第8話


     神尾井の夏


 総一朗が入院しているという病院は、丘の上にあった。

 この近辺で大きな総合病院らしく、丘全体が病院の施設で占められている。

 

 バスはゆっくりと丘を上り、建物正面のロータリーに入った。

 ほかの乗客たちに続いてバスを降りると、総合受付で目指す病棟の場所を確かめた。総一朗は大腿骨骨折で入院しているが、病棟は、老健である。正式には、介護老人保険施設と呼ばれている。在宅への復帰を目標として心身の機能回復を訓練する施設だ。総一朗は高齢であるため、手術、治療が一段落した段階で、こちらの病棟に移ってきたのだという。


 老健は、外来や売店がある本館とは別棟にあった。広々とした渡り廊下を進み、別棟に入ると、エレベーターに乗る。

 二階でエレベーターのドアが開いた途端、嗅ぎ慣れない異臭に気づいた。排泄物と、消毒液の混ざった臭いだ。真新しい広々としたホールと廊下に、異臭がそこはかとなく漂っている。


 総一朗の病室は、廊下のいちばん端にあった。ドアが開け放され、カーテンが揺れていた。そのカーテンに、廊下の窓からに日差しが注いでいる。

 総一朗は、四つのベッドの奥の窓際にいた。こんもりとふくらんだ布団が見えた。その前に座る、曲がった小さな背中も。


「おはようございます」

 ほかのベッドの患者に遠慮しながら、健介は声をかけた。

 十数年ぶりだった。羽矢子と籍を入れたあと、名古屋で会った。当時、総一朗は六十代後半。妻の栄子は六十代半ばだっただろう。総一朗は日に焼けた顔をした、剛健そうな体つきの男だった。栄子のほうも、女にしては大柄な、美丈夫だった。

 それがどうだ。

 総一朗はすっかり痩せて、白く乾いた顔をこちらに向けている。振り返った栄子は、しぼんだ豆のように、小さく頼りない。


 健介の顔を認めた途端、総一朗の目が潤んだ。栄子の顔も、くしゃっと歪む。

「よう来てくれたな」

 声に力はなかったが、言葉ははっきりしている。

 栄子がお辞儀を繰り返しながら、自分の椅子をすすめてくれた。

「いや、僕は立ったままで」

 言いながら、健介は気持ちだけの土産が入った紙袋をベッドの傍らに置く。

 栄子は笑顔で受け取って、飲み物を買ってくるからと、見た目よりは機敏な動きで、病室を出ていった。


「あれが、あんたに来てくれと頼んだんじゃろ」

 栄子が出て行った、病室のカーテンを見つめながら、総一朗は呟いた。

 栄子に譲られたパイプ椅子に腰掛けて、健介は総一朗に体を向けた。

「羽矢子のことは、僕がいたらなかったせいで」

 総一朗は静かに首を振った。

「あんたとはとうに縁が切れとるんじゃから。それに、羽矢子も村で眠れて喜んじょるじゃろ」

「墓は」

「村の墓地に、うちの代々の墓がある」

「お参りさせてください」

「そうしてやってくれ」


 会話が途切れた。窓の下を通っていく人の声が流れてくる。廊下から、ワゴンを押しているような音も。

 窓に顔を向けて、総一朗が、病院の敷地にある大木に目をやった。なんという木なのかわからないが、枝ぶりは大きく、立派な木だ。


「誰も本気にしてくれんが」

 大木に小鳥が来た。鳴き声が騒がしい。

「猪鹿毛が戻ってきたんじゃ。儂は、はっきり見た」

 キュッと心臓を掴まれたような緊張感が、健介の胸に走る。

「それは、いつのことですか」

「一度目に家へ返ったときじゃ。寝ておる儂の枕元に立って、猪鹿毛は儂を見つめとった」

 枕元に立つ。まるで幽霊だ。

「昔のまんまの猪鹿毛じゃった。あの黒々とした大きな目で、儂をじっと見つめよった」


 昔のままか。


 電話をくれた小菱田を思い出した。この話を聞いた小菱田は、老人の幻覚としか言いようがないと言った。そう判断するのが、妥当だ。

 わかっていた。そう健介は思う。小菱田から電話をもらったとき、猪鹿毛が生きているかもしれないと、有り得ない夢に胸がざわついた。だが、心の奥底で、それは有り得ないと、判断する自分もいた。

