第9話

 病院の廊下を進みながら、健介は、総一朗の放った言葉を反芻していた。


 山。

 さらわれた。

 そして魔物に立ち向かえる忍び刀。


 どの言葉も、総一朗が妄想を抱いている証のように思えた。


 エレベーターホールに着いて、下りの釦を押した。これから村へ行き、羽矢子の墓参りをするつもりだ。

 猪鹿毛の墓はあるのだろうか。

 もしあれば、その墓にも手を合わせたい。土の下から息子は責めるだろう。今更来やがって。きっと息子はそう言うだろう。


 チンとエレベーターが止まる音がしたとき、後ろからパタパタと近づいてくる足音がした。

 栄子がこちらに向かってくる。健介はエレベーターをやり過ごして、廊下を戻った。


「どうかしましたか」

 栄子は首を振ると、健介を見上げた。

「お父さんが何を話したんか、ちょっと気になりましたんで」

 夫を「お父さん」と呼んでいるようだ。

 ああ、そのことでしたらと、健介は笑顔を作った。

「猪鹿毛くんのことが気になるようですね」

 息子をくん付けで呼ぶのは妙な気がしたが、この人たちに比べれば、自分は他人に等しいと思う。

「大きな怪我をなさったんだから、いろんなことを考えてしまうんでしょう。猪鹿毛くんの夢を見たって、言ってましたよ」

「夢って、お父さんがそう言ったんですか」

「いや、夢とはおっしゃらなかったが、猪鹿毛くんが枕元に立ったとか」

「ほんとなんですよ!」

 小さな体を震わせて、栄子は目を剥いた。


「ほんとって、どういう」

 健介は栄子の勢いに面食らった。

「猪鹿毛はほんとに帰ってきたんです。小菱田さんも、村のだあれも信じてくれませんが、ほんとに……」

 猪鹿毛をかわいがっていたのだろう。そして、この二年、この人の心から、猪鹿毛は消えなかったのだろう。


「僕も信じたいですよ」

 健介は小さな老婆の肩に手を置き、廊下の壁へ寄せた。壁に据えられた手すりに、栄子は掴まる。

「信じたいけど、二年も行方のわからなかった少年が、突然戻ってくるとは考えられません」

「山で生きとると、お父さんもわたしも信じておりました。あいつらに山にさらわれたが、あいつらなら、殺しはせんから」

「あいつらって」

 この人も、妄想を抱いているのだ。そう思わずにはいられない。


「村の山の奥深くに、山の民がおるんです」

「山の民?」

「山拐(やまかい)と言われております」

 山拐。

 その禍々しい響きに、健介は息を呑んだ。

「昔っから、神尾井の村で言い伝えられておる話でしてな。今でも、年寄りは山拐の存在を信じとります」

 

 栄子の話によると、村の山には、何百年も昔から住みついた一族があり、村人と隔絶した生活を営んでいたという。彼らは特殊な能力を身に付け、山から山へ渡り歩きながら生活をし、古い時代には、時の権力者と結びついて、戦場の最前線で働いた言い伝えも残っているという。

「忍者みたいなものですか」

 荒唐無稽な話に、健介は戸惑う。

「忍びは人ですわいな」

 栄子は顔を歪めた。


「あいつらは人のようで、人じゃありません」

「それなら、天狗みたいなものですか」

 天狗であれば、村にいるという魔物は、想像の産物でしかない。

 栄子が薄く笑い、首を振った。

「姿がないんじゃ」

 呟いた栄子の目は、冗談を言っているようには見えない。


「姿が、ない?」

「忍びは普段は田も耕す、木も切る。ちゃんと目に見える生活をしとる者だけども、あいつらは違うんです。人間には姿が見えん。でも、おることは間違いない。山拐たちは木々の梢の上で暮らしとると言われとります。尾根から尾根へと自由自在に行き来して、村人が決して足を踏み入れない深い谷に住んでおると。人なら溺れる暗い淵で食べ物を摂り、人には届かない木の梢で実を取り、決して里には姿を現しません」

