噂の出どころ

 初めて名前を呼ばれた。

 琴葉が自覚したと同時に、清一郎の手が背中に触れる。その瞬間、かくりと膝から力が抜けた。


 よろける琴葉を背後でしっかり受け止めた清一郎は、史也に「失礼、私の妻がお世話になったようで」と声をかけた。


「あ……あなたが、雪宮……」

「今日は疲れてしまったようですから、帰って休ませることにします。遠目からではありますが、妻もあなたと話しているのが大層嬉しかったように見受けられました。また、伺いますので」

「は、はい……」


 琴葉の腰をしっかりと支え、清一郎が歩き出す。

 琴葉は自分の意思で歩けると清一郎に伝えなければ、と思ったのだが、胸を圧迫する息苦しさで思うように言葉を紡げなかった。


「せ……ちろ……さ……ま」

「すまない。あの場に不審な気配があったので、勝手に割り込ませてもらった。――よし、もういいだろう」


 清一郎が琴葉の背中をぽんと一つ叩く。途端に、苦しかった肺へ酸素がなだれ込んできて、琴葉は激しくむせ返った。


 琴葉の背中を優しく撫でながら、清一郎が落ち着かせてくれる。


「も……申し訳ございませんでした。もう、大丈夫です。あの……今のは」


 恐る恐る尋ねると、清一郎はあからさまに琴葉から視線を逸らした。


「あの場を立ち去る為に、きみの名前を直接呼ぶことで強制的に行動を縛った。――怖い思いをさせて、済まない」

「いえ、私こそ、余計なお手間をかけさせたようで申し訳ございません」


 術士の言霊は、力を持つ。

 相手の名を縛れば、その身の自由を奪うことさえ簡単だ。わかっていたつもりでも、実際に自分がされて初めて、その威力の強さを知る。同時に、清一郎がそれほどの実力を持っているという事もよく理解した。

 体の自由が突如としてきかなくなって、怖くなかったと言えば嘘になる。けれど、清一郎は意味のないことはしない人だ。そう確信するほどには、彼のことを信頼している。


 琴葉は札を作ることは出来ても、札の気配とやらは感じとれたことがない。


「彼は、古い馴染みなのか」

「史也おじさまですか? 私の父が昔、彼の父から文具をよく買っていたので、私も知った相手であるということは確かですが……まさか、少し会わないうちにこんなところへ支店を出せるほど繁盛していたとは、全く知りませんでした」

「何か、聞かされたか」

「世間話の他には、特に何も……ああ、でも、墨島の家で聞いた話と、何か繋がるところがあるような話を、最後にしていました。そのことで少し、確認したいことがあるのですが……どこでどなたが聞いているか分かりませんので、お屋敷でお尋ねしても良いでしょうか」

「ああ。構わない。私も君に、話しておかなければならないことがある」


 清一郎は静かな声で言った。

 気分を変えて甘味でも食べようかと誘ってもらったが、琴葉は丁寧にその申し出を辞退した。

 今食べてもきっと何の味もしないだろうと、予感が囁いたからだった。





 二人の帰りを待ち侘びていた様子の八重は、琴葉の選んだ着物を見て歓声を上げた。

 仕上がった状態の着物を持って帰ってきたことに対しては、何かお小言がつくかと思ったが何も気にする様子は無かった。「物には想念というものがあると言いますけれど、お兄様が選んだのでしたら問題ありませんわ。きっとお義姉さまに巡り会うために、あの場に飾ってあったのでしょうね!」と非常に前向きだ。

 そういう事象にとても拘る白藤家では、考えられない事だった。


「丈もぴったりではありませんか。お直しも必要ないなんて、もう琴葉様の為のお着物同然ですわ」


 きくもうんうんと嬉しそうに頷いている。

 自分が選んだものをここまで肯定してもらえると、琴葉も嬉しい。


「百貨店が流行の最先端だということが、よく分かりました。かき氷の刺繍をあしらった、少しモダーンな柄の反物があって……もし八重様が、この着物にかき氷の帯を締めていらしたら、とっても可愛らしいだろうな、と思ったりして」

「まあ素敵! ねえお義姉さま、今度八重とのお出かけは、その百貨店にいたしましょう? お兄様、また連れて行って下さいますよね?」


 八重のかわいいおねだりに、清一郎も苦笑しながら頷いている。

 この幸せがずっと続けばいいのにと、琴葉は心の底から思った。




「それで、望月史也は『退魔科は怪異に侵された後遺症を持つ人々の治験をしている』と言ったんだな」


 はしゃぐ八重たちが出て行ったところで、清一郎は本題を切り出した。


「はい、私の聞き間違いで無ければ、そう言っていました。先日伺ったお話とは、また事情が異なるようでしたので……何か、ご存知のことがあればと思って」

「私も聞いたことがない。怪異に襲われても生き残る事例は確認されているが、それが退魔士だから、とは限らない。そういった人々に対して、解決策を常に探してはいるが、君が以前言ったように、そんな札が存在するとしたらとっくに試している。開発者だって叙勲ものだ」

「では、どうして奇妙な噂話が広がっているのでしょう。根拠のない憶測は、いらぬ火種を生みます」


 たとえば、史也のように勝手に期待する者も出てくるだろう。

 新聞などがかぎつけて、要らぬ詮索でもされれば、面倒なことになるのは退魔科だ。

 根も葉もない噂の火消しにまわり、通常の仕事に差し支える事もあるだろう。


「一番厄介なのは、これが故意に引き起こされている場合だな。まずは出所を確かめよう。紫藤に調べさせる」


 せっかくの休日が、また仕事の話になってしまった。

 琴葉のせいではないが、申し訳ない気持ちになる。


「ところで、清一郎さまのお話というのは」

「ああ。きみにもそろそろ、本当のことを話しておいた方がいいと思う。今日の話にも少し関わる、大切なことだ。部外者から余計なことを聞かされる前に、雪宮の真実をな」


 ただならぬ話の行方を察して、琴葉の背筋が伸びる。


「来てくれるか。私の母のところへ」

「かしこまりました」

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