第14話

   山


 あ、また見ている。

 

 虎太郎は額に巻いたタオルを取り首筋の汗を拭うと、西尾健介に目をやった。

 檜の若木の間で、彼は所在なく立ち尽くして、森の奥を見つめている。


 今、下刈りを続けている場所の奥には、去年間伐をした森がひろがっている。勢いよく枝を伸ばした木々が陰を作って、薄暗い、幻想的な空間を作り出している。その森を、西尾は見ていた。

 

 西尾健介が、丸橋林業で仕事をするようになって、一ヶ月ちょっと。彼の仕事ぶりは申し分なかった。西尾はいままで雇われたどの男よりも、よく働き、弱音を吐かなかった。

 親ほどの年齢であるのに、年下の虎太郎たちゆこあみ組の指示によく従う。機材を扱うセンスもいいし、それに、何より虎太郎が西尾に好感を抱いているのは、この仕事にたいしてリスペクトを感じるからだ。

 それは、仕事を終えて、後始末をするときに強く感じる。

 朝早くから山の斜面に立ち、重い機材を扱うと、夕方には砂袋を担いでいる気分になる。それなのに、西尾は機材を丁寧に片付けるし、終えた現場を見渡してから斜面を下りる。まるで、今日もありがとうと山へ声をかけているかのように見える。

 

 ただ、仕事の合間に、ふと森の奥を見つめる西尾の眼差しに、虎太郎は違和感を覚えていた。

 その目には、森の美しさや静謐さを愛でている目とは思えない光を感じるのだ。

 何か、焦がれるような、切ないような。

 

 そんな西尾の様子を、ゆこあみ組のみんながみんな、快く思っているわけではないようだ。

 佑樹は、

「あのオッサン、いい年して、モラトリアムなんじゃないの?」

と言う。モラトリアムの意味がわからなくて訊き返したら、

「大人になってないってこと」

と言っていた。

 秋生は、

「ちょっと病気なんじゃないの?」

と、こめかみを指で差してみせた。

 

 休憩中にも、自分のことをまったく口にしない西尾は、何を考えているかわからない男と思われているようだ。


「ねえ、西尾さんのこと、噂で聞いたんだけど」

 美月に声をかけられて、虎太郎は顔を向けた。

「驚いちゃった。西尾さんね、自分の息子を探しに来たんだって」

「息子?」

 思わず声が大きくなってしまった。

「事務所でオヤジさんが社長と話してた。神尾井村で、二年前に十五歳の男の子が行方不明になったらしいんだけど、西尾さん、その子のお父さんらしいよ」

「えっ」

 虎太郎はあらためて西尾を見た。さっきと同じ姿勢で、森の奥を見つめている。


「その子ね、山で行方不明のままみたい。家出して遠くへ行ったとも言われてるらしいんだけど」

 忘れられない出来事だった。虎太郎はそのとき山狩りをした捜索隊に加わったのだ。町から来た警察や消防の人々といっしょに、村の日役(ひやく)と呼ばれる村の共同作業の結として駆り出された。


 いなくなった風弓猪鹿毛は、虎太郎より二つ歳年下で、知らない子どもではない。


 小さな村だ。子ども同士、年齢に関係なく野山を駆け回る。


――あの、猪鹿毛の父親なのか。


 猪鹿毛がいなくなった日のことは、よく覚えている。


 秋だった。

 神尾井村では、秋の終わりに祭りが開かれる。秋の収穫を喜ぶ昔ながらの祭で、稲の穂で作った人形が山車に乗せられ、村中を廻る。観光客が来るような華やかな祭りではないが、昔から続く、村の大事な行事だ。

 

 山車は大人が曳くが、十五歳までの子どもたちは、小ぶりの太鼓をそれぞれ持って、山車の後をついて歩く習儂だった。昔、祭りの日には、村の子どもたちがみんな学校を休んだものだったらしいが、最近では、そんな微笑ましい習慣も廃れ、山車は子どもたちが学校を終えた時間、夕方に曳かれるようになっていた。

 真っ赤な夕日が山にかかる頃、太鼓を叩きながら、子どもたちは練り歩く。あの日、猪鹿毛も、その行列の中にいたという。

 村を一回りするのに、どれぐらいの時間がかかっただろう。出発した神社から村の中心部に戻ったときには、すっかり日が落ちていたらしいから、五時か六時にはなっていただろう。


 はじめに、猪鹿毛がいないと気づいたのは、祭りのあとの、炊き出しをしていた農家の婆さんだったそうだ。子どもらの人数分の餅を配っていたとき、一つ余った。誰かが多く食べたのだろうと、はじめは気にしなかったが、汁と煮物をのせた盆も余って、誰かいないと騒ぎになった。


 猪鹿毛の家の者も炊き出しに出ていたが、公民館の奥で煮炊きの世話をしていて気づかなかった。

 

