第2話

 四キロを走った時点で、健介の息は上がりかけていた。

 

 健介は自宅からいつものコースを走っている。

 だらしないもんだと思った。トレーニングを続けていた頃は、五キロを普通に走って、そのあとにダッシュでふたたび五キロの距離を走った。それが、今ではどうだ。心臓はバクバクしているし、脚の付け根は悲鳴を上げている


 なぜだろう。

 

 走りながら、健介は思った。

 なぜ、自分は、羽矢子や奏人との生活を捨ててしまったのか。

 羽矢子が逝って以来、羽矢子の病室で奏人と再会して以来、気が付くと考えている。

 理由はいくつもあった。だが、今になってみると、理由のどれを取っても、羽矢子と奏人を捨てるほどの理由だったとは思えない。

 羽矢子と知り合ったのは、二十五年前、プロテストに合格したばかりの二十四歳のときだった。二年間の練習生生活を経て、ようやく合格したプロテストだった。

 所属していたのは、川崎にある金城光原ジム。それまで所属していた、江東区の本居ジムから移籍したばかりだった。

 

 健介が、有名なジムでもない金城光原ジムに移ったのは、本居ジムのトレーナーだった横田さんに誘われたからだ。横田さんは、母親の元から女といっしょにいなくなってしまった父親の友人で、やんちゃなだけの高校生だった健介に、何かと目をかけてくれていた。健介がボクシングに目覚めたのは、この横田さんのおかげだ。横田さんが金城光原へ移るとき、健介に迷いはなかった。

 フェザー級の栄作。当時、ジムで健介はそんなニックネームで呼ばれていた。その頃テレビで流行っていたドラマの主演俳優に顔が似ているのが理由らしかったが、健介自身、そう呼ばれるのが嫌でならなかった。甘い顔立ちは、ボクシングにおいて、かなり不利だ。わざと突っ張って、人前で笑わないよう心掛けていたものだ。

 だが、そんな外見だったからこそ、女にはモテた。ジムのオーナーに飲み屋に連れて行かれても、店の女の子たちは健介に夢中になった。プロテストに合格してから試合に出るたび、健介目当ての女の子たちがいつも観客席を賑わしていた。

 プロになれば、観客を呼ぶのも仕事のうちだ。普通、知名度の低い選手は、割り当てられた試合のチケットをさばくのに苦労するが、健介はその苦労を味わった覚えがない。

 

 おまえは恵まれている。

 

 横田さんに言われるたび、苦々しい思いがした。いつか、自分の技で観客を呼んでみせると、健介はひそかに闘志を燃やしていた。

 若かったあの頃。寄ってくる女たちに気持ちが惹かれなかったといえば、嘘になる。だが、女にだらしない夫に苦労した母親を見てきた健介は、自分で納得のいく試合ができるまで、決まった女を作るつもりはなかった。

 それが、羽矢子によって変わった。

 トレーナーの横田さんが、都内のジムから川崎へ移ったのは、奥さんの実家が川崎にあったからだった。奥さんの家は、国道十六号沿いで焼肉屋を営んでおり、横田さんが本居ジムの会長との衝突が表面化した頃、奥さんの親父さんが亡くなった。

 ボクシング・ジムのトレーナーの仕事は、大きなジムでない限り、副業を持たないと生活は苦しい。それは選手も同様だが、横田さんはこれを機に、川崎へ移り、奥さんの実家の焼肉店を継ぐことになった。

 その焼肉屋の店員として、新たに横田さんが雇ったのが、当時看護学校へ通っていた羽矢子だった。

 田舎の暮らしが嫌で、遠い親戚を頼って川崎の看護学校に通っていた羽矢子は、素朴な明るさのある、素直な女だった。化粧気もなく、流行りの服も着ていなかったが、店でくるくると働く姿には、どことなく惹きつけられた。

 

 後で考えてみれば、いろいろ理由をつけてみても、結局は、羽矢子は自分の母親に似ていたんだと健介は思う。持ち前の明るさで、面倒なことは全部引き受けてしまう健気さが、苦労して自分を育ててくれた母親に似ていたのだと思う。

 

