第4話
山に生きる者たち
強い日差しが、まっすぐ射るように照りつけてくる。
晴れた空に、連なる山の尾根。
近い山も遠い山も、日の光に熟れているようにたたずんでいる。
流れる雲が、山に影を落としていった。影は森の膨らみやへこみにそって形を変えながら、ゆっくりと左から右へと進んでいく。
土岐田虎太郎(ときた こたろう)は、ヘルメットを取り、タオルで首筋の汗を拭った。朝、洗い立てだったタオルは、まだ山に入って一時間ほどだというのに、ぐっしょりと汗で濡れている。
時刻は午前十時七分前。
虎太郎は今、神尾井村の北側、その奥深く入った山の斜面にいる。
足元の傾斜は約二十五度。
足裏で踏ん張っていないと、身体を後ろへ持って行かれそうになる。
春に植えた苗木を残し、まわりの雑草を刈っていく作業は、日陰のない場所での過酷な仕事だ。植えた苗木がしっかりと成長するよう、横一列に植えられた苗木を避けながら、ひたすら山の斜面を水平方向に進む。
雑草を刈る下狩り機は軽いが、苗木を傷付けないよう注意しながら進むのは、結構骨が折れる。まして、斜面だ。スパイクを付けた足袋の足裏で、ぐっと地面を踏みしめていなければならない。
ジーンジーンと、仲間の下狩り機の音が、静かな山に響いている。
今日は、四人だ。
佑樹に秋生、そして紅一点の美月。
三年前から山に入ったいわば同期生が、オヤジさんの指示にしたがって、刈り場所を受け持っている。
オヤジさんというのは、現場監督の三島さんの呼び名だ。歳は六十代半ば。この道四十年のベテランで、木を知り尽くしていると言っていい。大木を切り倒すときの手際の良さは、丸橋林業で右に出る者はいない。
「おい、落ちるそ」
虎太郎の上にいる佑樹が声を張り上げた。見上げると、枝に葉を茂らせた小ぶりな木が転がってくるところだった。おのれ生えした雑木の若木だ。
うまく若木を避けた虎太郎に、「チェッ!」と、佑樹の叫びが聞こえた。まさか本気ではないだろうが、佑樹はときどき、こんないたずらを仕掛けてくる。山での作業は、些細な不注意でも命取りになると、オヤジさんにきつく言われているのに、佑樹はお構いなしだ。
多分、虫が好かないんだろうな。
ふたたび下刈り機のスイッチを入れてから、虎太郎は思った。はじめが肝心だと思う。そのはじめの、三年半前、丸橋林業の歓迎会の席で会ったときから、二人はウマが合わなかった。同期だったが、年の違いもあったかもしれない。高校を卒業してすぐに丸橋林業に就職した虎太郎と違い、佑樹は大学を出てから入ってきている。入社 当時、虎太郎は十八歳、佑樹は二十二歳だった。
もちろん、それだけの理由じゃないだろう。美月は同い年だが、秋生は二つ上だ。それでも気が合う。
きっと、町からやって来た佑樹と、この山に子どもの頃から親しんできた虎太郎とでは、感覚が違ったのだろう。歓迎会の席で、佑樹が山の仕事について語った言葉に、それは季節が違っているとか、こんな機械もあるとか口を出したのが、佑樹のプライドを傷つけてしまったのかもしれない。
たしかに虎太郎は、同期の四人の中で、一人だけ地元の出身だったから、山に関する知識は頭ひとつ抜きん出ていた。だからといって、それを誇示しようと思ってはいないし、仲間の無知を馬鹿にするつもりもない。だが、知っていることは、口にしようと思っている。なぜなら、山の仕事は、町での営業職や販売職とは違って、危険を伴う。間違った知識で仕事をすれば、命取りになるのだ。
高校を卒業して、山の仕事に就くと決めたとき、村の営林組合に勤める父は反対したし、母もいい顔をしなかった。両親は、兄の栄太郎のように、町へ出て、普通の仕事に就いて欲しかったのだ。危険で、薄給で、将来性に不安がある仕事よりも、普通の仕事に就いて欲しい。それが、両親の希望だった。
