第18話

    隠じい


 囲炉裏の火が赤く燃えている。

 

 吊るされた自在鈎に黒い茶釜が掛けられ、注ぎ口からぽっぽっと湯気が出ている。 

 湯気は高い天井の黒光りする梁まで上っていく。


 囲炉裏を挟んで対面に座る老人は、土でできた素朴な置物のようだった。格子縞の分厚い半纏を着込み、あたたかそうなラクダ色のズボンを履いている。

 あぐらをかいた膝頭が頼りないほど細い。虎太郎に年齢を訊くと、

「九十二だよ」

と、大きな声で答えてくれた。正熊という名のじいさんは、ちょっと耳が遠いようだ。


 小菱田のすすめで、健介は虎太郎の家を訪れ、じいさんの話を聞きに来ている。

 通されたのは、虎太郎たち家族がいつも使っている建て増しされた茶の間ではなかった。じいさんが好んで使うという、囲炉裏のある部屋で、昔ながらの土が剥き出しの土間から上がった場所にあった。


 ここの来る車の中で、虎太郎の祖父が、隠使いだったという話を聞いた。

 隠使い。

 村にあった奇妙な風習に、健介は気持ちを揺さぶられた。この村なら、森の奥深く、山拐という名の民が棲んでいても不思議じゃない。そう思わせる禍々しさがある。


 目の前の老爺は、村の不思議を体現しているように見えた。

 突然の訪問に、虎太郎の家族は嫌な顔もせず歓迎してくれた。午後八時という、九十二歳の老人にしてみれば夜中のような時間だ。食事を済ませ、布団に入っていたというじいさんは、座っているのも大義そうに見える。だが、健介の訪問を歓迎してくれているのは、伝わってきた。


「儂にお客など、何年ぶりかの」

 誰に言うでもなく、何度も口にした。

「西尾さんはね、山拐の話を聞きたいんだって」

 虎太郎がじいさんの耳元で言う。もう、三回目だ。その間に、虎太郎の母親が、有難いことに、

「主人が飲まないもんで、貰いもんですが」

と、漬物といっしょに焼酎を出してくれた。

 ちびりちびりその焼酎を口に運びながら、健介はじいさんが話し出すのを待った。

 

 静かだった。

 囲炉裏の炭が燃える音と、どこか夜の中で鳴くフクロウの声が、夜に染みるようだ。

 ときおり、風が木々を揺らす音もする。

 カツ、カッと、裏庭で当たる音がする。すうっと体の奥まで浸されるような寒さを感じる。この家が、健介の暮らす町よりも標高が高いからだろうか。


「忍土川が暴れたときはの」

 村に流れる川だ。

「明見山がら怒っちょったと思うたで。山がな、揺れたと思うたで」

「多分、おじいが子どもの頃の台風の話だと思います。村のほとんどが流されたって」

 虎太郎が説明した。

 

 義母の栄子から、病院で聞いた話が蘇る。災害が起き、甚大な被害が出ると、村の人々は山拐の仕業と考えたという。


「おじい、山拐の話をしてよ」

「しとる、しとる」

「台風の話はいいからさ」

 じいさんが、そうかあ?と返事をする。虎太郎が、ふたたび「山拐だよ!」と繰り返す。

 苛立っているように見える虎太郎だが、じいさんの肩にずっと手を置いている。じいさんを慕う孫そのものだ。


「山拐は恐ろしいで。絶対に怒らせちゃいかんと、子どもんとき、曾祖父さんがよう言うとったわ」

「今日、山で不思議なものを見ました。イノシシの骨が、檜の木に刺さっていたんです」

 じいさんの目が、瞬きを繰り返した。

「虎太郎くんたちは、ほかにも、同じようなイノシシの骨を見つけたそうです。二股に分かれたトチの木に穴が開けられ差し込まれていたり、人がいけない崖に刺さっていたり。穴に置かれてあった骨には、どんな動物がつけたのかわからない歯型がついていたようです」

