第10話
病院の入口ロビーに下りていくと、一列に並んだ受付の椅子に中央あたりに、ジャンパー姿の小柄な老人が座っていた。
手に、黒っぽいキャップを持っている。
小菱田だ。
健介は近づいていった。顔を知らない間柄、目印に手に黒いキャップを持っていると、小菱田は提案してくれた。
小菱田のほうでも、近づいてくる健介を、すぐ目当ての相手だとわかったようだった。黒い小型のスーツケースを引いている。そう伝えておいたからだ。
立ち上がって、ごま塩頭を下げたあと、小菱田は眩しそうな目になった。
「西尾です。お世話になります」
スーツケースから、買ってきた菓子折を渡し、頭を下げる。
小菱田はくしゃくしゃっと人のいい笑顔を返してくれた。年齢は八十に近いか。その割に、立ち姿がしっかりしている。
小菱田の車は、病院の駐車場に止めてあった。小型のトラックで、荷台にはビニール袋に入れられた土が数個乗せられている。
「ありがとうございます。助かりました」
羽矢子の墓参りをすると言った健介を、小菱田は村まで連れて行くと申し出てくれた。願ってもない申し出だった。神尾井村に行くバスは、一日数本しか出ていない。
「気にせんとおいてください。町に用もありましたから」
電話で聞いたところによると、小菱田は、数年前奥さんを亡くして、今は一人暮らしだという。村の世話役を買って出ているのは、暇つぶしを兼ねていると笑っていた。
老人の運転にしては機敏な動きを見せて、車はすぐに市街地を抜けてしまった。
そこからは、山間のうねる道が続いた。走るほど、道は狭くなり、山は高くなった。
前方は、折り重なる山が続き、空が三角に切り取られたように見えた。その青い空に、時折なんの鳥か、横切っていく。
窓の下を見ると、流れの早い川が木々の隙間に見えた。深い緑色の水が、岩に当たって白い水しぶきを上げている。
「ずいぶん険しいところですね」
健介の呟きに、横顔のまま、小菱田は笑った。
「慣れとらんと、危ない道です」
「村に入る道はここだけですか」
用があるたびにこの道を通るには難儀なはずだ。
「そうです。数年前、世の中の景気が良かった頃があったでしょう。その頃に、道を造るいう話は出たんですが、景気が後退してすっかり立ち消えになりました。けども」
ハンドルを左に回しながら、小菱田は続ける。
「開発されんかったおかげで、村は昔のままの姿を残しとります。おそらく、こんな村は全国でもめずらしいんじゃないかと思いますよ」
「自然がそのままってことですね」
車は鬱蒼とした森に入った。
「自然もそうですが、人もです。村のもんは、若い世代、と言うても、五十過ぎですが、古いしきたりを大切にしてくれとります。年に一度の祭りも、昔とおんなじやり方で」
深い山奥に、忘れられたような里。
ふと、栄子の言った言葉が蘇った。
山の民、山拐。
そんな話を信じて生きている村人がいる里なのだ。
フロントガラスが真っ暗になったと思うと、車はトンネルに入った。
思いのほか長いトンネルだ。前にも後ろにも通行する車はない。
「総一朗さんが見たという孫の話ですが」
健介は思い切って尋ねてみた。
「小菱田さんは、総一朗さんの勘違いだと思いますか」
ライトが照らす場所だけが、闇の中に浮かび上がっている。
「わたしも孫がおりますから、総一朗さんの気持ちはようわかるんですが」
「やっぱり、夢でも見たんだと?」
「そう考えんことには、納得できんじゃないですか。ただ」
「ただ?」
「総一朗さんは、いままで、そういうことを言う人やなかったですから。理屈できちんとものを考える、至極真っ当な人やったんです」
「栄子さんとも話しました」
「あの人も、ずいぶん気落ちしとるようですな。しっかり者の亭主が、わけのわからんことを言うようになってしまって」
「山拐の話を聞きました」
瞬間、小菱田の横顔が強ばったように見えたが、思い違いだろうか。
「村では昔から言い伝えられてきたようですね。山拐という山の民が、山の奥深くに棲んでいると」
「古い、古い言い伝えです。もう、村のほとんどのもんは知らん話です」
「総一朗さんも、栄子さんも、孫の猪鹿毛は、山拐に連れ去られたと思っているようです。だから、猪鹿毛は生きていると、だから戻ってきたと」
「そんなことを言っとりましたか。そんな夢みたいなことを」
「――老人の妄想ですか」
小菱田は、横顔でうなずき、小さく呟く。
「ほんに馬鹿なことを」
その言い方は、孫を懐かしむ老夫婦を哀れんでいるように聞こえる。
