山拐(やまかい)

popurinn

第1話


 海風が吹き寄せる埠頭に、一台のフォークリフトが動き回っている。

 コンテナの山からトラックへ、蟻のように何度も、フォークリフトは行き帰りを繰り返す。

 頭上をカモメが飛ぶ。紅く染まりかけた空には掃いたような薄雲が伸び、みなとみらいにある遊園地から楽しげな歓声が流れてくる。


 額の汗をぬぐい、西尾健介はフォークリフトを旋回させて、トラックに向き直った。

 コンテナ専用のトラックの荷台に、残る荷物はあと一つ。最後の一つをフォークの部分に載せる。

 ピーピーとバックブザーを鳴らしながら、後ろへ行きかけたとき、並べられたコンテナの山の向こうから、人が駆けてくるのが見えた。柴田さんだ。普段、倉庫の事務所にいる彼が、作業場である埠頭にやってくることはまずない。

 

 思わずエンジンを止め、健介は夕日の照り返しが眩しい地面をやって来る、小太りの男の姿を見つめた。


「西尾さん、電話だよぉ」

 手を振りながら走り寄る柴田さんの腕の先には、事務所の電話の子機が握られている。

 柴田さんは、息を切らしながら、健介の乗るフォークリフトの横へ来た。

「あんたに電話だ。ゆみさんって人から」

「風弓?」

「ああ。息子さんだって言ったけど。あんたの携帯番号を知らないからってね。それで事務所に電話してきたんだって」

「すみません」

 健介は頭を下げてから、電話を受け取った。受話器に耳を当てるのを、瞬間躊躇する。その様子を、柴田さんが訝しげに見ている。 

 ふたたび頭を少し下げて、健介は座席に座ったまま体の向きを変えた。離婚後、十数年会っていない息子との会話を聞かれたくなかった。風弓は妻の旧姓だ。


「お父さん?」

 かすれた声がした。記憶の底にある声とは、まったく別人の声だ。

「――奏人かなとか?」

「覚えてたんだね、僕の名前」

 忘れるわけがない。心の中ではそう叫んでいたが、言葉にはならなかった。

 奏人と最後に会ったのは、奏人が七歳のとき。十五年前のことだ。幼児の奏人は鈴が転がるような声をしていた。


「お母さんが、危ないんだ」

「え?」

 妻の、妻だった羽矢子(はやこ)とも、奏人と同じ年数だけ会っていない。

「危篤状態なんだ。それで、お母さんの望みで、あんたに電話したんだけど」

「危篤――」

「会う気があるんなら」

 そう言ってから、奏人は少し咳き込んだ。あんまりいい咳の仕方ではなかった。


「会う気があるんなら、病院を教えるけど」

「羽矢子が会いたいと、この俺に会いたいと言ってるのか?」

 そうだよと、投げやりな返事が返ってきた。

「横浜市立市民病院」

 病院の場所は、すぐに思い浮かべることができた。ここと同じ横浜市。そう遠くはない。

「癌だから」

 付け足したように言って、電話が切れた。


「おい、奏人!」

 切れた電話に叫ぶと、ふたたび風に乗って歓声が聞こえてきた。

 いや、空耳だったのかもしれない。受話器を耳から外すと、妙に辺りは静かだった。

「緊急かね?」

 柴田さんが、心配そうな顔でこちらを見上げている。

 はいと、頷いて、健介は電話を渡した。

                                 

                  

               息子



 無機質で白っぽい廊下は、どこまでも続いているように思えた。受付で聞いた病室は、エレベーターで四階へ上がり、いくつもの廊下を進まなければならなかった。

 途中、タクシーに止まってもらい、寄った花屋で買った花が、きつい匂いを発している。


 羽矢子はユリの花が好きだった。付き合うようになった頃、花を買ってとせがまれたことがあった。そのとき、羽矢子が選んだのがこの花だった。数少ない、羽矢子との甘い思い出だ。

