第5話
四時になった。
真っ青だった夏の空に、雲が出はじめている。
重なった山の向こうに、明見山が見えた。
明見山は、この辺りでいちばん高い山だ。雲の切れ端が笠のように頂上にかかっていた。もうじきひと降り来るかもしれない。
下狩りの終わった斜面は、腕のいい床屋が鋏を入れたようにつるりとなった。その分、植えられた苗は大きく見える。まだ大人の腰ほどの高さしかないが、いつかこの空を覆う大木になるだろう。
「そろそろ終わりにすっかー!」
オヤジさんの声に、虎太郎は刈り機の歯の部分に覆いをかけた。わずかに右肩が痛む。同じ姿勢を続けたせいで、筋肉痛になったようだ。
いつもなら、秋生のふざけた声や、美月の高い笑い声が聞こえるのに、今日は仕事終わりとなっても誰もが口を開かなかった。今朝見つけたイノシシの骨が、みんなの心に引っ掛かっているのだろう。
林道にたどり着くと、オヤジさんがトラックの荷台へフォークリフトを運んでいる最中だった。その荷台へ、虎太郎たちもそれぞれの下刈り機を乗せた。トラックは二台で、もう一台のほうへ、刈った草と虎太郎たちゆこあみ組が乗る。佑樹、虎太郎、明夫、美月の頭文字を取って、四人はオヤジさんからそう呼ばれている。
「気をつけて帰れよ」
オヤジさんはトラックに乗り込むと、そう言ってエンジンをかけた。
オヤジさんには、イノシシの話はしてなかった。四人の暗黙の了解だ。そんな話をすれば、子どもっぽい事を言うじゃねえと一蹴されるに決まっている。
「寄り道すんじゃねえぞ」
「わかってますって。今日は僕が車を返します」
今日の運転は秋生の番だ。今日は全員直帰していいと言われているから、秋生はみんなをそれぞれの家へ送ってから、会社へトラックを返しに行く。
ブルルゥとくたびれたような音を立てて、オヤジさんの車が行ってしまうと、虎太郎はトラックの荷台に上がった。そのあとに、佑樹も上がってくる。暗黙の了解で、美月はいつも助手席だ。女の子だからという理由でもあるし、佑樹が決めたからでもある。
いつからだったか、佑樹が美月を好ましく思っていると、虎太郎は気づくようになった。プライドが高く、人に弱みを見せない佑樹だから、相談されたわけでもないが、虎太郎にはわかるのだ。
何かの拍子にふと美月を見つめる目つきや、何より、仕事中に、佑樹はまず美月の安全を確認する。美月には、絶対に危険な仕事はさせない。女の子だからと佑樹は言うが、この仕事には女も男もないと、美月は承知して就いているはずだ。それなのに、佑樹は身代わりを買って出る。カッコつけるなと思うときがあるほどだ。
そんなふうに思うのは、自分も美月を気にしているからだと、虎太郎は思う。
体を動かす仕事に就きたかったという美月は、小柄で華奢な体格をものともせず、力仕事を厭わず働く。森を相手にする仕事には、泣けてくるほど短調で、ときに馬鹿馬鹿しいような作業もある。そんなときも、美月は手を抜かない。反対に、極度の緊張を強いられ、一歩間違えば大怪我の危険がある場合も、淡々と作業をこなしていく。
特に外見が好みというわけでもないのに、そんな美月の仕事ぶりに共感を覚え、いつしか気になる存在になった。
次のクリスマスには、美月をデートに誘ってみようと虎太郎は思っている。洒落た場所は知らないから、レンタカーでも借りて、那智勝浦のほうへドライブでも行こうか。
そう思ったとき、ドスンと体が前のめりになって、虎太郎は草の入った袋に倒れ込んでしまった。
「なんだよ」
トラックが急ブレーキをかけたのだ。
「おい、どうした?」
叫ぶなり、佑樹がサッと体を起こし、荷台から降りてトラックの前へ走った。
運転席から秋生も降りてきた。
「突然、右手から白いものが飛び出してきたんだよ。それでびっくりして」
「キツネか?」
虎太郎も荷台から飛び降りた。
「あの大きさはキツネじゃないよ。これくらいあったんだ」
そう言って秋生は両手を広げてみせた。
まだ夕暮れには間があり、両側の林は薄暗いが、林道の見通しはいい。脇の林から何かが飛び出してきたとしても、認識できたはずだ。しかも、それほど大きな動物なら、尚更だろう。
