ようやく腑に落ちて

 初めて案内された離れの中は、まるで神社の中のような静謐な空間だった。

 病人、と聞いてはいたが、それにしては気の淀みが一切ない。きくが毎日、時間をかけて清掃しているおかげもあるだろう。


 琴葉はそっと部屋の周囲に目を配った。

 障子枠には厄除けを意味する麻の葉紋様が薄く彫られ、引き戸の部分には猪目も施されている。


 しめ縄のように張り巡らされたこの紋様が、外界からの穢れを払うものであると同時に、中に穢れを閉じ込める役も担っている。琴葉は肌の感覚でなんとなくそう思った。


「母上、清一郎です。入ります」


 清一郎は襖の前で一声かけると、静かに中へ入った。


 敷かれた布団の上に、青白い顔で横たわる一人の女性がいた。


 目を閉じ、静かに眠る様はまるで人形のようだ。生気のないその顔は、美しいと同時に恐ろしくもあった。

 そうして眠る彼女の枕元にあるものを見つけ、琴葉は思わず「あ」と声をあげてしまった。


「気づいたか」

「あの、札は……」


 そうだ、と清一郎は軽く頷いた。


「あの頃、母は症状が悪化して、酷くうなされる日が続いていた。私もなかなか、家に帰れず、さすがのきくも夜通しは看病できず、憔悴しきっていた」


「初めてきみを夜道で助けた、あの日。きみが私にくれた札は、最初の日は私が使ったのだが、あまりの効果の高さに驚いて母にも使ってみると……これが、効果覿面だった。この札を使っているときだけ、母は安らぎのなかで眠ることができた。きみの札は、私の母だけでなく、この家の者全員を救ってくれた」


 本当はもっと早くに、礼を言わなければならなかったのだが、と告げられて、琴葉は声が出なかった。


「きみならもう気がついているだろう。母の病は――怪異に侵された者の後遺症、我々退魔科が『無言病』と呼ぶものだ。母は、私を庇って自ら盾になり、怪異に飲み込まれた。あの時の気持ちといったら――いや、今はその話ではないな」


 札を手に、人々を助けることが仕事の術士が、庇われて大切な人を失うなど、どれほどの絶望を味わったことだろう。琴葉は胸を締め付けられる思いがした。

 自分に守るだけの力があったはずなのに、と後悔に苛まれながら。

 手遅れになった様を見るのは、あまりに辛い。


「父はこの病を治す手立てを探す為、遍歴の術士として全国を回ることにした。私は父の跡を継ぎ仕事をする傍ら、母を救う方法を調べている。けれど」


 その言葉の続きを、琴葉は唐突に悟った。


「宮中にも、今『無言病』の方が居られるのですね」


 先日、琴葉が清一郎に問うた言葉の答えだ。


『もしも、もしもの話です。怪異に侵された人を救う、そんな奇跡のような札が一度きりだけ使えるとしたら……清一郎様には、その札を使いたい方が、いらっしゃいますか?』

『そうだな、たった一度しか使えないのであれば、それは帝の御身にもしもがあった時の保険として取っておくかな。身内の為に使ったりしたら――自分が罪悪感で潰れそうだ』


 あの時の痛みを堪えるような表情は、母親とお上のことを思ってのことでは無かったか。


 清一郎は、綺麗な色の瞳を伏せて悲しそうに笑った。


「母があの状態になって、もう三年の時が経つ。一向に手掛かりを得られないまま、半年前、皇太子であられる殿下が警護の隙をつかれて怪異に襲われ、無言病になった。なんとしても殿下をお救いしなければ、と、考えていた時に、きみに出会った」

「皇太子殿下がこのところ公の場に御姿を見せなくなったのは、そういうことでしたか」


 琴葉はようやく、この結婚の本当の理由を理解した。

 ああ、矢張り、自分は駒に過ぎなかったのだ。


「殿下は、母が私を庇って怪異に倒れたことを知っておられる。家督を継いでから、数多の困難があったが、その度に何かと励ましてくださった。今こそ大恩に報いる時だと分かっていても、私には、もう思いつく手立てがない」


 なるほど、と琴葉は思った。そして自分の右腕をそっと押さえた。


「清一郎さま」


 目の前の、肩を落とす、一人の男に呼びかける。


 琴葉は、札屋である。

 怪異を退治する為の札を作る、それが仕事だ。



「お仕事のご依頼でしたら、初めからそう仰って下さればよろしかったのに。私は職人として、仕事人として、決して手抜きはしないと誓いますのに」


 清一郎がはっとして振り返る。

 琴葉は腹を括って答えた。


「手立てがあるとすれば、一つだけ。少し、お時間を頂けますか?」


 その時清一郎が目にした琴葉の表情は、驚くほどに凪いでいた。

 夏の湿度も忘れるほどに、乾いたその表情は、清一郎が思わず見惚れるほど美しいものだった。





 

 やっと。やっと理解できた。

 この身に受けた恩を、契約のその理由を。

 落胆よりも、納得の方が強かった。元々ずっと疑問に思っていたのだ、この待遇に、この生活を。


 自室に戻った琴葉は、のしかかる重圧にひとりため息をついた。


 皇太子殿下が伏せっているのは極秘事項とはいえ、五藤宮家のうちのひとつである白藤家が知らぬはずはない。その上で雪宮家が白藤に母、咲子の事を明かし、事情を説明したとすれば、結婚してから先、彼らから何の音沙汰もない事にも説明がつく。

 琴葉を、雪宮家に売ったのだ。

 白藤の手を汚さぬまま、事態を解決するための最良の手段として。


 琴葉は、以前清一郎から渡された札を胸元の合わせから引き抜いて眺めた。

 もう、この札の本当の効力に気がついている。

 どうして自分の危機に、清一郎が駆けつけてくれたのか。自分のささやかな願いが天に通じたのではない。この札が、清一郎を呼んだ・・・のだ。


 それでも、お守りのように縋っていたかった。幾度となく握りしめて、ぼろぼろになったそれを、琴葉は畳の上に置いた。

 

 それから、身に纏う着物を一つづつ、解いていった。


 右の上腕に露わになるのは、かつて、父が幼い頃の琴葉の体に残した、刺青だ。


 札のような長方形の四角の中に刻まれた、複雑怪奇な紋様。それは伝統紋様の他にも、西洋の扉に描かれでもしているかのような獅子や、蛇や、幾何学模様や、羅針盤など、おどろおどろしいものもある。

 琴葉はこれが彫られた時のことを、まるで覚えていない。恐ろしい記憶を、体が封印してしまったのかもしれない。


 琴葉はその刺青を左の指でそっとなぞった。


「お父様……」


 これは、手を合わせれば筆ノ森神社に辿り着ける、というだけの単純な帰巣機構だけではない。

 琴葉の体に刻まれているのは、代償を必要とする禁術だ。


 この秘術を知る者は、大切なものを捨てる覚悟をしなければならない。

 この秘術を使う者は、己を捨てる覚悟をしなければならない。

 そうして全てを投げ出してでも、救えるのは、たった一人、たった一度だけ。


「でも、私は」


 どちらも救いたい。

 清一郎に酷な選択をさせたくなかった。

 琴葉を呼吸するだけの人形から、確固たる「人間」にしてくれた人。

 彼の綺麗な瞳が人知れず涙に濡れるのを、見たくはない。


「ならば、する事はひとつ」


 琴葉は大きく息を吸い込んだ。

 むせかえるような夏の夜の闇が、肺いっぱいに広がった。

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