 プロになって二年目に、健介は羽矢子のアパートで暮らすようになり、三年目には、正式に結婚した。まだ賃貸だったが、新居も構え、新しい生活をスタートさせた。

 プロ三年目で結婚することに、まわりから反対がなかったわけじゃない。横田さんも、まだ早いと難色を示した。横田さんは、健介のことだけでなく、羽矢子の状況も考えていたようだ。羽矢子が看護の資格を取ってからでも遅くはないだろうと、そう言っていたのを憶えている。

 だが、若い健介には、まわりの忠告など耳に入らなかった。羽矢子も同様だったと思う。健介は上り調子が続くと信じていたし、羽矢子は昼間、学校へ通い、夜は焼肉店で働きながら、資格取得を目指していた。


 きっと人生には、本人にもどうしようもない運の波があるのだと、思う。

 結婚してはじめの二、三年は調子がよかった。年に五回は試合をこなし、見込みがあると、ジムの会長からも期待を寄せられていた。

 ところが、四年目に入った頃から、負けが続いた。しかも、KO負けだ。KO負けをすれば、次の試合まで九十日の間を開けなければならない。その間に、足首を痛めた。今にして思うと、ツキという名の天使が、自分に見切りをつけて、どこかへ飛んでいってしまったのだと思う。

 変わらなかったのは、羽矢子だけだった。ヤケになって、減量に失敗しても、勝っていたときと同じように、励ましてくれた。

 やるせなさに当たり散らして、羽矢子の体には、生傷が絶えなかった。最低だ。本気で殴ったわけじゃないが、ボクサーであるのに妻に手を上げるなんて、許される行為じゃない。

 それでも、羽矢子は耐えてくれた。そんな折、羽矢子は身ごもり、奏人を産んだ。

正直なところ、心底喜べたとはいえない。赤子を抱えた妻のことよりも、自分は、次の試合のことで頭がいっぱいだった。

 なぜ、すぐに、羽矢子は逃げなかったか。

 羽矢子は信じてくれていたのだと思う。

 今ならそれがわかる。

 羽矢子に寄せられた信頼こそが、何よりも大切にすべきものだったのに。トレーナーたちが寄せてくれた期待でもなく、試合相手から恐れられた闘争心でもなく、羽矢子の真心こそ、最も大切だったのに。

 だが、あの頃の自分は、大事なものは、大切に握り締めていないと、するりと、手の中からこぼれ落ちてしまうと気付かなかった。

 

 置き手紙を残して、羽矢子が奏人とともに姿を消したとき、いいようのない不安と焦りに襲われた。それなのに、意地を張って、探しに行こうとはしなかった。

 離婚届が届いたのは、一人になって半年後。羽矢子の署名がなされた離婚届には、羽矢子の生まれ故郷である、三重の神尾井村の住所が書かれてあった。

 あのとき、署名をせず、離婚届を握り締めて、神尾井村へ羽矢子を追いかけていたら、運命は変わったのかもしれない。でも、自分はそうしなかった。ヤケになり、どうにでもしろと高をくくっていた。

 多分、あの頃は、まだ、やり直せると思っていたのだろう。羽矢子とだけでなく、ボクシングも、そして人生も。

 若かったと思う。いや、あれは若さなんかじゃない。

 馬鹿だったのだ。どうしようもない、馬鹿野郎――。

 

 首筋にかけたタオルで額の汗を拭ってから、健介は道路のガードレールに腰掛けた。一人アパートにいるのが辛くて、こうして走り出したものの、爽快感とは無縁だった。溢れてくる後悔や懺悔の気持ちは、いくら体を痛めつけてもなくならない。

 奏人の光る目が蘇った。

 憎んで欲しいと、思う。憎まれても、自分は、奏人の心に刻まれたいと思っている。

 

 あんたは、まったく変わってないね。

 

 きっと、奏人ならそう言うだろう。

 そう、自分は変わっていない。家族を捨てたときから、一段だって成長していないんだろう。エゴの塊の、最低の父親。

 そして、健介は、もう一人の息子を思った。

 自分と血を分けた息子が、もう一人いる。その事実は、胸の奥に、あたたかな火を灯す。


 会いたい、会ってみたい。

 

 猪鹿毛という名だという。奏人より七歳下だという。ということは、十五歳か。どんな青年、いや、少年なのだろう。羽矢子に似たのか、それとも自分に似ているのか。

 まだ見ぬ息子の風貌は、どうしても奏人と重なってしまう。性格も風貌も、健介には似ていない奏人。猪鹿毛も自分には似ていないのだろうか。

 

