第7話

 佑樹の傷は、大して深くはなかった。出血の量は多かったが、傷は深くないという。

 ただ、処置を担当した医師は、首を傾げた。


「刃先がきれいすぎるんだよなあ。普通、もうちょっと切り口の皮膚がギザギザになるんだけどねえ」

 そして医師は、虎太郎たちに向き直った。

「何で切ったのか、ほんとに君たち、見てないの?」

 首を振るしかなかった。まさか、何かわけのわからないものに襲われたとは言えない。


「先生、動物じゃないのは確かですか?」

 虎太郎の問いに、医師はきっぱりと否定した。

「有り得ないね。こんなにきれいな刃先を持った動物がいるとしたら見てみたいよ」

 診察が終わると、鎮静剤を打たれ、佑樹は念の為に一晩病院に入院することになった。

 眠った佑樹と病室で別れ、病院のロビーに来ると、会社の社長とオヤジさんが玄関の自動ドアを入ってくるところだった。


「寄り道すんじゃねえと言っただろうが!」

 オヤジさんに怒鳴られて、社長からもこってり説教を食らった。

 三人はしょげかえった。まるで行き過ぎたイタズラを叱られた小学生のようだった。

 佑樹は山拐に襲われたんじゃないかと言ってみたが、想像したとおり、一笑に付されてしまった。

「そんなものがいるわけがないだろうが!」

 ベテランのオヤジさんに言い切られてしまっては、返す言葉がない。社長もオヤジさんも、佑樹の傷を見る機会はなかった。傷を見ていなければ、信じてもらえるとは思えない。


 秋生に送られて、虎太郎が家に着いたのは、八時すぎだった。

 真っ暗な神尾井村の道で車から下ろしてもらい、石垣の階段を登った。陽のあるときは、広がる段々畑が見られるが、夜は闇の海が広がっているかのようだ。

 足元に父親が取り付けた裸電球の帯がある。その光のおかげで、安全に階段を登ることができる。

 あたたかな家の明かりが庭から見え始めたとき、虎太郎は後ろを振り返った。下のほうで秋生の車の音がかすかに聞こえ、ヘッドライトがときおり光る。


「遅かったねえ」

 出迎えてくれたのは、母親の光代だった。

 虎太郎は今日の出来事をおおまかに話した。佑樹が怪我をしたのは、ただの事故だと話した。心配はさせたくない。

 父親にも言わなかった。村の林業組合で経理をしている父親に言っても、今日の恐怖はわかってもらえないと思う。

 母の得意料理のラザニアを食べたあと、虎太郎は首を伸ばして、土間のほうを見た。


「おじいは?」

 いつもは食事の後も、土間から続く囲炉裏のある部屋で横になっているのに、今夜は姿が見当たらない。

「今日は風邪気味や言うてな。ご飯すんだら、すぐ寝床」

「そうか」

 虎太郎が祖父の様子を尋ねたのには、理由があった。今日の出来事を話してみようと思ったのだ。正熊なら、何か答を知っているかもしれない。

 九十二になる正熊は、村では隠のじいと呼ばれている。父方の祖父である正熊は、いまでは廃れてしまった村の葬送を司る隠使いの男だった。

 隠使いとは、村人の葬送の際、山に棲む神を呼ぶ役目のことだ。神尾井の村において、神は一般の神とは役割が違う。神はあの世へ人間を連れて行く存在で、そのため、村人はあの世を恐れない。

 神に人を引き渡すのが隠使いだ。隠使いの手引きによってしか、人は神に引き渡されない。遠い昔から、神尾井の村人は、死ぬ間際、隠使いによって、心穏やかにあの世へ渡ると信じられてきた。

 虎太郎の家は、隠使いを世襲してきた家だった。元々北のほうから流れてきた家ということしかわかっていないが、はじめは暦を使って人の吉凶を占う陰陽師の類だったという。

 

 だが、父の代で世襲制は崩れる。父が養子だったためでもあるが、時代に合わなくなったという理由のほうが大きいだろう。国を焦土と化した大きな戦争を経て、一人一人の生き死にに費やされる時間が変わってしまったのだ。

 その隠使いが、山の奥深くに棲むという魔物と村人との橋渡し役だと言われるようになったのは、いつ頃からだろうか。


 村を流れる忍土川が広範囲に決壊し川の道筋を変えてしまった、虎太朗の曾祖父さんのそのまた曾祖父さんの頃だとも、明見山が崩れて村の半分が土砂の下敷きになったという、まだ、虎太朗の婆さんが生きていたときの頃だとも言われているが、確かなことはわからない。