 うううと、じいさんが唸った。放心したように、天井を見る。


「その上、虎太郎くんの仲間が、林道で何者かに襲われました。鋭い刃で切られたんです」

「おじい」

 虎太郎がじいさんから湯呑を取り上げた。

「山拐はほんとにいるの? イノシシの骨は、何かの前触れを知らせようとしているの?」

「あかん、あかん」

 じいさんは激しく首を振った。

「山拐が怒っとる証拠じゃ。イノシシの骨で知らせようとしとる」

「どうしてイノシシの骨なんでしょう。山拐にイノシシが関係あるんですか」

「イノシシは、昔っから神の使いて言われてなあ」


「神の使い?」

 裏返った声を上げたのは、虎太郎だ。その横顔が、囲炉裏のあたたかさのせいか火照っている。老爺の語りに耳を傾ける小さな子どもに戻ったかのようだ。

 ふと、猪鹿毛が生きていれば、虎太郎と同じぐらいの年齢だろうと思い当たった。猪鹿毛も子どもの頃、こんなふうに祖父といっしょに、神尾井の暗い静かな夜を過ごしたのだろうか。


「魔利支天いう神様でなあ。陽の光や月の光からできちょる」

 おそらく仏教信仰のひとつの形なのだろう。それが、村で変化し、続いてきたのかもしれない。

「山拐はほんとにいるんでしょうか」

 健介が訊くと、じいさんはそれまで細めていた目を大きく開いた。

「おる。おるんは間違いない」

「でもさ、どこにいるのか、おじいは知らないんでしょ」

 茶釜をはずし、虎太郎が急須にお湯を注いだ。

「誰も知らん。山拐は、山から山へ渡っていくからな。追いかけても人間には捕まえられん」


「もし、山拐がほんとうにいるのなら」


 こらえきれなくなって、焼酎の入ったグラスを脇へ置き、健介はじいさんを見つめた。

「山拐はわたしの息子を連れ去ったんでしょうか」

 じいさんの目が見開いた。

「ほんとうは、信じていなかったんです。いくら義父が山拐の話をしても、心の底では信じていなかった。でも、今日、山でイノシシの骨を見て、小菱田さんに、イノシシの骨が山拐に関わりがあるかもしれないと聞いて、わけがわからなくなっています。もしかしたら、山拐は存在するんじゃないかって思い始めているんです」

 

 ふいに、じいさんが立ち上がった。蹴り上げた座布団がずれて、座布団の端が囲炉裏の灰に落ちる。

「危ないじゃないか」

 虎太郎がよろけそうになったじいさんを支えた。が、その手は激しく振り払われる。

「帰ってくれ。いますぐ出て行ってくれ」

 じいさんの豹変に、健介は慌てた。

「あ、あのーー」

「どうしたんだよ、おじい」

「この家からも、この村からも、すぐ出て行くんだ!」

 仁王立ちのじいさんは、目を剥いて健介を睨んでいる。

「待ってください。何か、気に触ることでも」

 健介も立ち上がって、囲炉裏を回った。何か起きたのか、理解できない。

「なんか、すみません。じいさん、年だから」

 どうにか考えついたような言い訳を残して、虎太郎はじいさんを寝室に連れていった。

 

 一人、健介は囲炉裏端に残された。

 呆然と、じいさんが出て行った廊下を見つめる。

 一体、じいさんはどうしてしまったのだろう。

 虎太郎との会話を思い返してみた。何がじいさんを怒らせたのか、思い当たらない。


 廊下の先から、テレビの音が聞こえてくる。

「牧子、タオルはどこだぁ」

と、虎太郎の父親の声もする。

 

 キシカシッ、キシッと何かをこするような音がした。

 土間の向こうの窓を見た。真っ暗な窓には、何の木か枝先だけが覗くように見えている。

 そのとき、ふわりと何か白っぽいものが、窓を横切った。


「あっ」


白っぽいものはすぐに消えた。大きさから考えて動物では有り得ない。

人だ。

「待て!」

 健介は土間の三和土に駆け下り、窓に手を掛けた。建て付けが古いらしく、すんなりと開かない。頭に血が上った。


 今のは、誰だ?

