赤い海

 まるで不吉な事が起こる前触れかのように、清一郎の嫌な胸騒ぎが消えない。


「もっと早く進まないのか」


 自動車の運転手に訊ねるが、返ってくるのは道が混雑していてという答えばかり。


「ここまででいい」

「隊長? ちょっと」


 抗議の声を上げる部下の大河を無視して、清一郎は車からさっさと降りた。


 人混みをすり抜けながら、不意に脳裏に浮かぶのは、琴葉を貰い受けようと白藤邸へ赴いた時のことだ。



『そろそろ来る頃だと思っていたよ、雪宮清一郎。いや、むしろ来なければどうしようかと思案していたところだ』


 底の読めない、柔和な笑みを湛えた涼夜に寒気を覚えた。それすら見透かすかのように、涼夜は口を開いた。


『白藤家当代はあの星読みを、「弓弦家と繋がりを持つことが吉」と占ったようだけど、僕の見立てでは逆。これは嵐の前兆だ。あの魔の手から、五藤宮家と帝をお守りするには、君と組むしかないと考えていたけれど……御足労いただけて、何よりだよ』


 白藤の一門は、代々占術を得意とし、それを生業にしてきた一族だ。

 その中でも、稀に見る千里眼とまで呼ばれる彼の目にはどんな景色が映っているのか。それは、清一郎にもわからない。

 彼とは古い仲だが、自分が退魔科に所属してからは、白藤は分家の者が退魔科所属だったため、関わり合いもめっきり減っていた。

 久しぶりに合う彼は、相変わらず穏やかな表情だった。そして以前と同じように、全てを見透かすような深い青を湛えていた。

 自分の瞳も、人からは時々「青く見える」と言われる事がある。神力の多い人間には、稀にそのような瞳を持つ者がいると言う。自分を特別だと思ったことはないが、いざ他人を見ると、何故かとても神秘的なものに見えるのだから不思議なことだ。



『琴葉はね、ちょっと特別な星のもとに生まれてしまってね。あまりに不安定で、占いも意味をなさないほどに、運命をころころと変えてしまうんだ。良くも悪くも、自分のも、他人のものもね』


 静かに語る涼夜は、目の前の清一郎を見ているようで見ていない。


『けれどあの子は、優しくて強い子だから。彼女が何かを決めてそれを実行するときは、きっと君の助けになるはずだ。彼女のもしもの時には、必ず君がそばにいて、見届ける事。それさえ約束してくれれば、婚姻なりなんなり、好きにして構わないよ。僕は……彼女の運命の星から、外れてしまったから。君にあの子を、頼んだからね』


「――どうして今、奴の言葉を思い出さねばならないんだ」


 苛立ちを滲ませて、清一郎は独りごちた。

 

 確かに、仮初の契約婚だった。

 けれど確かに、彼女の誇りあるまっすぐな言葉に、惹かれたのが始まりだった。

 あの夜出会わなければ、あの日、嬉しそうに札やペンの事を語る彼女を見なければ、こんな感情は生まれなかった。



 屋敷の前まで辿り着き、清一郎は思わず眉をひそめた。

 追いついた大河も同様に、顔を顰める。


「隊長? ……何者かが侵入した形跡、ですか」

「分かっている」


 見慣れた我が家のはずなのに、人の気配がしない。静まり返って生気のない、まるで異界のどこかのようだ。

 

 そしてここまで漂ってくる、錆びた鉄のような、むせ返る、香り。


「清一郎さま……清一郎さま!! 奥様が!!」


 離れから転がるように出てきたきくの顔を見て、清一郎は全身の血液がごっそり抜け落ちるかのような絶望感に襲われた。


「どうされました? きくさんのその、着物の血は……」

「これは奥様の……」


 大河が話しかける声と、きくの受け答えを全部聞き終わる前に、清一郎は離れに飛び込んだ。


 母だけが眠っているはずの部屋の奥に、赤い池のようなものが見える。

 その池が血溜まりだと……そして、その真ん中に倒れているのが琴葉だと気がついた時、清一郎は矢も盾もたまらず駆け寄って、彼女の肩を大きく揺さぶった。


「琴葉、琴葉!」


 彼女は、動かない。

 幽霊のような真っ白の顔をして、着物も驚くほど質素なもので、血溜まりの中で、力無く目を閉じたまま。


 ぬるりと滑る感触を、現実のものと思いたく無かった。まだ暖かい。傷口はどこかと探ろうとすると、右の上腕に深い切り傷があった。


「琴葉、『琴葉』! しっかりしろ、死ぬな、俺がきた、必ず助けるから、目を開けてくれ、『琴葉』」



 けれど彼女は、動かなかった。

 琴葉の血だらけの手に、何か握られているのが分かる。固く固く握られたその手には、何枚かの札と紙がくしゃくしゃになって収まっていた。


「せい……いちろう……」


 不意に、掠れた声がした。

 はっとして振り返る。布団に横たわる母の方から、確かに声が聞こえた気がした。


「せいいちろう、」


 母の唇が震えた。

 もう一度、掠れた声がした。

 その口から、久方ぶりに、自分の名前がまろび出る。清一郎はこぼれんばかりに大きく目を見開いた。

 気のせいではない。

 幻聴ではない。


 意味のある言葉を母が発したのは、あの日以来、実に三年ぶりのことだった。


「はは、うえ……!?」

「なんの、さわぎですか……」


 か細い、けれど確かに懐かしい、声。


 喜びの気持ちが湧き上がると同時に、腕の中の琴葉がどんどんと冷たくなっていく。



「隊長!? これは一体、どういう……」


 遅れてやってきた大河はびっくりして、離れに入るのを躊躇した。


「医者を呼べ! 俺は琴葉をなんとか持ち堪えさせる、きくは母上を頼む!」


 清一郎は指示を飛ばす。一刻の猶予もない。飲み込めない状況だらけだが、腕の中の彼女を、殺すわけには絶対にいかない。


 清一郎は唇を噛み締めた。

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