第3話
小菱田から最初の電話をもらって、三週間後、健介は紀伊半島を南へ進む車の中にいた。
バスは三重県の津市を過ぎ、尾鷲市へ向かっている。
小さく伸びをしてから、健介は腕時計で時刻を確かめた。午前三時十分過ぎ。横浜で夜行バスに乗り込んだのは昨夜の十一時だったから、もう四時間が経ったことになる。
肌寒さを感じて、膝の上に置いたジージャンを肩にかけた。冷房の効いた車内は快適だが、真夏とはいえ明け方は冷えすぎるようだ。
隣の乗客に気遣いながら、窓のカーテンをわずかに開けてみた。まだ、外は暗い。ときおり、道路の照明灯のオレンジ色の光が過ぎ去っていくだけだ。
尾鷲市への到着時刻は六時二十分の予定だ。あと三時間ほどの道のりとなる。
義父の風弓総一朗が入院している病院は、尾鷲駅から数分のところだという。
「あんたには、もっと長くいてもらいたかったんだけどね」
辞めたいと伝えたとき、運送会社の柴田さんはそう言って惜しんでくれた。フォークリフトの運転という、単純な仕事ではあったが、仕事内容にも人間関係にも文句はなかった。
「申し訳ありません」
と頭を下げたとき、ほんとうにこれでいいのかと、一抹の不安はあった。それでも、決心が変わらなかったのは、自分しかいないと、そう思ったからだ。
猪鹿毛を探すのは自分しかいない。母親の羽矢子が死んでしまった今、猪鹿毛を真剣に見つけようとするのは自分だけなんじゃないか。
その決心を更に強固にしたのは、ふたたび小菱田からかかってきた電話で、総一朗が怪我をしたと知らされたからだった。
自宅に戻っていた総一朗は、妻、栄子が止めるのも聞かず、山の見回りに出かけ、大腿骨を折る大怪我を負った。高齢者にとっては、致命的な怪我だ。それは身体的な意味でもあるが、精神的な打撃のほうが大きい。
老人介護施設から病院へ移った総一朗は、一気に惚けが進んだ。それまではしっかりしていた時間間隔も曖昧になり、妄想といえる呟きを発するようになった。
小菱田からの二度目の電話は、総一朗の様態の変化を告げた。
「そう遠くないうちに、爺さんが完全におかしくなると、婆さんが言うんですわ。その前に、一度総一朗さんを訊ねて安心しさせて欲しい。もう一度、西尾さんに電話をかけてくれと頼まれましてな」
そして小菱田は、
「だけども、西尾さんには無理なことやと、私らもわかっとりますし、婆さんもそれは承知しとるんですが。まあ、あんまり婆さんが気の毒で、一応もう一度ご連絡してみようと思いまして」
と、続けた。
小菱田の言う意味が、健介にはよくわかった。完全におかしくなるという意味には、惚けが進むというだけではなく、身体的な理由が大きいのだろう。この先、長くはないだろうと、小菱田は言っているのだ。
それでも、仕事の休みを調節するのは難しく、健介はすぐに行動を起こすつもりはなかった。
だが、小菱田が言った次の言葉で、健介の気持ちは神尾井村へ飛んでしまった。
「総一朗さんの話を聞いとると、ほんまやないかと思えてきますわ」
「ほんまとは」
「猪鹿毛が生きとるって、きかんのですわ」
猪鹿毛が生きている?
その一言が、健介の心に刺さった。
もし、それが、老人の妄想でなかったら。
その後、小菱田とどんな会話を続けたのか、健介は思い出せない。喉の渇きにも似た、自分でも抑えようのない気持ちに駆られて、いてもたってもいられなくなった。
たくさんの人に迷惑をかけるのは承知だった。それでも、契約社員という身分だから、動きやすかったのは否めない。神尾井村で、仕事がすぐに見つかったのも、健介の気持ちを押してくれた。
見つかった仕事は、檜の木の伐採作業だ。フォークリフトの免許を持っていたのが、役に立った。
今日、健介は、総一朗の入院する病院へ行き、翌日には伐採業者の事務所へ行くつもりだ。
四十九歳にして新しい仕事に不安はあるが、期待のほうが大きい。
前方に見えてきた山並みを、健介は見つめ続けた。
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