新しい朝が来て
翌朝。
約束通り玄関まで見送りに出た琴葉に気づくと、靴を履き終わってまさに出かける寸前だった清一郎が、驚いたように目を見開く。眉間に寄せていたしわを緩めて、清一郎は琴葉に声をかけた。
「きてくれたのか」
「昨日、お約束しましたので……」
てっきり朝食を共に摂るのかと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。何時に行くのかを自分が聞いていなかったという手落ちについては、先ほど気がついた。琴葉は厨できくの支度を手伝っていたが、『旦那様がお出かけになります』と運転手が声をかけてきた為、慌てて玄関に飛んでいった次第である。きくと運転手は顔馴染みらしい。『清一郎様の事なので時間を伝えていないだろうと思って』との事で、わざわざ勝手口から顔を出してくれたようだ。ちなみにきくは手が離せない頃合いになってしまい、玄関には琴葉だけが向かうことになった。
見送って欲しいといわれつつ、時間を確認しなかった自分も自分だが、本当に見送りに来ると思ってもいなさそうだった様子の清一郎に疑問が湧く。その問いを見越してか、清一郎は軽く笑いを漏らした。
「宿舎生活の方が長いから、家からの出勤の仕方を忘れていた。すまない。食事はいらないと伝えるべきだったな」
彼女に叱られる、と呟いて肩を落としたのは、きっときくのことだろう。ぷりぷりしそうな彼女の姿なら、琴葉も容易に想像できる。
「明日からは、お出かけの時間を確認いたします。今日はこちらにお戻りの予定ですか?」
「ああ。夕飯までには帰るようにするから、共に食べよう。日中は、きみの好きに過ごすといい。買い出しが必要なら、きくを連れて行け。それから、きみに渡した札は肌身離さず持つように」
琴葉は頷いた。
「では、行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
清一郎は満足そうに微笑みを浮かべて、玄関を出ていった。
人の帰りを待つ言葉を伝えることが、こんなにも心を浮き立たせるものだったのだ、と、琴葉はすっかり忘れていた感覚を呼び起こす。同じ家に帰ってくる待ち人――家族を亡くしてから、もう長かったから。
琴葉は厨へもう一度足を向けた。きくたちと
じゃり、と下駄が土を踏み、琴葉は久方ぶりの大地の感触を確かめた。
空を見上げれば、雲ひとつない青。
こんなに青かっただろうか、と考えて、季節がほんの少し移ろった事を知る。
風が心地よい。屋敷の植え込みの青葉は目に眩しく、瑞々しさを湛えている。
琴葉は自分の着物を見下ろした。実家で着ていた着物はほとんど持ち出せずに燃えた為、今着ているものはきくのお下がりの、季節を問わない市松模様柄のものだった。
外出したい、と告げたところ、本当はもっと季節に沿った豪奢な着物を渡されたのだが、あまりに立派すぎて気後れしてしまった。余程心許ない顔をしていたのか、きくが渋々彼女の普段着を貸してくれた為、飛びついた次第である。
それでも、今まで着ていたものに比べれば十分に質の良いものだ。
筆ノ森神社にいたころは、新しいものを仕立てることはなく、いつも母が残した着物か、自分のものの丈を直して擦り切れるまで着ていた。だが、人の着物を眺めるのは好きだった。着物の意匠や模様には、札の紋様の意味と通じるものが多く使われていたりする。
季節が変われば、街を歩く人々の装いも変わる。自分が着るのは烏滸がましいと思うが、他人の装いを見るのもまた、自分にとっての仕事と言えた。
今日はどんな気づきに出会えるだろうか。
札のことを考えていると、ふふ、と横で笑う声がして、琴葉ははたと隣を見た。
きくが、口元をそっと押さえて笑っている。
「何か、ありましたでしょうか……」
「いいえ、いいえ。琴葉様があまりに優しいお顔で微笑むものですから、私もつい嬉しくなったのですよ。この屋敷に来てからというもの、いつも難しいお顔をされていましたから」
言われて、琴葉は思わず頬に手をやった。そんなつもりはなかったが、気付かぬうちに表情が緩んでいたらしい。
「すみません、私、気が緩んでいたようで……」
「何を仰います。きくは嬉しいのですよ。これからもどんどん、気持ちを表にお出しになればよいと思います。琴葉様の花が綻ぶような笑顔は、見る者を幸せにしますからね」
きくの言葉の意味はよくわからなかったが、咎められた訳ではないようだ。
琴葉はもう一度頬に手を当てて、よし、と小さく気合を入れた。
「いやはや、よく来てくれたね。もう体はいいのかい?」
「おかげさまで……」
訪れたのは、墨島印刷の
今日は店先で回復の挨拶だけ、と思っていたのだが、正に「どうしても聞いてほしい話がある」と懇願されて応接室に通された。きくは別の部屋で待機してくれている。予定外のことに付き合わせて申し訳ないと思う。
なお、娘の文子は女学校に行っている時間だったので、琴葉は少し胸を撫で下ろした。もしも彼女がいたら、何故急に結婚したのかという話や、火事の夜の時のことなどを根掘り葉掘り聞かれただろう。今の琴葉には、詳細について語るだけの元気も語彙もない。
正はこの五日間の状況を簡潔に説明してくれた。
墨島印刷の仕事は、雪宮家と琴葉の婚約のお陰もあって以前と変わらずきちんと回っているらしい。弓弦はあれから、不気味なほど静かにしているそうだ。琴葉をきちんと諦めてくれたのか、ただ単にほとぼりが冷めるのを待っているだけなのか。このまま何もなければいい、と琴葉は切に思う。
では、正がどうしても聞いてほしい話とは何なのか。
「それで、お話というのは……」
琴葉は着慣れない着物の襟元を少し直して、何とも言えない居心地の悪さを逃がそうとした。
「ああ、すまない。そう身を硬くしないでくれ。聞きたいのは、札の話なんだが――君は、『人に取り憑いた怪異を払う札』というのを、知っているかい」
「人に取り憑いた怪異を、払う札?」
「ここ数日で、取引先からそんな質問をされることが急に増えてね。もちろん、君が専門にしているのは、『人に取り憑く前の怪異を払う札』だということはよく知っているんだが……君なら何か、知っていることがあるんじゃないかと思って」
「……さあ。存じ上げません。もし本当にそのようなものがあるのなら、お作りになった方は帝から叙勲されるくらいの名誉を受けて然るべきと思います」
それが出来ないから、術士が重宝され、退魔科が創設された。
怪異に襲われれば、大抵の者は即死し、運良く生き残っても言葉を失い廃人になる。取り憑かれた怪異を祓って、人の体から追い出すことができる札を作れたのなら、瞬く間に国中から騒がれる有名人だ。
「最も、それが『禁術』と呼ばれるような、何か重大な対価を必要とする札である場合は、仮に開発されたのだとしても、秘匿されたのかもしれませんが」
琴葉は正から視線を外した。左の手のひらで右の二の腕あたりをそっと抑える琴葉を、正がじっと見つめていることには、気が付かなかった。
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