 村に残る言い伝えには、濁流の流れを、山拐が変えて村人が助かったことがあるというし、山崩れで疲弊した村を覆う厚い雲を、山拐たちが息を吹きかけて流し、村に恵みの日が差したという。

 おそらく、過酷な天災に神を呪った村人が、山に棲む魔物である山拐にのぞみを託したのだろう。

 ただし、村が山拐に守られるためには、条件があった。村の子どもをさらうのである。


 さらわれた子どもは、山拐の新しい仲間として育てられると伝えられている。その子どもを、隠使いが選び出して、差し出すのだと信じられてきた。


 隠使いは、どうやって、子どもを選ぶのか。


 隠使いの家には、代々伝わってきたお面がある。お面といっても、普通想像するようなお面とは違う。白い麻の布を縫った袋に、目となる二つの穴が開けられているだけだ。口や鼻の部分に穴はない。

 この白い麻袋のお面は、毎年冬至の日に晒されて、真っ白にされる。目となる穴の部分は栗の実ほどの大きさの丸で、何度もほつれを繕われて糸が丸の周りを覆い、目は泣いているように見える。

 そのお面を見た子どもが、山拐にさらわれると、昔から言われてきた。昔の話だ。いまでは、隠じいがお面をかぶることなどないし、もう、家の中のどこにも、隠じいのお面など見つからないだろう。

 虎太朗が生まれたときから村のどの家にもテレビはあったし、村の子どもたちは、川で魚釣りをしたり、年寄りと連れ立って山菜採りに山へ入るより、家の中でゲーム機を相手にしている。もう、村の中に、お面をかぶった隠じいを見て、山拐にさらわれる恐怖に怯える子どもなどいない。

 

 そう思ったとき、虎太朗の瞼に、二年前の祭りの夜が蘇った。

 村の祭りは、村の里山である袈裟山の麓にある神社から始まる。賑やかな神輿や山車が、そこから出発するのだ。

 ゆっくりと村を一巡りして、祭りの行列は、村の中心にある空き地で終わり、そこで村中の人々が集まって料理や酒がふるまわれる。以前は、神社の境内へ戻って、そこで祭りの余韻を楽しんだというが、街灯も少ない村の夜のこと。安全を考えて、公民館の前の空き地が使われるようになった。山の麓の神社は、すぐ後ろに深い森が迫っているせいで、大人でも夜になると足元が危ない場所だからだ。

 なぜ、あの夜、自分一人で、神社の後ろへ行ったのか、虎太朗はよく思い出せない。母親から、おじいを探してこいと言われたからだったと思うが、なぜ、神社の裏の森の入口に、おじいがいると思ったのか。

 果たして、おじいはいた。

 

 いまでもあのときの光景を思い返すと、虎太朗は背筋に寒気を覚える。

 薄闇の森の中に、おじいはいた。だが、おじいはおじいであって、おじいではなかった。虎太朗が声をかけて振り向いたおじいは、白い隠使いの面をかぶっていたからだ。

 振り返った白い顔のおじいは、虎太朗よりも驚いていたと思う。うううと、呻きだしたからだ。

 そして、おじいは言った。

――お面を見たと、誰にも言うな。 

 隠使いの面を見たものは、山拐にさらわれる。

 その夜以来、自分は山拐にさらわれるのだろうかと、怯える日々が続いたが、おじいは慰めてくれた。

 

 黙っていろ。黙っていれば、山拐にも気づかれない。

 

 今、こうして元気に村で生きているのは、隠使いのお面を見たのを隠し通したからだと、虎太郎は思っている。きっと佑樹なら、


「おまえ、馬鹿じゃねえの? 山拐にさらわれる? 何時代だよ」

 そう言うだろうが、虎太郎は恐れている。

 母が淹れてくれたコーヒーを、虎太郎はテーブルの上に置いた。

「どうしたの、あんた、なんか変じゃない?」

「ううん、おじいの具合見てくるよ」

 虎太郎の家は古い農家で、斜面に建っているせいで、普通に言うところの、二階との間に中二階がある。おじいの寝ている部屋は、中二階の南の端にある。

 足音を忍ばせて襖を開けると、おじいは寝息を立てていた。


――隠使いの面を見たものは、山拐にさらわれる。


 それなら、なぜ、自分は村にいるのか。


 だが、虎太郎は、いまだおじいにその問いを口に出せないでいる。

 そっと襖を閉め、虎太郎は階下へ戻った。



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