いざ、『百貨店』へ

 百貨店、とはどのような場所であるか。


 白藤家に世話になっていた頃の話だ。涼夜が「ひゃっかてん」というところに出かけたのだと大層自慢げに琴葉のところへやってきたことがあった。楽しそうに土産話を語りはじめた涼夜を見て、漠然とした憧れを持った記憶はある。


 豪奢な外観の大きな建物で、色々なものを売っていて、琴葉が見たことのない、人を上階へ運ぶための機械もあるらしい。


『とにかく人がたくさんいるんだよ。美しい反物を売る婦人や、西洋の書物を売るところ、特に僕が気に入ったのは――』


「ここだ」


 清一郎の声が聞こえて、琴葉は思い出から現実へと引き戻された。


 目の前に、まるで西洋の神殿かと見紛うような大きな白い建物が聳え立っている。


 その前を行き交う人々は皆小洒落た格好をしていた。人混みの中には、シャツを着た男性も多い。

 誰も彼もが目をきらきらと輝かせ、忙しなく、だが生き生きとその道を闊歩していく。

 琴葉の知らない世界が、そこにあった。


「す……すごいところ、ですね……」

「この百貨店は、先日出来たばかりだからより活気があるのかもしれないな。他の百貨店にはない、物珍しい店もあると聞く」


 思わず立ち止まった琴葉を置いて、清一郎はさっさと中に入ろうとする。

 慌てて琴葉が後を追いかけると、気づいた清一郎が足を止めて振り返った。


「迷子になっても困るな。エスコートしようか」


 清一郎から差し出された左手の意図がわからず、琴葉は首を傾げた。


「えす……何でしょうか?」

「――いや、いい」


 琴葉の右手をさっと取って、そのまま彼は歩き出す。幼子のように手を引かれて踏み入った別世界に、琴葉はまたしても息を呑んだ。


 天井から吊るされた豪奢な明かりは硝子細工。あまりのまばゆさに、目眩を覚えるほどである。

 職業婦人のお仕着せを着た洋装の女性が多くいた。大きなりぼんを髪の高いところで結った若い女性は、客なのだろう。お付きの者に荷物を持たせて颯爽と歩いていく。

 奥の一際大きな機械が目を引いて、琴葉は思わず清一郎を引っ張った。


「清一郎様、か、階段が、階段が動いています!」

「自動階段だな。私も動いているところを見るのは初めてだ」


 涼夜が昔語った、人を昇降させる機械は『箱のようなものに乗る』と聞いた覚えがある。これは別物だと言うのか。

 生き物のように動く階段など、空想の世界でもお目にかかった事がない。


「ものは試しだ。乗ってみよう」

「えっ」


 悪戯を思いついた子供のような無邪気な笑顔で、清一郎が琴葉を引っ張った。意外と好奇心旺盛なたちなのかもしれない。そう思えば、わざわざ札の包み紙を剥がして中の文字を確認したりする癖も納得だ。


 ごうんごうんと音を立てて動く階段は、近づいてみるとより迫力があって恐ろしいもののような感じがある。

 皆が慣れたように、動く段へ足を踏み入れていくが、着物の裾が絡んだりしないのかと琴葉は心配になった。

 思わず、繋がれたままの右手に力が籠る。「大丈夫」と声が聞こえて、見上げると微笑みを湛えた彼がいた。


 触れた指先から、清一郎の温度が伝播する。

 先に乗った清一郎に引っ張られる形で、琴葉も恐る恐る足を乗せた。


 体が浮き上がる。味わったことのない浮遊感と同時に、視界が引っ張り上げられる。ぐんぐん遠ざかる地面を見下ろして、琴葉は高揚を抑えられなかった。

 あっという間に上階について、琴葉たちは束の間の空中散歩を終えた。

 最後の最後に下駄がひっかかりつんのめった時は肝を冷やしたが、清一郎が支えてくれたのでなんとか体制を立て直すことができた。


「ありがとう、ございます」

「怪我はないな――よし。では手始めに、八重から言われた通りきみの服を見繕うことにしよう。確か呉服屋はあちらの角で、あちらはかんざしを取り扱っているところだったかな。帰りは一階の甘味処で一息ついても良いし、そうだ、その前に――」

「あの!」


 琴葉が清一郎の言葉を遮ったので、彼は驚いた表情で琴葉を見た。


「あの、今日のご用事、というのは……何でしたでしょうか。先に、そちらを済ませてから」

「用事? ――ああ。それはもう達成されたようなものだから。私が、きみと出かける事が用事だ」


 今度は琴葉が驚く番だった。清一郎は少し照れたように鼻を掻いた。


「まあ、なんだ。偶には仕事のことを考えない時間を作れと、部下にも釘を刺されてな。きみと話す時間もなかなか取れないままだったから、ちょうどいい機会かと思って」


 今日の清一郎は随分と饒舌だ。少しの違和感を覚えつつも、琴葉は黙って彼の言葉に耳を傾ける。


「良ければ教えてくれ。きみが何を好きで、何に心動かされるのか。契約上の関係だとしても、歩み寄りは大切にしたい派なんだ」

「そういうお話、でしたか。趣旨をよく理解しないまま、ついてきてしまい、申し訳ございません。では、私も清一郎様のことを少しでも理解できるように努めますね」


 琴葉がそう返すと、清一郎が動揺するように目を伏せた。繋いでいた右手がそっと離れていく。それを心細く思ってしまう自分がいることに、琴葉はどんどんと自分が欲深くなっていくのを感じていた。


 歩き出した清一郎の背を追って、琴葉は雑念を振り払うように首を振って歩き出した。

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