 公園が見えてきた。道路を渡って敷地内へ入る。

 ベンチがあった。そのベンチに、倒れこむように座る。あらかじめ決めていたランニング・コースの半分もいかない距離だというのに、もう、この体たらく。

情けなかった。体の衰えだけじゃない。自分という存在が、つくづく情けない。

 ジッパー付きのランニング・パンツのポケットで、スマホが震えた。

 即座にジッパーを外し、ポケットをまさぐる。普段なら、着信を受けても、急ぐことはまずない。こんなに急ぐのは、奏人からの連絡を待っているからだ。

ずっと不通だった息子だ。もし、もう一度連絡をくれるのなら、受け取りたい。どんなことがあっても。


「もしもし」

 息が上がっていたが、できるだけ明るい声を出した。連絡を待っていたと気づいて欲しい。

 だが、電話の向こうから響いてきた声に、聞き覚えはなかった。



「西尾健介さんの電話で間違いないですか」

 しわがれた声だ。初老の男と思える。関西なまりのアクセント。知らない声だっ

た。

「そうですが」

「私は小菱田(こひしだ)といいまして、神尾井村の世話役をやっとるもんです。この電話番号は、西尾さんのお勤め先から聞いたわけでして」

 神尾井村とは、羽矢子の実家がある村だ。

「お電話しましたんは、風弓総一朗さんのことで」

 風弓総一朗とは、羽矢子の父の名だ。

「西尾さんは、総一朗さんのとこの羽矢子さんの、ご主人ちゅうことでええですかね」

「いえ、羽矢子とは離婚していますから」

「あ、ああ、それはわかっとります。この度は羽矢子さんが……」

 神尾井を出ていた羽矢子だったが、おそらく村にある先祖代々の墓に埋葬されたのだろう。小さな村のことだ。都会から骨となって帰ってきた者の埋葬は、村中の知るところとなったに違いない。

 それにしても、なぜ、神尾井村の世話役の男が、自分のところに電話をかけてきたのか、見当がつかなかった。


「総一朗さんが、今現在、町の老人施設におるのはご存知ですかね」

「いえ、知りません」

 知るはずはなかった。羽矢子と別れてから、羽矢子の実家の人々とも、一切連絡を取り合っていない。

 総一朗の風貌も、もうおぼろげにしか思い出せなかった。おそらく八十を越しているはずだ。老人施設にいても不思議ではない年齢だろう。

「身体はお元気なんですが、頭のほうがちょっとでしてな」

「認知症ですか」

 話の行き先が見えないまま、健介は答える。

「そうひどいわけでもないんですが。まだら惚け言うんか、理解ができるときとできんときがあって」

 ゆったりした話し方だった。まるで、村の空気そのもののような。健介は想像してみる。深い山の中にひっそりと存在する村。

「まだ婆さんのほうは元気なもんですから、月に一度は自宅に帰るのを許されとるらしいんですが、そのとき、大変なことがありまして」

「大変なこと?」

「そうです。婆さんや村のもんでは手に負えん話で。それで、婆さんから、あんたさんに連絡して欲しいと頼まれまして」

「何があったんですか」

「総一朗さんが自宅に戻った夜、尋常じゃない騒ぎ方をしましてな。婆さんが問いただすと、孫が戻って来たと言ったようでして」

「孫?」

「そうです。猪鹿毛が戻ってきたと、騒ぎ出したらしゅうて」

 ぐっと喉を締めつけられた気がした。心臓の鼓動が早まる。


「猪鹿毛は家を出て行ったままだと聞いてますが」

「そうです。あの子が十三のときにいなくなったきり」

 それなら、総一朗が騒ぎ立ててもおかしくはない。奏人の話では、祖父は娘の産んだ二人目の男の子に、自ら猪鹿毛と、家に伝わる名前をつけた。二人目の男子に、総一朗が期待を寄せていたのがわかる。その孫が帰ってきたのなら、総一朗の喜びは想像するに余りある。

