第12話

 静かな町だ。

 開け放したアパートの窓から、健介は表を見た。

 アパートは二車線ある道路から一本奥へ入った、細い道沿いに立っている。


 窓からは、広々とした田んぼと、その向こうにある工場か何かの無機質な建物が見えた。その前を、トラクターがゆっくり進んでいくのが見える。


 鳥の群れが、夕暮れの空を渡っていった。

 群れを追って顔を向けると、林の合間からコンクリートの橋脚が見えた。その上に、トラックが走っていく。


 絶景でもなく、風情があるわけでもない風景だが、健介には新鮮だった。ここへ来るまで暮らしていた神奈川の鶴見のアパートには、隣のアパートの軒先が迫っていた。

 窓を開けて、清々した気分になるのは何年ぶりだろう。


 ここは、尾鷲市の山側にある静かな住宅街。本当なら神尾井村に暮らしたかったが、村に貸してくれる部屋はなかった。

 回った不動産屋で、どうせなら、熊野灘が見える海側の物件はどうかと言われたが、健介はあえて山側を選んだ。猪鹿毛が育った山に、少しでも近づきたかった。


 ここからは山がよく見えた。といっても、山の入り口はもっと遠い。神尾井は、更にそのずっと奥にある。



 部屋の中には、まだダンボールが置かれていた。引越し荷物だ。四つあったうちの最後の一個で、鍋や茶碗などの、簡単な台所用具が入っている。

 引越しは、レンタカーを借りて、自分だけで済ませた。大した荷物はないから、すぐに終わった。

 

 羽矢子と別れて一人になってから、ほとんど荷物は増えていなかった。日常生活を大切にするような暮らし向きではないせいか、生活必需品以外に荷物は増えなかった。


 ボクシングをやめてから、趣味と言えるほどのものはなく、仕事の休みには、古本屋で買った文庫本を読むか、パチンコで時間を潰す。

 もともとギャンブルは好きじゃないから、パチンコ以外には手を出さないが、暇つぶしだと台のほうに見破られるのか、勝った試しはない。文庫本のほうは、名前も知らない作家の、それも古い作家の、旅行記を探して読む。旧仮名遣いが使われていたり、昔の言い回しがあって読みにくいが、かえってそれがいい。ぼんやりするために手に取るのだ。パチンコと同じ愉しみ方なんだろう。


 何をしても。


 健介は遠くで瞬きはじめた星を見つめた。

 

 何をしても、ボクシングほど、夢中になれるものはなかった。ずっと前から。そして今でもそうかもしれない。カッと胸を焦がすような興奮。試合に向かうあの瞬間に勝るものはない。


 猪鹿毛の話を聞いたとき、忘れていた熱い何かが、体中にみなぎるのを感じた。自分でも信じられなくて、認めようとしなかったが、たしかに、蘇ったのだ。

 

 夕焼け雲の鮮やかさが薄れ、群青色の空が降りてきた。星が輝き始めている。

 喉の渇きを覚え、健介は一人暮らし用の、小さな冷蔵庫を開けた。引っ越してきたばかり、電源を入れたばかりだ。案の定、冷蔵庫の中は空っぽだ。

 近くにコンビニに似た店があったのを思い出し、買い物に出ようと思った。たしか、名前は。なんとかストア。この小さな町には、チェーン展開のコンビニはないようだ。

 

 アパートの部屋を出て、店を目指した。町に慣れていないせいで、歩いては立ち止まり、方角を確認した。見覚えのある電信柱の広告を見つけ、次の角を曲がれば大きな通りへ出るとわかる。

 ストアの看板が見えてきた。白地に黄色い字の看板。小池ストアとある。田舎らしい、どこか微笑ましいたたずまいだ。


「西尾さ~ん」


 声のした方へ顔を向けると、オレンジ色の短パンにグレーのパーカー姿の若い女性が、手を振っている。

 昼間紹介された、丸橋林業の社員だった。彼女の横には、同じく昼間会った若い男たちもいる。


「どこ、行くんですかーー」


 どうしたものかと立ち尽くしていると、女性を先頭に、彼らはこちらへ道路を渡ってきた。車の数が少ないせいで、あっという間に渡りきってしまう。


「お出かけですか」

 昼間、気さくに話しかけてくれた青年も叫ぶ。ゆこあみ組だった。



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