嘘を吐く

 琴葉は震える体を悟られないように、深く呼吸をして背筋を伸ばした。


 気持ちを落ち着けて、腹に力を据えれば、僅かながら震えがおさまってくれる。この交渉は、必ず成し遂げなければならない。

 着物の袖をたくし上げて、右の二の腕を晒した琴葉は、這い上ってくる気持ちの悪い視線と悪寒に耐えて無表情を取り繕った。


「その言葉に、嘘はないな」

「はい。これが唯一無二の方法です。言霊に誓って」


 目の前にいるのは、弓弦實ゆみづるみのる

 琴葉に最初の縁談を持ちかけてきた、張本人である。

 琴葉は雪宮の屋敷を抜け出して、単身弓弦家に乗り込んでいた。

 以前墨島正と共に来た時に通された、ごてごてした装飾の洋間の椅子に座らされ、實と一対一で対峙している。


「君の体に彫られている、その気色の悪い紋様が、退魔科の呼ぶ所謂いわゆる『無言病』に対抗する唯一の札だ、と。どうしてそんなことを今更、私に告げ口したりするのかな」

「こうでもしないと、弓弦様の『悪戯』は収まりそうにありませんので。どこから入手された情報かはわかりませんが、さる高貴なお方の無言病の噂を聞きつけて、それに乗じて何かをしようと画策されているのではありませんか? ご自身の責任でお好きにされるのは構いませんが、群衆を扇動して退魔科にまで影響を及ぼすとなると、守られるべき民の平安が後手に回ります。それを避けたいだけのこと」

「札屋風情が、民の平安を語るのか」


 くつくつと声をあげる實の目は、笑っていない。

 蔑みの視線に耐え、琴葉は悠然と微笑んでみせる。


「何としてでも札屋の技術を手にしたいのですよね、弓弦様は。でしたら早い話です。この札を印刷して世に広めれば良いのです。私の言う事が信じられないのであれば、貴方が一度、自らの神力を以て実際にお試しになってください。そうすれば、私が持つ札の全ての権利を差し上げます。私の、ここに詰まっている知識も全て、貴方のものです」

「何故雪宮清一郎ではなく、私なのかな」


 一度は、婚姻の申し出を反故にした相手だ。疑われて当然。琴葉は次の一手を打つ。


「初めは、貴方様の事が怖くて、苦手でした。けれど、雪宮の方がもっと怖くて恐ろしい家だと、気がついてしまったのです」


 琴葉は一枚の札を實に見せた。


「本物は抜け出す前に部屋に置いて来ましたが、これは一般には流通していない、諜報札の複製です。雪宮家では常にこれを持たされ、私の行動は監視されていました」


 琴葉が手に掲げる諜報札は、かつて『肌身離さず持つように』と清一郎に渡されたあの札を、琴葉自身の手で複製したものだ。

 本物の札を置いて来たことは、そろそろ、清一郎たちに気付かれているかもしれない。

 早く帰らなければとはやる心を押さえて、琴葉は悲しみに打ちひしがれる表情をして見せた。

 

「はたから見れば、何不自由なく甘やかされている女のように見えたでしょうが、実際は違います。清一郎さまはおろか、妹や使用人にまで虐げられ、見えないところは痣になり……」


 そこまで言葉を紡いだところで、ごふり、と琴葉の肺の奥から何かが迫り上がってきた心地がした。咄嗟に着物の袂で口を覆うと、べったりとした赤褐色のものがはりついた。


「――この通り、雪宮の家に不利なことを言えば、体の内側が傷つくほどの呪いをかけられているのです」


 喘鳴のする喉の奥から、言葉を絞り出す。

 実際は、違う。


 いま、琴葉の体は、琴葉が嘘を言えば言うほど、内臓のどこかに損傷を負う仕組みになっている。

 数日前、清一郎に『事実と違う言霊を唱えた時、呪がかかるような札の詠唱はないか』と尋ねてみた、それが効いているだけの事である。清一郎の言霊によって、自分が書いた札を発動させた。札の気配を察知する清一郎なら気づいてしまわないかと冷や冷やしたが、雪宮邸の中だったからか、気取られる事なくうまく行ったのは幸いだった。