「見た人はいないんですか」

「数年に一度、噂が流れます。あるもんは、やつらは全身を黒い毛で覆われたごっつい体をし、鋭い爪と牙があり、長い腕にはコウモリの、羽、言うんですか」

「被膜ですか」

「わかりませんけれども、そういうのが付いとったと言いますし、天狗のように空を飛んどったのを見たとか、家ほどもある大きな岩を動かすのを見た言うもんもおります」


「なぜ、山拐という名前なんですか」

「もとは、山雲と言われておったようです。雲はいろんな形になりますやろ。入道みたいな形になることもあれば、小さな虫がいくつも集まって見えるときもある。そうやって形を変える雲のようなもんやと思われとったようです」


 昔話を聞いているような気分になった。目の前の小さな老婆の口から漏れる言葉は、不思議な真実味を持って、健介の耳に響いてくる。老人の気迷い事と聞き流せない何かが、健介の心を掴む。

「古い、古い昔から、神尾井の村のもんは、山拐を畏れて暮らしてきました。普通、山拐は、村人に悪さをせず、木々の梢を渡る風のようなもんですが、時折ふいに怒りを現します。村半分を押し流していった豪雨や、三日三晩続いた山火事は、山拐の仕業だと、古老たちの中には、いまでもそう言って憚らないもんもおります」

 そして、栄子は、ふうと息を継いだ。


「山拐が怒りを現すときには、必ず前触れがあると言われております」

「前触れ?」

「イノシシの骨で、里のもんに警告してくると」

 山の暮らしに沿った言い伝えであると、健介は思った。言い伝えに、イノシシやクマが登場するのはよくある話ではないか。

 だが、次に栄子が語った話には、戦慄を覚えずにはいられなかった。

「そうして昔っから山に棲みついとる山拐ですが、数十年に一度、村の者をさらうといわれております。さらって、山の守り人として育てていくと」


「山の守り人にするために、猪鹿毛がさらわれたというんですか」

 栄子は深く頷いた。

「村には、隠使いという家がありましてな」

「隠使い?」

「昔から、村に祭祀にまつわる物事を請け負う役目の者のことです。代々、世襲されてきた家があるんだけども、もう、いまでは、その役割を務めることもなくなりました」

 隠れ里のような村には、独特の風習があるらしい。


「昔は、隠使いの家は、崇められましたけれども、陰で畏れられておったもんです。それには理由がありましてな。なぜなら、山拐に差し出す子どもを決めるのは、隠使いだと言われてきたからです」

「まるで、人身御供を決めるようなものですか」

「まあ、そうかもしれません。山が雄叫びを発して、川が怒り狂うとき、わたしらにはなす術がありませんじゃろ? 昔の村人たちは、なんとかして自分たちの村を守りたかったんやと思います。いまではもちろん、そんなことは信じられておりません。家は続いておりますが、昔は守っていたしきたりも廃れてしまっております。だけんども、わたしは信じとります。村に伝わるしきたりは、今も続いとるんです。山拐も昔話の中の魔物ではありません。今もおります。今もおって、猪鹿毛をさらったんです」

 栄子は目を閉じて、深呼吸するように息を吸った。そしてゆっくりと吐き出す。


「お父さんさんから、刀のことはお聞きになりましたか」

 戸惑ったまま、健介は頷いた。魔物を倒せるという刀の妄想話も、たしかに総一朗は口にした。

「是非、受け取ってください」

「――なんだか、僕には」

 健介は首を振り、信じられませんよと続けようとして、言葉を呑み込んだ。孫の生存を信じる老人に、常識を説いて落胆させる必要があるだろうか。

 栄子は健介を見た。

「羽矢子の墓に行ってもらえるそうで」

 栄子は柔らかな笑みになった。

「はい。病院のロビーに、小菱田さんが迎えにきてくれることになっています。一人で行くつもりだったんですが、他所者にはわかりにくいだろうと」

「それはよかったです。あの人には、ほんまにお世話になっとります。もう、村は人が年々少なくなっとりましてな。墓も荒れ放題で、あの人が世話をしてくれんかったら、どうなってしまうか」

 そして栄子は、

「どうぞ、よろしゅうお伝えください」

 そう言って、深々と頭を下げた。

 

 チンと音がしてエレベーターが止まり、ドアが開いた。ドアが閉まるまで、栄子は見送ってくれた。

 エレベーターの鏡面の壁にぼんやり映った、自分の姿を健介は見つめた。

 山拐。

 隠使い。

 魔物を倒す刀。


 禍々しい言葉の響きが、まだ耳の底に残っていた。



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