 羽矢子の病室は、一人部屋だった。ドアの横に貼られたプレートの名前を読む。風弓羽矢子。旧姓のままだ。

 別れてから、羽矢子がどんな暮らしをしていたのか、健介は知らない。再婚をしたのか、そしてまた旧姓に戻ったのか。それともずっと一人だったのか。

 足がすくんだ。息子からの電話で、羽矢子にせがまれたといっても、十数年会っていない元妻の最期に、自分は立ち会う権利があるのだろうか。

 奏人の怒気を含んだ声が蘇る。責められているような気がする。


 ドアノブに手をかけたとき、中からドアが開いた。奏人が目の前にいる。

「来たんだね」

 奏人の声は、くぐもっていた。

「今、話せないよ。さっきまでは意識があったんだけど」

 目のふちが赤い。抱きしめたい衝動にかられたが、かろうじれ抑えた。奏人の肩は、自分と同じ高さにある。二十歳を越した息子は、もうしっかりと大人だ。

 ベッドの上の羽矢子は、健介の知っている羽矢子ではなかった。まばらに頭部を覆う白い髪と、痩せこけた頬。かろうじて記憶を呼び覚ましたのは、閉じた瞼のふくらみだった。この閉じた瞼を、健介は何百回も何千回も見たのだ。羽矢子は小柄な女だった。抱き寄せて顔を覗こうとすると、羽矢子は恥ずかしそうに俯いたものだった。


「羽矢子」

 返事はなかった。代わりに、鼻をつく異臭が迫る。テーブルの上のユリの匂いすら、それを消せない。

「医者が言うには、もう、痛みはあんまりないだろうって」

 黙ったまま、頷いて、健介は羽矢子の痩せた腕に、手を置いた。乾いた腕だった。 

 このまま握っていると、崩れてしまいそうな頼り無さ。

 遠くでサイレンの音がして、やがて聞こえなくなった。窓の外はすっかり日が落ちている。カーテンが開いた場所から、街の灯が見える。


「いつから」

 羽矢子の顔を見つめながら、健介は訊いた。

「春の初め。スキルス性の胃癌だって」

「そうか」

「あっと言う間だったよ」

 あとは、嗚咽になった。呻きにも似ている。

「いっしょに暮らしていながら、異変に気づかなかった。僕のせいだ」

「違う」

 思わず健介は後ろを振り返った。

 今度こそ、抱きしめてやりたい。息子の、血を分けた息子の支えになってやりたい。

 そう思って腕を伸ばすと、奏人は泣きながら後ずさって、窓際へ行った。そのまま顔を背ける。

 拒絶された。無理もないと思う。いちばん辛いときに、そばにいてやれなかったのだから。

 そのとき、ぴくりと指先に動きを感じた。羽矢子の腕をさすっていた中指だ。


「羽矢子、俺だ」

 健介が叫ぶと、奏人も近寄ってきた。

「お母さん、お父さんを呼んできたよ」

 羽矢子の瞼がゆっくり開けられ、心持ち顔をこちらに向ける。

「わかるか? 俺だ、健介だ」

 知らず知らず、羽矢子の腕を強く掴んでいた。力を入れたら折れてしまうかもしれないのに。

 茶がかった瞳に、すでに生気はない。

 唇が動いた。何かを訴えたいのだ。

「――」

「何? お母さん」

「羽矢子、無理するな」


「いか……げ」

「いかげ?、いかげ、なんだ?」

 すうっと水が引いていくように、僅かに残っていた命の火が消えた。叫び出したくなるほど、それははっきりとしていた。

「ああ」

と、声を上げた奏人の肩を、健介は引き寄せた。すり抜けていかないようしっかりと、健介は奏人の肩を抱き続けた。



 赤いサルスベリの花が風に揺れている。

 まだ夏のはじめだというのに、日差しはどこかさびしい。羽矢子が逝ってしまった事実がそう感じさせるのか。

 病室を出た健介は廊下の先にあるロビーの椅子に座り、窓の外を見つめていた。

 窓によりかかるようにして、奏人が立っている。病室でひとしきり泣いたあと、奏人はここへ来た。健介は奏人の体を支えるようにしてやって来た。

 それから、奏人はずっと窓の向こうを見つめたままだ。

 