目の前がパッと明るくなった。車がトンネルを抜けたのだ。
すぐ先に、赤い鉄橋が見え始めた。橋を渡る。
下を覗いてみた。深緑色の水が、はるか下でゆったりと流れていく。
やがて、山と山の間に、細い扇状の谷が見えた。段々畑が日の光を浴びていた。山肌にへばりつくように建った家の瓦屋根が、朝日に照らされて、銀色に光り輝いている。神社の屋根と、その鎮守の森。傍らに流れる水路も見える。
「神尾井村です」
村は濃い緑の山々に包まれているようだった。谷を挟んで山が重なり合っている。右が袈裟山、左が丸木山。その向こうで聳えているのが明見山だという。
山に囲まれた村だ。山の民に連れ去られたという総一朗の言い分が、真に迫ってくる。そう思わせるのは、村の北側の一部が、薄暗く見えたからだ。日の光が当たる場所との対比が著しい。
不思議に思って目を凝らしていると、小菱田に気づかれた。
「あの辺りは半日字(あざ)と言いましてな、一日のうち半分ほどしか日が当たりません」
「あれは」
陰に沈んだ家々のまわりを、星を蒔いたように黄色い小さな花が覆っている。
「カタバミですなあ。昔はなかったが、どこからか種が飛んできて群生しとります。おかげで、半日字でも、少しは明るくなって」
それからしばらくは、小菱田は運転に集中し、健介も黙って窓の外を流れていく木立を見つめ続けた。
時折、道にはみ出した木の枝が、窓を叩いてバサバサと音を立てる。
「町の警察も呼びまして」
横顔のまま、ふいに小菱田が声を上げた。
「山狩りは大々的に行われました。そりゃあもう、みんな必死でしたよ。特に村の駐在所の越久さんは、懸命に探してくれました。越久さんじゃなければ、町の警察もああは真剣になってくれんかったでしょう」
十五歳の少年が行方不明になったのだ。大人たちは血眼になって捜索したのだろう。
「あれは、秋の終わりでした」
小菱田の声が、沈む。
「一ヶ月ちょっと捜索は続けられました。冬を迎える前に、どんなことをしてでも猪鹿毛を見つけならんと、必死でしたなあ。山をよく知る林業組合も出張りましてね。そうそう、あんたがここで勤めるという、丸橋林業の社長さんたちも協力してくれました。が、結局、猪鹿毛の痕跡はどこにも見当たりませんでしたよ。それで、仕方なく捜索は打ち切られたんですが。そのあと、いろんな噂が囁かれるようになって」
「噂?」
「そうです。山に棲むもんに連れ去られたんじゃいうのは、はじめっから村人たちの口に上がってましたが、半年ほどたってからです。名古屋で猪鹿毛を見たいうもんがおると」
「名古屋? それはどういうことですか」
「どうもこうもない」
小菱田はふっと息を漏らす。
「誰かがいなくなると、人はいろんなことを言うもんですよ。特に今は、インターネットと言うんですか。わたしみたいな老人にはわからないが、そういうのを使って、いろんな人が様々な憶測でものをしゃべる。どこから誰が手に入れたか知りませんが、写真も出回りましてな。それで、この地方からいちばん近い都会である名古屋で、似たような少年を見かけたということなんでしょう。あるもんは、夜の街を徘徊する猪鹿毛を見たというし、あるもんは、トラックに乗った猪鹿毛を見たと言いました」
ざわざわと、健介の心に不穏な何かが湧き上がった。もし、猪鹿毛が家出をしたとすれば、夜の街を徘徊していても、トラックに乗っていても不思議ではない。
「根拠のない話です。総一朗さんと栄子さんには気の毒じゃが、猪鹿毛は山の奥の沢に落ちて、帰ってこれんようになったんです。それが、いちばん妥当な答です」
噛み締めるように、小菱田は言って、車の速度を緩めた。車は村道に入ったようだった。
小菱田の案内で、羽矢子の墓に参ってから、健介は東京から連絡を取ってあった、林業業者を訪ねた。
丸橋林業。アルバイトとして、健介が働く希望を寄せた会社だ。主に樹木の伐採を手がける会社で、山の持ち主から依頼を受けて、いくつもの山を管理しているようだった。
採用に当たって、会社の担当者は、特に何の注文もつけてこなかった。
「きつい仕事だけど、だいじょうぶですか」
とか、
「あまり報酬がいいとは言えませんが」
とか、そんな呟きを漏らしただけで、林業の経験がないことや、四十九歳という健介の年齢にもこだわらなかった。ネットで調べてみると、この仕事の定着率の低さが問題視されていた。そして、若い世代の就業率が低いことも。自分でもすぐに採用されたはずだと、健介は納得がいった。