 同様に、屋敷を抜け出すための札も細工をして、清一郎に言霊を唱えさせた。

 ばれたらその時はその時だと思った。清一郎の心がこちらに傾いてくれていることに賭けたのだ。現時点では、琴葉の賭けは順調に進んでいる。


 あと一歩、この男さえ、出し抜くことが出来れば。


「この諜報札は、札屋の私ですら、初見では気付けないほど巧妙に紋様を組み合わせて分かりづらくしてあります。けれど、まだ改良の余地はある。私が雪宮家でこれを改良したところで、軍需に使われてお終いです。しかし弓弦家なら、もっと『民のために』役立つ方法を考えてくださるでしょう?」


 何かを腹部に突き刺されたような痛みに耐えながら、琴葉は縋るような表情で続ける。

 徐々に實の表情が、愉悦に傾きかけていることを琴葉は見逃さなかった。


「雪宮家よりも、貴方様の方がずっと、札屋の力を世の人々の役に立ててくださる、ということに気がついてしまったのです。無言病を治す札は、苦しむ人々の助けに必ずなるはずです。ただただ、お上のものだけにしてなるものですか」


 本気で人の役に立てると信じ込んでいる、馬鹿な女を演じ切る。

 また、肺の奥から血が噴き出してくる感覚に襲われた。琴葉はそれを気合いで飲み下した。


「このまま私と一緒に、雪宮の屋敷までお越しください。雪宮家には、無言病の患者をひとり、匿っている離れがあります。その方を実験台と致しましょう。私が抜け出す事が出来るほど、今日は雪宮家の守りが手薄な日。これを逃す手はありません」


 上手くいけば、弓弦家の覇権と利益は確実。

 けれどその裏に気がつかないほど、弓弦實も馬鹿ではない。


「家に忍び込むのは危険が高すぎる。万が一上手くいかなかった場合はどうする」

「その時は、私を殺してくだされば」


 躊躇いなく、琴葉は言い切った。


「雪宮の嫁が勝手にやって勝手に死んだとすれば、かの家の評判も地に落ちましょう。貴方様の関与は、この札を使えば消す事ができます」


 琴葉はもう一枚、袂から札を取り出した。


「無言病を治すための複製の札は無いのか。それで先に試すというのは」

「私の『右腕』にある紋章ですから、自分では書き写すのも困難で、まだ複製は一枚もありません。それに、万が一落としでもしたら、または退魔科に先に奪われてしまえば、それこそ計画が無意味になります」


 まだ体は震えている。それでも、椅子から立ち上がり、琴葉は實に一歩近づく。握りしめて血の気が失せ、真っ白になった手で、琴葉は気配を消すための札を差し出した。


「被験者になりそうな人々は、ほとんどが退魔科の中の病棟にいます。退魔科と雪宮家の屋敷を比べれば、護衛も後者の方が忍び込みやすいのは当然の理。ここまで聞かれれば、貴方様に利こそあれど、不利益なことは一つもないとお分かりいただけたと思います」

「……確かにな。だが」


 實は差し出された琴葉の腕ごと掴み、琴葉を引き寄せた。

 空いている右手で自分の持っていた札を琴葉に押し付け、低く言霊を唱える。


「お前が嘘をついている場合が、最大の懸念事項だ。『天地神明、誓ってとがただし、まことあらわす』」


 琴葉に変化は――起きない。


「ふん。嘘を明らかにする札を持ってしても、化けの皮が剥がれないとはな」

「当然です。札屋は嘘を吐きませぬ。言霊のもたらす効能を、よく知っておりますから」


 涼しい顔をして、琴葉はぐっと近づいた實の顔を見つめた。

 琴葉はすでに、その札の上位に匹敵する、呪いを伴う術がかけられている。

 他ならぬ雪宮清一郎の手で。


「これで疑いは、晴れましたでしょうか」


 實は琴葉に気圧されたように、こくりと喉を鳴らした。


「祝詞はこちらに記してあります。参りましょう」


 まだ気を失うわけにはいかない。

 琴葉はじくじくと痛む内腑の訴えを無視し、實の手を取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る