家族の中で、一人、虎太郎の進路を喜んでくれたのは、祖父の正熊だった。九十二になる今でも山仕事を続ける正熊は、これでうちの山が守られると、大層喜んでくれた。
虎太郎が山の仕事を選んだのは、この祖父の影響が大きい。虎太郎は幼いときから、山が遊び場だった。そんな虎太郎に、祖父は山の知識を授けてくれた。恐ろしい山、厳しい山。だが、美しく、大きな山。真の山の男だと自負している祖父は、山の素晴らしさを虎太郎に教えてくれた。
「おい、端まで行ったら、休憩するぞ」
オヤジさんの声に、みんなが返事をした。
「もう、喉がカラッ、カラ」
上から二列目の足場にいる美月が声を上げた。
「死ぬで~」
やけくそみたいに言うのは、秋生だ。
虎太郎が下刈り機のスイッチを切ると、待っていたように、佑樹も電気を落とした。いつものことだ。佑樹は決して、虎太郎より先に作業をやめない。
意地っ張りめ。
山のもんには負けたくない。その思いを、この三年間佑樹からひしひしと感じてきた。
林道へ向けて斜面を下りはじめた虎太郎は、途中で佑樹を仰ぎ見た。佑樹は斜面に棒立ちのまま、地面を見つめている。
「おい、どうしたんだよー」
佑樹が虎太郎を見下ろした。逆光のために表情ははっきりしないが、何か様子が変だ。
踵を返して、虎太郎はふたたび斜面を登った。ウマが合わない相手だが、山では私情は禁物だと日頃から自分を戒めている。
刈り取られた草を踏みしめて、佑樹が立つ真下へ来た。
「どうしたんだよ」
そう言いながら、佑樹を見上げる。そして、虎太郎も呆然と立ち尽くした。
穴が開いていた。横幅は約一メートル。縦は三十センチほど。深さは五十センチはあるだろう。きれいな楕円だ。明らかに、人工的に掘られた穴。スコップの跡は見当たらないが、動物が均一な線を描けるはずはない。
「またかよ」
虎太郎の呟きに、佑樹が頷く。
穴の底に、白いモノが見えた。明らかに骨だ。大きさからして、イノシシだろう。長さは二十センチほど。弓なりに緩いカーブを描き、片方の先端は細くなっている。
しゃがみこんで、虎太郎は穴に顔を近づけた。
よく見ると、骨には歯型がついていた。五センチはあると思われる大きな歯型だ。近隣の山に、これほどの歯型を持つ大型動物はいない。
「ふざけやがって」
下刈りで出た草を、佑樹は蹴り上げる。
「明らかなのは、誰かが俺たちに嫌がらせをしているってことだ」
「まさか」
佑樹の怒りを静めようと、虎太郎はあえて冗談ぽく返した。だが、佑樹の推測はあながち間違っていないと思う。
奇妙なイノシシの骨を見つけたのは、今日で三度目なのだ。
はじめは、二日前だった。下刈りの作業のために、山へ入る前に行う器具の点検をしていると、会社の作業場の裏山から人の声がした。おーい、おーいと、助けを求めているような声で、不審を覚えた三人が行ってみると、幹が大きく二股に分かれたトチの木の枝に、まるでドリルで穴をあけたかのように丸い穴が開けられ、その穴に骨が打ち付けられていた。
二度目は、昨日、作業の休憩中に見つけた。重機を置いておく小屋の向こうは、崖になっている。崖は岩のゴツゴツした突起の重なりを繰り返しながら、谷に伸びている。その途中に、人の手では決して届かない位置に、骨が刺さっていたのだった。
「三度続いて、ただのイタズラとは思えない」
「でも、なんで俺たちに?」
そのとき、下から美月と秋生が駆け上がってきた。穴に気づいて、キヤッと叫ぶ。
ウッと秋生も唸る。
「ふざけた真似しやがって!」
骨を拾い上げようとした秋生の腕を、虎太郎は掴んだ。
「やめろ! 触るんじゃない!」
「そうよ。気味が悪いじゃない。もし、祟られたら」
美月の一言で、四人は目が覚めたように顔を見合わせた。
「――祟られるって、まさか、おまえら、本気で信じてんじゃないだろうな。これは、誰かのタチの悪いイタズラなんだぞ。多分、町の製材屋に雇われた誰かが、俺たちの仕事を妬んで」
