それぞれの想念

「ねえきくさん。今日もお義姉さまはおこもりなの?」

「ええ……とっても大事なお仕事が入られたそうです。身の回りのことはご自分でされるから、と、きくもお部屋に立ち入ることを許されず……」


 すっかり琴葉のことを『お義姉さま』と呼ぶようになった八重だったが、その当の義姉は、出かけの日以来八重と顔を合わせていなかった。


 食事だけは、きくが作ったものを障子の前に置いておくと消えているのできっと食べているのだろうが、それ以外の生活の痕跡は、まったく窺い知ることができない。

 彼女が離れの咲子のもとへ篭ってから、三日が過ぎていた。八重には、自室に引きこもっている、と嘘をついているが、ばれるのもそろそろ時間の問題かもしれない。



『申し訳ないのですが、しばらく家事をお休みさせていただいてもよろしいですか?』


 夜半にきくのもとを訪れた琴葉が、憔悴している様子が気に掛かったが、いいえとも困るともいえないきくは了承するしかなかった。

 その上、清一郎からも琴葉との接触を禁じられては、なす術がない。



「もう! お兄さまはいったい何をしているのかしら!」

「兄はこれから仕事なんだが」


 背後からぬっと顔を出した清一郎に向かって、八重は振り向きざま、きっ、と兄を睨みつけた。


「お兄様! もしや、お義姉さまにまで、お兄様のお仕事を無理に手伝わせたりしているのではありませんね! お義姉さまにもしものことがあったら……もしも、お母様と同じようにお倒れになったりしたら……八重は怒りますよ!」


 咲子が倒れた時、八重はまだ十になったばかりで、無言病のことを詳しく知らせることは出来なかった。今でも、八重にとって母は離れにいる『近づいてはならない存在』で、流行病はやりやまいにかかっていると思い込んでいる。


「彼女が、少し頑張りたい仕事があるというから、補佐はしているが、それ以外のことは何もない。八重もわかったら、言霊で応援するなりしてあげなさい。その方が彼女も喜ぶだろうし、早く仕事が終わるかも知れないよ」


 清一郎が琴葉に咲子の話を打ち明けた夜、琴葉は数日間離れに篭りたいこと、出来るだけ人と会わないようにしたいことを願い出てきた。清一郎はそれを了承した。ここへきて、彼女が悪さをするような人間には思えなかったし、屋敷内ならたとえ異変があったとしてもすぐに清一郎の力で対処できる。

 なにより、清一郎はもう、琴葉に対して信頼に近い何かを寄せてしまっている事は自覚している。


 百貨店に出かけたのは、先日少し会話した紫藤大河の言葉に思うところがあったから、というのは事実だが、それを差し引いても、彼女の喜ぶ顔が見てみたかったという気持ちは大きかった。

 自分にはあまり似合わない、気障な台詞を吐いた自覚もある。照れ隠しに饒舌になってしまったが、琴葉は不自然に思わなかっただろうか。


 そんな事を今考えても仕方がない、と清一郎は頭を振って思考を追いやった。




 琴葉の話によると、咲子の怪異の後遺症は、札を使った呪術に性質が似ているかもしれないとの事だった。

 それについての質問か、幾度か、札について詠唱を尋ねられたので答えた。離れの警備に配置してある札についても、琴葉の勧めでより強固なものに取り替えた。

 それくらいのことを補佐と呼んでもいいのか分からないが、琴葉が「必要な手順は然るべき時にきちんと伝える」と言っていた為、彼女の持つ奥の手がどのようなものかは、まだ知らされていない。


「言霊で、応援……確かに、それもそうですわ。早くお仕事を終わらせていただいて、八重とお出かけする約束を果たしていただかなければ」


 八重が懐いてくれたのはよかったが、ここまでとは思わなかった。清一郎ときくは困った顔をつきあわせた。






「隊長、噂の出所が判明しました。弓弦家の息のかかった者が撒いた種でした」


 出仕してしばらく時間の経った頃、紫藤大河が持ってきた書類を確認して、清一郎は詰所の机で盛大にため息をついた。


 百貨店のような大きなところで、しかも文具屋の店主が知るような噂になるくらいなら、下町あたりまで相当蔓延っているだろう。


 偶然の遭遇とはいえ、彼女に白藤家の嫡男の涼夜以外にも親しい男がいたというのは意外だった。思わず割って入ったのは、下手に琴葉に事実と異なる話を聞かせたくなかったというのがひとつ、それから、目を輝かせて彼と会話をする琴葉が面白くなかった、というのもひとつ。


「やはり弓弦の仕業だったか。そこまでして、なぜ彼らは退魔科の邪魔をする? 単純に撹乱したいだけでない、明確な妨害の悪意を感じるのだが」

「隊長、これは憶測ですが……」


 大河が声をひそめて言った。


「弓弦は、この混乱の隙に奥様を奪取する算段では」

「はあ? なぜ彼女を。関係がないだろう」

「関係がない? この期に及んでよくそんなことが言えますね」


 彼は眉を吊り上げる。


「いいですか隊長。隊長が奥様に本当のことをお話になって、協力まで取り付けたことは大変良かった。お二人の間に信頼関係が芽生え始めている、これは一歩前進です。しかしですよ。奥様ご本人と隊長に自覚があるかないかは別として、そもそも弓弦はどんな手段を使ってでも『筆村琴葉とその技術』を手に入れたいとずっと画策してきた輩なのですよ?」


 札の利権を一手に得ること、退魔科に対して圧力をかけること、さらに今なら、雪宮家の威信を地に落とすことも同時に出来る。

 紫藤がつらつらと挙げた利点を考えれば、確かに全ての辻褄が合う。


「弓弦がもし、皇太子殿下の無言病のこともどこかから情報を入手したとすれば、こんな千載一遇の機会は無いはずです。こちらを撹乱させ、それに乗じて『無言病を治す手立てがある』と吹聴して群衆を味方につけ、一気に術士界の中核に躍り出ることができます。そうなれば、五藤宮家など跡形もなく――」


「『紫藤大河』、口を慎め。己の言霊に責任を持てと、いつも言っているだろう」

「ぐっ……!」


 頭を押さえつけられたかのように、大河は突然机へ突っ伏した。


 名を縛る言霊が発動したのだ、と大河が悟るのに、時間はかからなかった。


「随分と詳しい未来予想図だな。さてはお前が弓弦の間者だったのか」

「ち……が……」

「ならば軽々しくそういった内容を口にするな。我々が事象を呼び寄せてどうする」


 頭を押さえつけていた力が取り払われ、胸まで圧迫されていた大河は激しく咳き込んだ。



「申し訳……ありませんでした」

「お前は引き続き弓弦を探れ。俺も一件、上への報告が終わったら同行する」


 清一郎は何事もなかったかのように書類に目を落とした。大河はまだげほげほとやりつつ、恨めしそうな目で清一郎を見た。


「隊長、ただ、これだけは言わせてください。札に精通する奥様が、細工がしてあるとはいえ本当に、我々の仕掛けた盗聴札に気が付かないとお考えですか」

「何が言いたい」


 嫌な予感がした。清一郎は続きを待った。


「先ほどから、受信札に記録される音声と雑音が、一定震度で繰り返されるようになっています。おそらく、札をどこかに置いて、雪宮邸からはなれたものと」

「それを先に言え!」


 激しく椅子を蹴散らして、清一郎が立ち上がる。

 周囲が皆驚いて二人を振り返った。その視線に振り返ることもせず、清一郎は部屋を飛び出した。

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