 話しかけようとして、健介は何度も言葉を飲み込んだ。何を言っても言葉に嘘があるように思えた。ずっと忘れなかったとか、仕方なかったんだとか。

 何よりも、お母さんに非はなかった。そう言おうとしても、結局は言えなかった。


「これからのことを、俺にも、協力をさせて欲しい」

 奏人の背中に声をかけた。一つ一つの言葉に気持ちを込めたつもりだった。だが、若い背中は、振り向かない。

「そんな必要ないよ。金ならあるから」

 チェック柄のシャツにジーンズ。汚れのない白いスニーカー。ごく普通の若者らしい服装だが、どこかこざっぱりとしている。

 袖口から黒っぽい腕時計が覗いている。詳しいわけではないからわからないが、安物ではなさそうだ。

「それに、いままでだって、自分たちだけでやってきたんだ」

「――そうだったな。でも、まだ学生なんだろ。学生の身では何かと」

 ふいに振り向いて、奏人が健介を見つめた。

「学生の身だけどね。多分、あんたより稼いでいると思うよ」

 目の中に冷たい光を見て、健介は戸惑った。健介の職場へ電話をかけてきたのだ。  

 今、現在、健介が何をして糊口をしのいでいるのか、奏人は承知している。


「そうか。何のアルバイトだ?」

「会社を持ってるんだ」

「会社?」

 思いがけない答に、健介は面食らうしかない。

「僕が通っている大学の学生の間では、めずらしくもないよ。ま、僕は特別成功しているほうだけど」

「おまえの通っている大学っていうのは」

 健介の問いに、奏人は健介でも名前を知っている大学名を挙げた。健介の知る限り、日本で最難関の大学のはずだ。


「すごいな」

「想像もつかないんでしょ」

「どんな会社なんだ? その、何を扱う」

「キュレーションアプリ」

 それ以上は説明する気はないようだった。冷笑ともいえる笑いを口元に浮かべて、ふたたび窓に向き直る。


「ともかく、葬式には呼んでくれ」

 それしか言うべき言葉が思いつかなかった。羽矢子が逝ってしまったかなしみを、息子といっしょに分け合いたい。だが、奏人から返ってきたのは、拒絶の言葉だった。

「お母さんの頼みだったから、呼んだんだ。僕が、僕があんたに会いたかったわけじゃない」

 尖ったナイフを突きつけられたような気がした。父親が去ってから、十数年尖らせてきた憎しみのナイフ。

 おそらく奏人は、これからもそのナイフを研いでいくのだろう。


 無駄だとわかっても、言わずにはいられなかった。

「今夜、俺もお母さんの柩のそばにいさせてくれるか?」

 葬儀会社によって、羽矢子の遺体は自宅へ運ばれる手はずになっている。涙に明け暮れているうちに、奏人がすべて取り仕切っていた。別れた妻と置いてきた息子が暮らしていたのは、日吉のマンションであると、健介は今日初めて知った。

「いや、遠慮しとく」

 冗談ぽく言ったが、目は冷えている。

「――わかった」

 健介は立ち上がった。だが、このまま帰りたくなかった。もう少し奏人と話をしたかった。冷笑であろうと、奏人の顔を見ていたい。


「最後にお母さんは何を言おうとしたんだろうな」

 なぜか、奏人の背中が震えたように思えた。

「いか、げ、か? そんなふうに言っていた。あれは何を言おうとしたんだろう」

 奏人は振り向かない。

「意識が混濁していたんだろうな。意味なんか、なかったのかもしれないが」

「意味はあるよ」

 背中のまま、奏人が言った。

「え」

「名前を呼んでたんだ」

「名前? 誰の?」

 奏人が振り向いて、健介を見た。心持ち顎を上げて、健介を見下しているかのように見つめる。


「あんたの、もう一人の息子の名前だよ」

 眉間に強烈なパンチを食らったかのように、健介は衝撃を受けた。

「――息子? もう一人の?」

「驚いたよね? 自分の知らない息子がいたとなると」

「それは、どういう」

「どういう意味かって? 言葉どおりだよ。あんたには、もう一人息子がいるんだ。僕の弟だよ」

「まさか」


 目の前の若者に、得体の知れない不気味さを覚えた。息子をそんなふうに感じてはいけないのはわかっている。だが、こんな事実を口にするとき、人はもっと違う表情をするんじゃないのか。

「あんたが出ていったとき、お母さんは妊娠してたんだよ。だけど、お母さんは、あんたにその事実を伝えなかった」

「信じられない――嘘だろ」

「こんな話、息子が父親に嘘で言うと思う?」

「だとしたら」

「事実は事実。動かしようのない、事実なんだ。お母さんは、あんたが出ていってから、三重の田舎に戻ってね。それで、弟を産んだんだよ。東京で僕を抱えて、女一人、生きていけないと思ったんだろうね」