「ずいぶん、大きいな」
佑樹が目を見開く。
「ねえ、轢いてないよね?」
半泣きになって助手席から美月が飛び降りてきて、前輪に顔を近づけた。秋生も近づいた。
「だいじょうぶだよ、絶対、俺、轢いてない」
タイヤには、なんの痕も付いていないようだった。急ブレーキを踏む前、スピードは出ていなかった。何か飛び出してきたのに気づき、ブレーキを踏んだとしても十分間に合ったのではないか。
そのとき、ガサゴソと左側の脇の林で物音がした。目をやると、何かが動いている。
「あれだよ、きっと。あいつが飛び出してきたんだ」
左側は雑木林だった。笹が激しく揺れ、その向こうのヤブツバキも葉を震わせている。
「なんだろう」
秋生が林に近づいた。
「まさか、クマじゃないよな?」
「近寄らないで。クマだったらどうするの」
美月が心配そうに言う。五月から十月頃まで、この辺りでは毎年数十件クマが目撃される。
「クマだとしたら、白っぽいというのはおかしくないか?」
佑樹の意見に、虎太郎も同意した。しかも、クマなら、目にも止まらぬ速さで車の前を通り過ぎたのは変だ。
「俺もクマじゃないと思う。一瞬だったけど、あれは絶対クマじゃない。な」
秋生が美月に同意を求めた。
「わかんない。見てなかったの、スマホでメールをチェックしてたら、急ブレーキでびっくりして」
「クマじゃないとすると、この辺りにいる大型動物は」
「イノシシか?」
佑樹の問いに、虎太郎は応えた。
「だけど、イノシシだとしても、白っぽいってのはおかしいよ」
秋生は瞬きを繰り返す。佑樹が秋生を振り返った。
「クマでもイノシシでもないのなら、じゃあ、なんなんだよ」
秋生がごくっと喉を鳴らした。
表情が硬い。
そして、虎太郎たち一人一人を順番に見る。
「こんなこと言っても、笑うなよ。俺、見たのは、人じゃないかと思う」
「人?」
秋生以外の叫び声が同時だった。
虎太郎は佑樹を見た。佑樹は美月を見る。美月は不安気な表情で、秋生を見た。
ふいに、あははと、佑樹が笑い声を立てた。
「なんだよ、佑樹」
「秋生なあ、人ってなんだよ。おまえ、頭、おかしくないか? なんでこんなところに人がいるんだよ」
「ほんとなんだ。人みたいだったんだ。白っぽい服、ていうか、灰色かもしれない。でも、髪が見えた気がするんだ。長いボサボサの髪が」
具体的な描写に、三人が言葉を失くした。秋生だって、今日初めて山に入ったわけじゃない。森の中で動物と人の区別はつくはずだ。
ふいに、笹が揺れる音がした。何かは、まだ、そこにいる。
「なあ、もしかして、あれは山拐(やまかい)なんじゃないか?」
秋生が、意を決したように言った。
「おまえ、だいじょうぶかよ」
佑樹が呆れた目を向けた。
「山拐とかいうこの辺りに棲む魔物の話は聞いたことがあるけどさ。それって、昔話の類でしょ」
「違うよ」
虎太朗は思わず口にしたが、それ以上は言い返せなかった。町育ちの佑樹たちと違い、虎太朗の体には、山に棲む魔物への畏怖が染み込んでいる。
「まさかな、まさかとは思うけどさ」
秋生が声を震わせる。
美月が秋生をさえぎった。
「車に戻りましょ。こんなところに立ってたら危険だわ」
「そうだな。日が暮れたら大変だ」
秋生はトラックの荷台に向かう。
「虎太郎、運転、代わってくれよな。俺、もう運転できないよ」
「ああ」
運転席のドアを開けて、虎太郎が乗り込もうとすると、ふいに佑樹が声を上げた。
「みんな、何、ビビってんだよ」
振り返ると、佑樹が不遜な表情で立っている。
「ビビってるわけじゃないよ。危険かもしれないから行こうって言ってるんだ」
何かと自分を優位に見せたがる佑樹だ。頭はいいが、こんなところが虎太郎には癪に障る。
「そうだよ。日が暮れたら、ただでさえ危ないのにさ」
秋生が加勢してくれた。こうしている間にも、両側の林は暗さを増している。あと三十分もすれば、森は表情を変える。
「ま、待てよ。俺がちょっと確かめてくる」
「やめとけよ」
叫んだが、佑樹は聞かない。
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