 大騒ぎになった。酒が入っていた村の男たちも、酒宴を途中で切り上げて、村中を探し回った。

 神社の境内で友人たちと炊き出しを貰っていた虎太郎も、村の結としてメンバーに加わり、二人一組となって捜索に出かけた。

 

 猪鹿毛と同じ列で太鼓を叩いていた少年から、村はずれの道までは、いっしょにいたことがわかっていた。行列は、村はずれの祠のある場所で、Uターンをしてくる。いなくなったのは、その場所に違いないだろうと、真っ暗な藪の中を探し回った。

 

 大人が手にした松明の明かりが、しんと冷えた藪の中に、ゆらゆらと残照の糸を引きながらきらめいていたのを思い出す。

 その中に、隠じいもいた。年だから、隠じいは家で待っていろと言われたにも関わらず、曲がった腰をおして歩き回っていた。

 

 三、四十分も探しただろうか。

 猪鹿毛は見つからず、誰かが、村の駐在所に知らせに行った。

 駐在所の巡査が町の消防隊を連れてくるまで、祠のところで待った。みんな疲れきって、不機嫌だった。

 猪鹿毛の母親は半狂乱で、村の女たちに支えられて、ようやく正気を保っているような状態だった。


「山へ入ったかもしれん」

 大人たちは口々に言い合っていた。

 やがて、山狩りが行われることになった。消防隊の指示に従って、袈裟山と丸木山に向かった。

 あのとき、もし、その先の明見山まで探しに行っていたなら、猪鹿毛は見つかったかもしれないと、虎太郎は思っている。

 

 袈裟山と丸木山を重点的に探したのは、少年の足で、日の落ちた山を、明見山まで行けるはずがないと判断されたからだ。そして、隠じいの意見が取り入れられたからでもある。

 猪鹿毛が姿を消した祠のある場所は、明見山へ行く道には通じていなかった。猪鹿毛は袈裟山か丸木山にいるはずだと、隠じいは言い張ったのだ。

 

 いなくなった猪鹿毛のことも心配だったが、高齢の隠じいの体調も気が気ではなかった。虎太郎は途中から隠じいといっしょに、歩いた。

 

 あのときの、おじいの目。思いつめた目。

 

 あの目と、今、森の奥を見つめる西尾の目が似ていると、虎太郎は思う。



「西尾さ~ん」

 笑いを含んだような、秋生の声がした。

「何を見てるんですか~!」

 西尾がハッとした表情で振り返った。

「この山には、天狗も鬼もいませんよ~」

 秋生はふざけている。だが、西尾の表情は、悲しげに歪み、笑顔にはならなかった。


「秋生! さっさと仕事を片付けろ!」

 怒鳴った虎太郎を、秋生は怪訝な表情で見返す。

 虎太郎は斜面を上り、西尾に近づいた。

「すみません。秋生も悪気があって言っているわけじゃ」

「いいんだよ。ボーッとしてた俺が悪いんだ」

 西尾は下狩り機に視線を落とした。ここは、もう刈らなくていいかなと呟く。

「あの……西尾さん」

 虎太郎も下狩り機を見つめる。


「猪鹿毛くんのお父さんなんですね」

 西尾が顔を上げた。

「美月が会社の事務所で、オヤジさんと社長が話しているのを立ち聞きしちゃって」

 西尾は表情を変えなかった。

「黙っていて申し訳ない。息子を探すために、丸橋林業で働くようになったんだ。離婚したあとに生まれた子でね、会ったこともないんだけれど」


「いい子でしたよ、猪鹿毛は」

「知ってるのか? 猪鹿毛を」

「はい。僕より二歳年下ですけど、村の子どもはみんないっしょに遊びましたから」

 西尾の表情が緩んだ。

「嬉しいよ。猪鹿毛の存在を、今日、初めて感じた気がする」

「いるといいですね、どこかに」

「ああ。でも」

 斜面の上のほうで、下狩り機の音がし始めた。佑樹の刈る音かもしれない。


「義父の総一朗は、猪鹿毛は山の中で生きていると信じてるんだ。でも、俺は信じてるとは言い切れない。信じようとしていると言ったほうが当たっている」

「信じようとしている?」

「養父は、猪鹿毛が山の中に棲む何者かに連れ去られ、そして彼らといっしょに暮らしているというんだよ。そんなこと――本気で、信じられるはずがないだろ。江戸時代の昔ならいざ知らず、今この現代で。まして俺は、山で育った人間じゃない。自然の脅威を身近に感じた経験はないし、恐れた覚えもない。そんな人間が、山奥に棲むというモノたちの存在を信じられるはずないじゃないか。でも」


「でも?」

「俺は信じたフリをした。義父にたいしてじゃない。自分をそう誤魔化したんだ。誤魔化して探せば、自分のせいで父親を知らずに育った息子への、言い訳ができると思った」


 おい、こっちを手伝ってくれと、秋生が二人を呼んだ。

 わかったと返事をすると、西尾は踵を返した。虎太郎も後を追った。




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