 こんな時間に、誰が家の中を覗いたのだ?

 ゆこあみ組が、林道で遭遇したという、白っぽい何者かの話が蘇った。そして小菱田さんが呟いた言葉も。


――山拐かもしれん。

 だとしたら、今、家を覗いていたのが山拐だとしたら……。

 

 ようやく窓が開いた。

 外に出てみた。

 誰もいない。冷たくて静かな夜があるばかりだ。

 家の中から漏れる光が、わずかに闇を薄くしている。

 足元には飛び石が敷かれていた。植木鉢も並べられている。

 

 光が届かない場所は、怖いほどの闇だった。家を囲む竹林が、覆うように家に迫っている。

 

 パラパラと雹のように、何かが降ってきた。

 小石だ。上のほうからこちらへ目がけて落とされた小石が、地面に弾む。

 振り返ろうとした瞬間、健介の体が、ふわりと浮き、それから地面に叩きつけられた。


「ううっ」


 一体、何が起こっているのかわからなかった。何者かに、体を持ち上げられ、叩きつけられた。それだけは確かだ。

 ビュウンと強い風が吹いて、健介は目を背けた。間髪を入れず、何者かの鋭い一撃を顎に食らう。立ち上がろうとした健介の体は、吹き上げられるように飛ばされた。

 まるで、堅牢な男のアッパーを食らったかのようだ。

 

 健介は懸命に後ずさり、そして立ち上がった。自分でも気づかぬうちに、腰を落とし、肘を引き、防御の姿勢を取っている。

 

 ヒュッとふたたび風が動いて、何者かの気配を感じ取った。辺りは薄闇があるばかりだが、何者かの強い意思が健介に注がれているのがわかる。

 この感覚。

 健介は唾を飲み込んだ。昔、試合のとき味わった感覚だ。決めのパンチを出そうとしている相手が放つ、強力な殺意。

 

 シュッと音を立てて、ふたたび何者かが健介を狙ってきた。感覚を頼りに体を反応させる。

 

 ドスッという音とともに、健介の後ろの木の幹に穴が開いた。

 ザザアッと、枝が揺れる。それからまた、気配が動く。

 何も見えない。

 健介は目を閉じた。感覚で気配を追う。

 

 昔得意だった、左フックを打った。拳は宙を切ったが手応えはない。

 どうすれば。

 何か武器があれば。

 天啓のように、養父・総一朗の言葉が蘇った。

――山拐を倒す刀。

 それがあれば、この不可解な形のない魔物を倒せるのか。

 

 そう思ったとき、家の中から、

「西尾さん!」

と、虎太郎の声がした。

 途端に、足元を救う強い風が吹いて、散らばった石礫が生き物のように流れて、宙に舞い上がる。

 

 懐中電灯の光とともに虎太朗が出てきたとき、石礫は消え去り、辺りに静寂が訪れていた。


「どうしたんですか、急に飛び出して」

「窓に、窓に白っぽい何かを見たんだよ」

「え?」

 虎太郎が辺りを見回す。懐中電灯の黄色い光が、木立の奥を照らした。


  誰もいない。


「誰か、家の中を覗いていたんだ。間違いない」

「どんなヤツだったんですか」

「白っぽい影だった。それ以上はわからない。だが、人だと思う。大きさから考えると、人としか考えられない」

「人? まさか。ここへ来るには一本道しかないんですよ。車で来るにしろ歩いてくるにしろ、うちの前を通らなきゃ、この庭には入れない。しかも、この上に、家は一軒もないんだ」

「だが、見たんだ」

 そして襲われたのだ。

 だが、健介は口をつぐんだ。たった今、食らったパンチを、自分でも信じられない。

 

 山拐は、いるのだ。

 

 その確信は、徐々に恐怖に変わっていく。


「だいじょうぶですか」

 気づかぬうちに、健介は左手の拳を口に当て、木立の奥を睨んでいた。

 と、そのとき、健介のポケットでスマホが鳴った。



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