 だが、電話の向こうの声は、沈んでいた。

「猪鹿毛が戻ってきたなどと、そんなことは有り得んのですよ」

「有り得ないといっても」

 声が上ずる。胸に湧き上がってきた喜びを、健介は抑えられなかった。もしかすると、二人目の息子に会えるかもしれない。

「総一朗さんが自宅に戻ったある晩の話やそうです。総一朗さんが母屋の寝室で寝とると、ふいに部屋の中に猪鹿毛がおったらしいですわ」

「それじゃあ、ほんとに」

「有り得ません」

 電話の声は、きっぱりと否定する。

「総一朗さんが夢でも見たんでしょう。猪鹿毛は家出したんと違うんです。猪鹿毛は」

 そして、電話の向こうのしわがれた声は、言いにくそうに続けた。

「村のもんは、昔で言うところの神隠しに遭ったんやと思うとります。猪鹿毛はおとなしい性格ではあったが、いい少年でしてな。母親の羽矢子さんと、祖父母にあたる爺さん婆さんとも仲よう暮らしとりました。家出する理由はなかったんです」

 といっても、思春期の少年だ。何か思うところがあって家出をしたとしても不思議じゃない。


「普通、いくら少年でも、家出をするのなら、自分の荷物を多少なりとも持って行くはずです。それなのに、猪鹿毛は家から何も持ち出しとりませんでした」

「猪鹿毛がいなくなった時期というのは」

「忘れもしませんが、秋たけなわの頃でしてな。山の漆の木が赤くきれいに染まっておったのを覚えとります。山は季節がひとつ早く来ます。里では汗ばむ日も、山でひんやりして上着なしではおれません。そんな時期に、少年が家から何も持ち出さずに出ていったと考えられるでしょうか。猪鹿毛の家からは、シャツ一枚、缶詰一つなくなっておらんかったです。もちろん、金もです。十三の子が家出をするとして、金を持たずに出ていくでしょうか」

 ふうと一息ため息をついて、小菱田は続けた。


「猪鹿毛がいなくなった当時、警察は大がかりな山狩りをしました。村から外へは、山に入らねば出られませんからな。でも、見つからず。誘拐されたんやないかとも考えられました。じゃが、こう言っちゃ失礼だが、風弓さん夫婦は、決して裕福な暮らしじゃない。そんな家の孫を誰が誘拐するでしょう。もちろん、不審な電話もありませんでしたし、他所者の車を見たという話もありませんでした」

「それじゃあ、猪鹿毛はどうしたと」

「何もわかりません。おそらく、どこかの沢に落ちて……」

「死んでいるはずだというんですか」

「猪鹿毛の持ち物が、一つだけ山で見つかっとるんです。家の鍵です。見つけたんは、山の木を伐採しておった業者の者ですが、伐った木の枝に、鍵が引っかかっておったようで。猪鹿毛がいなくなって、一年後のことです。鍵にはキーホルダーが付いとりましてな。風弓猪鹿毛と名前がありました」

「でも」

 健介は信じたくない。

「総一朗さんが、猪鹿毛が来たと言っているわけでしょう? それならほんとに」

「婆さんは見とらんのです。総一朗さんの惚けは、日々進んでおりますから、おそらく夢でも見たのでしょう」

 それが論理的な結論なのだろう。だが――。

「老人が夢を見たんなら、それはそれで仕方ないと、婆さんも思っとったんです。だけども、総一朗さんが、見舞いに行くたび、猪鹿毛を父親に会わせてやれと騒いどりまして」

「それで、私のところに電話を」

「そうです。婆さんに頼まれまして」

 そして小菱田老人は、しわぶきを一つしてから、続けた。


「どうでしょう。一度、神尾井に来てもらえませんやろか。羽矢子さんのお墓参りを兼ねて、総一朗さんに会ってやってもらえませんか。婆さんが言いよるんです。爺さんは、一回あんたに会って、あんたに孫を託したら気が済むだろうと」


 孫を託す。


 その言葉に、健介は胸の締め付けられる思いがした。羽矢子を永遠に失い、奏人の拒絶を受けた。だが、まだ、自分を頼る者がいる。たとえ、それが、老人の妄想の産物だとしてもだ。

 猪鹿毛は死んでいるのだろう。山をよく知る者たちが、断言しているのだ。それは、悲しい事実だが、受け止めなくてならない。

「わかりました」

 健介はきっぱりと答えた。

 神尾井村へ行って、羽矢子の墓に参りたい。

 総一朗を見舞う口実で、羽矢子の墓に手を合わせられる。

 奏人とともに行けたら。

 だが、それは夢だ。健介は自分に言い聞かせた。

 奏人は息子を捨てた父親を許していない。

 これからもずっと、許さないだろう。



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