「神尾井(かみおい)村に帰ったのか」

 羽矢子は、三重県と奈良県の県境にある山里の出身だ。高校を卒業し、看護師になって東京の病院で働き始めるまで、羽矢子は忘れられたようなその山里にある、神尾井村で暮らしていた。村からは、二時間かけて麓の町にある高校へは通ったという。

 

 健介は、神尾井村を、一度も訪れていない。交通の便が悪く、何かのついでに寄れるような場所ではなかった。

 いっしょに暮らし始めてしばらくたったとき、羽矢子の両親が、名古屋まで出てきたことがある。東京から挨拶に出向いたが、いい思い出ではない。両親とは打ち解けられなかった。代々、林業で生計を立ててきた家だというのは聞いていたが、町で暮らす人間にたいして、あからさまな軽視があり、まして当時定職を持っていなかった健介には、厳しい目を向けてきた。

 いずれは、羽矢子には村に戻り、家を継いでもらうと、こちらの意向などおかまいなしに口にしたのだった。

 

 羽矢子は別れたあと、神尾井村に戻り、すぐに子どもを産んだという。ということは、奏人より――。

「僕の七歳下の弟ってわけ。やんちゃなガキだったよ。僕に言わせると、猿みたいだったな。山の暮らしが似合っていたというか、山の暮らしだったからああなっていたというか」

 村での暮らしは、奏人にとって、あまりいい記憶ではないようだ。眉間に皺を寄せ、不快な表情で続ける。東京からの転入で、奏人には戸惑うことばかりだったのだろう。まして、奏人は、山の暮らしに馴染めるような男の子ではなかった。まだ七歳だったにも関わらず、どこか覚めたような表情の子どもだった。あまり丈夫な体質ではなく、動き回るより、本を読んで過ごすのが好きだった。健介に言わせれば、自分の息子とは思えないほど、賢い、だが、親しみの持てない息子だった。


「あいつが十三になるまで、お母さんは神尾井村にいたんだよ」

「それからは?」

「松坂、四日市、名古屋。最期は大阪だよ。関東に来たのは、僕が呼び寄せたから」

 なぜ、それほど、各地を転々としなくてはならなかったのか。

 訊くのがはばかられた。奏人に責められるような気がする。


「名前は? 名前はなんていうんだ」

「猪鹿毛」

「いかげ? 変わった名前なんだな」

 ふっと鼻を鳴らして、奏人は薄笑いを浮かべた。

「ほんと、奇妙な名前だよ。おじいが付けたんだ、代々受け継がれた名前だってね。風弓の家では、後継ぎにふさわしい男子が生まれると、猪という字を使うらしい」

 最期のとき、羽矢子が呼んでいたのは、下の息子の名前だったのだ。いかげと、羽矢子はたしかに呟いて死んだ。


「それで」

 健介はごくりと唾を飲み込んだ。

「その猪鹿毛は、今、どこにいるんだ。なぜ、ここに来ない。お母さんが死んだっていうのに」

 さあと言ってから、奏人は首をすくめた。

「十三のとき、あいつは家を出たんだ。今から二年前だよ」

「家を出た?」

「そう。ある日、どっかに行っちゃったんだよ。それで、お母さんは村を出たんだ」


「ちょっと待て」

 重大な話を、奏人は軽く話す。そういう話し方をする男なのか、それとも、奏人にとっては大事な話ではないのか。

「家を出たって、自分から出て行ったのか?」

「そうらしいね。お母さんはそう言ってた。僕はもう大学生で、こっちにいたから、詳しいことは知らないよ」

 知らないよで、済む話か。


「それから? それから猪鹿毛はどうなってるんだ」

「お母さんは手を尽くして探したらしいけどね。どこへ行ったのかわからなかったみたい」

「それ以来、一度も会ってないのか?」

 奏人はじっと健介を見つめた。

 瞳が輝く。奏人の目は、父親への憎しみで燃えている。

「会いたくも、ないね」

 冷たい声だった。

 

 お母様のご遺体を霊安室に運びますと、看護師が伝えに来た。

「今日はゴクローサン」

 奏人はそう言って、踵を返した。健介は呆然と、その後ろ姿を見守るしかなかった。


 

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