町の中心部から国道沿いにしばらく山に向かった先に、丸橋林業はあった。想像していた建物とはずいぶん違っていた。山が迫る広い敷地に、簡易なプレハブの四階建ての建物と、倉庫のような小屋がいくつかあり、様々な重機が無造作に駐車されていた。
木を切るチェーンソーの音が響いていた。敷地の奥のほうに、積み上げられた丸太があり、そこで人が作業をしているようだった。
すみませんと声をかけ、健介は敷地の中へ入っていった。二度声をかけたが、チェーンソーの音にかき消され、返事は戻ってこない。近くまで行ってみようと思ったとき、後ろから声をかけられた。
「西尾さんですか」
振り向くと、灰色の作業服を着た、初老の男性が立っていた。
初老の男性は、増岡と名乗った。この会社の社長をしているという。建物の入口を示しながら、増岡は、
「遠くからよう来なさった」
と、笑顔になった。
増岡にしたがって建物に入った。事務机が二つと、くたびれた応接セットがあるだけの、殺風景な室内だ。中年の、長い髪を後ろでまとめた事務員の女性がいるだけ。
その彼女が、ソファに座った健介に、茶を出してくれた。
壁に、山の写真が飾ってあった。季節ごとに、四つある。冬の写真がいいなと、健介は思った。木々に雪が被り、その向こうに真っ青な空が見えている。
「明日からで構わんかね」
ふいに声をかけられて、健介は飲んでいた茶をこぼしそうになった。
「はい。わたしはいつからでも」
「経験はないみたいだねえ」
社長は書類を眺めている。健介の履歴書だろう。
「経験はありませんが、体力には自信があります」
これは、電話で応募したときにも伝えた。
「ほう。プロのボクサーだったんかね」
それには返事をしなかった。履歴書には書いてあるが、あまり自慢できる戦歴はない。
社長は音を立てて茶をすすった。事務員の女性が、コピーを取る機械音が響く。
「それで、なんで、こんな田舎に」
予想してきた質問だ。健介は背筋を伸ばした。
「離婚した妻が、こちらの出身でして。義父にすすめられてこの仕事をやってみようかと」
総一朗に山仕事をすすめられたわけではないが、行方不明の息子を探すためだとは言えない。
「どの辺りの方ですか」
そう言って、社長は、ふたたび書類に目を落とす。健介の落ち着く先の住所を見ている。だが、健介は、町のアパートを借りた。村に住みたかったが、貸家はなかった。
「義父は神尾井村で、ずっと山仕事をしていました」
「神尾井村?」
社長が顔を上げた。
「名前は」
「風弓総一朗です」
言った途端、社長が破顔した。
「総一朗さんなら、よう知っとる。ベテランの木こりや」
そして社長は、ふたたび茶をすすってから、
「この辺りの山で、あの人の知らんところはない」
どうやら義父は、林業に携わる者の中で知られた存在のようだ。
「ええ木を育てておった人や。だが、寄る年波には勝てん。今、いくつになったかね」
健介はわずかに首を傾げた。
「もう八十は過ぎているはずですが」
「そうやなあ。それぐらいにはなるはずや。だから、なかなか新しいやり方にはついて行けん」
含みを持った言い方をされたところで、入口のドアが開いて、中年の体つきのよい、日焼けした男が入ってきた。
「オヤジさん、ちょうどよかった」
社長が立ち上がって、健介を引き合わせた。
「明日から、この人の下で働いてもらう」
オヤジさんと呼ばれた男は、三島正美といい、現場監督だという。
健介が頭を下げると、三島は値踏みするような目で健介を一瞥してから、
「あんたかね、都会から来たアルバイトってのは」
そう言って、手にしていたヘルメットを無造作に机の上に置いた。あまり歓迎されていないようだ。
よろしくお願いしますと言おうとすると、三島は顔の前で片手を振った。
「堅苦しい挨拶なんか、いらんで。怪我せんように、それだけは気をつけてもらおう」
三島が建物を出て行くと、社長が三島の態度の理由を聞かせてくれた。
「あんまりええ気持ちやなかったやろうけれど、勘弁な。若い子に来てもらいたいのが本心でな。それが、来てくれるのは、あんたぐらいのオッサンばっかりで」
そんなことはなんでもなかった。雇う側にしてみれば、当然だろう。
「年を食っとるからって、真面目に働いてくれんわけやないんやが、もたんのよ、体が。すぐにやめる人が続いたんで、オヤジさんもおもしろないんや」
「自分はだいじょうぶです」
社長は笑って頷いただけだった。
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