしてもわからないが、もし、頬に小さなほくろが散らばっていたら、健介そのものだろう。
この少年は、奏人の言うように、逮捕された男の知り合いだろうか。
健介にはそうは思えなかった。たしかに、少年には、どこか得体の知れない危うさがあるし、視線は連行される男を追っているが、それだけで仲間とは言えないだろう。といって、無関係と断言できない何かか画面から伝わってくる。
ボタンを押し画像が動き出すと、その少年だけが、ぷいっと、野次馬の輪から離れていなくなってしまった。まるで、逮捕されたのはしっかり見届けたとでも言うように、踵を返して輪から抜けたのだ。
猪鹿毛は犯人グループの一人なのか?
「もしかして、今の、猪鹿毛?」
「見てみてくれ」
ニュース画面を再生し、虎太郎に示した。
「うん、似てる。ただ、二年も会ってないから」
「生活も変わっただろうからな」
「断言はできないけど、これが他人の空似ってことは有り得ないな」
――もし、疑うんなら、大宮に行ってみるといい。
乾いた奏人の声が蘇る。
「寒い、入りましょう」
確かに冷たい北風が吹き始めていた。
健介は後ろを振り返り、真っ暗な森に目を凝らした。
窓の外、何者かは確かにいた。今、その存在は、闇の中に隠れているのだろうか。
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