 二年間、行方不明の少年が、山の中で、今も生きているはずがないのだ。だが、自分は、何もかもを捨てて、ここへやって来た。一体、何を求めてきたのだろう。


「猪鹿毛は生きておる」

 ふいに、総一朗が呟いた。

「姿こそ見せなんだが、ずっと生きておったんじゃ」

 否定しかねた。老人の妄想。いや、孫の生存を信じる老人の願いだ。それを否定したくない。

「あんたも、信じんかね」

 振り向いた総一朗は、健介を見た。

「僕も、息子に会ってみたいですよ」

 ふんと、総一朗は息を吐いた。相手が本気で聞いていないと思ったのだろう。

「警察は思いつく限りの場所を調べてくれた。電車で行ける大きな街も、県道を通行止めにして、少年を乗せた車を見なかったか、ドライバーたちにも聞いてくれた。だが、猪鹿毛は、街になんぞ、行っとらん」

「山ですか」

「そうじゃ。猪鹿毛は山に入った。それで、あいつらにさらわれたんじゃ」

「あいつら?」

 老人の妄想は、果てしなく広がっているらしい。

「そう。あいつらは、いつも山におって、山を守っとる。猪鹿毛が狙われたのは」

 ガバッと体を起こすと、総一朗は健介の手を取った。

「猪鹿毛が狙われたんは、猪鹿毛にその資格と才があったからじゃ」

 総一朗の目は潤んでいるが、正気を失くした目ではない。


「なあ、健介さん。あの子を見つけて、連れ戻してくれんか」

 総一朗は健介の両手に額を押し付ける。

「お父さん、ちょっと」

「猪鹿毛を連れ戻すのは容易なことじゃないとわかっとる。向こうは魔物じゃ。人が勝てる相手じゃないことぐらい、儂にもようわかっとりる。が、やって欲しいんじゃ。あんたならやれるかもしれん。娘の羽矢子がよう言うとった。あんたは強い男じゃと」

「それは」

 たしかに羽矢子の口癖は、「あなたは強い」だった。その言葉を励みに、自分はリングへ上がったものだった。だが、それは、もう遠い昔の話。

「儂にはようわからんが、あんたは何か格闘技をやっとったとか」

 苦笑いで返すしかなかった。ボクシングはたしかに格闘技の一種だが、リング外で、ボクシングで身につけた技が役に立つシーンなどない。喧嘩はしないと決めている。

 総一朗の目が、深みを増して、健介を見据えてきた。

「魔物相手じゃ、素手で戦えるとは思っちょらん。だけんども、儂には武器がある」

「武器?」

 予想外の言葉に、健介の戸惑いは深まる。

「あいつらを倒せる刀じゃ」


「刀?」

 面食らうしかない。この老人の妄想は、かなりひどいのかもしれない。

「儂の家に伝わっとる古い刀でな。忍び刀と言われとる」

「忍び刀? 忍者が使っていたということですか」

「本当のことはわからん。代々、儂の家で大切にされてきた刀で、日本刀のように刃が反っておらんからそう伝わっとる。魔物に威力がある言われとる刀や。嘘やないぞ。儂の家の仏壇の真上の天井を開けてみてくれ。儂はそこに隠し持ってきた。頼む、後生です。あの刀で魔物に立ち向かい、猪鹿毛を」

 総一朗はふたたび健介の手に額を押し付ける。

「ちょっと、待ってください。僕には何がなんだか」

 

 飲み物を買いに行った栄子が戻ってきた。

 ペットボトルのお茶を持っている。

「お気に召すかわからんけども」

 恐縮しながら、健介は飲み物を受け取った。受け取る際、栄子が申し訳なさそうに目配せをする。総一朗の話は、栄子が毎日聞かされているのだろう。

 いただきますと、ペットボトルの蓋を開けたとき、看護師が病室に入ってきた。検査ですようと、明るい声で総一朗に声をかけ、勢いよくベッドの上のカーテンを引く。

 健介は立ち上がって、病室を出た。


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