佑樹が言うのはもっともだが。
「そうだとしたら」
秋生が声を上げた。
「こんなきれいな楕円の穴。どうやって掘ったんだよ。しかも斜面だぜ。こんな奥山に、わざわざイタズラをするために誰かがやって来たっていうのか? それに、昨日見つけた二股に分かれたトチの木に打ち付けられていた骨はどうなんだよ。あの木は日挟みの木と言って、昔から傷つけていけないとされてきた木だ。そんな木に、村の者は絶対に悪さをしない。俺らと同じ仕事をしている者も同様だ。それに変だと思わないか?」
秋生は怯えた目で、足元の骨を見た。
「――この骨の歯型。こんな歯型を、誰が付けられるっていうんだ?」
「ねえ、あたし、山で仕事をしていると、ときどき感じるの」
美月が噛み締めるように言って、秋生の顔を見た。
「なんていうか、森のずっと奥から、あたしたちに注がれる視線っていうか……」
「俺もだよ」
虎太郎も返した。
ふいに、辺りがしんと静まったように思えた。ここは、広大に広がる森のほんの一角でしかない。その向こうは枝打ちの作業を待つ立派な檜が、暗い森を形成している。
秋生が額の汗を拭いながら、虎太郎を見た。
「いつもおんなじ場所なんだよ。ウルシ谷のところ。なんか人が削ったように見える大きな一枚岩がある場所で」
「知ってる。林道から見えるよね」
美月が声を上げた。
「あそこを通るとき、俺はいつも誰かが岩の影でこっちを見ている気がするんだ。気のせいだと思うし、あの岩が見える林道を通るときは、無理にでも目を逸らすんだけど、なぜか、いつも見ちゃう」
「なんか、いたのか?」
秋生が訊いた。
虎太郎はぶるぶるっと首を振った。
「いるわけないよ。何も見てない。でも、わかるんだ。あれは絶対思い過ごしじゃない」
「もしかすると」
秋生が足元の穴に転がった骨を見すえる。
「何かよくないことの前触れなんじゃ」
「そうかもしれない。だって、三度もこんなこと」
美月も秋生に倣って、足元の骨を見る。
「いい加減にしてくれよ」
三人ははっと顔を佑樹に向けた。
佑樹は傍らの下狩り機を持ち上げてみせた。
「俺たちはこういう機械を使って山の仕事をしているんだ。そんな得体の知れないものを怖がる時代に生きてるわけじゃない」
「でも」
美月が言い淀む。
虎太郎は言わずにはいられなかった。
「山には人間を超えた力があるんだ」
「おいおい、本気で言ってるのか」
佑樹は嗤ったが、虎太郎は本気だ。
佑樹は知らないのだ。そう虎太郎は思う。
物心ついたときから、山で暮らしてきた虎太郎にはわかる。山には不思議な力が存在するのだ。うまく説明できないが、自分は肌で感じてきた。
だから、いつも畏怖を感じている。いい加減な気持ちで山に接してはいけないと思う。
「ここらの山はな、虎太郎」
佑樹はぐるりと周りを見渡した。
「戦後、国の方針で檜が植林された森なんだ。人の手で作り直された森ってことだよ。そんな森に、得体の知らないモノが棲んでるはずがないじゃないか」
神尾井の村をか囲む山について、虎太郎だって知らないわけじゃない。だが、山は自分たちが思っている以上に、大きくて、森は深いのだ。把握できていると思った大間違いだ。
下からオヤジさんの呼ぶ声がし、四人はいっせいに林道のほうへ顔を向けた。
おい、どうしたと、オヤジさんが叫んでいる。
「今、行きますよ」
と、佑樹が叫び、それから、虎太郎に顔を向けた。
「村の連中は怖がるかもしれないけどな。俺は騙されないよ」
大きく足を広げて穴をまたぎ、佑樹は斜面を下り始めた。美月と秋生も従う。
頭上を飛ぶ鳥の影が、一瞬穴を横切った。
下狩り機を持ち上げて、虎太郎も斜面を下り始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます