呪いと言祝ぎ

「ところで」


 清一郎が琴葉の目をちらりと見る。どことなく言い出しにくそうな雰囲気に、琴葉は首を傾げた。


「何か、ございましたか?」

「そろそろ、出仕しろと方々が煩くなってきた。家の方がよっぽど余計な仕事も舞い込まずに書類が捗るなんて、初めて知ったんだがな」


 八重たちによると、清一郎はもともと、ほぼ毎晩泊まり込みで退魔科の仕事をしていたという。今回、五日間も家にいたのは、どう考えても琴葉との婚姻にまつわる煩雑な手続きの為だ。その煩雑なものの中には、家付き合いも含まれる。本来は妻こそ、その責務を共に全うしなければならないはずだ。けれど、琴葉は名ばかりの妻であり、まだその役を果たすには到底及ばない。


「夜廻りの当番も再開する。帰らない日もあるから、夜は先に寝ていてくれ。何か急を要する連絡が必要な時は、きくに言えば取り次いでくれるだろう。彼女は私と交信できる簡単な札を持っている。それから、先日火事の日に渡したあの札は、今後もきみが肌身離さず持っていて欲しい。お守り代わりにしていてくれ」


 清一郎の言葉に、こくりと頷きを返す。この屋敷から出ないだろう自分に、急を要する連絡が必要になるとも思えないが、対処法を知っておいて損はない。

 彼から渡された、清一郎が助けに来てくれた時に握りしめていたあの札は、今も着物の合わせに忍ばせている。あの時あまりに強く掴んだので少々折れてしまったが、これは琴葉にとって心の支えだ。


「主だった家には報告が済んだはずだが……基本的に来客は出直してもらってくれ。万が一、彼らに何か言われる事があっても耳を貸すな。私が、きみに、求婚した。それが事実だ」


 いいな、と念を押され、今度はおずおずと頷いた。

 今日ここで言い争っても、琴葉に勝ち目はない。ただ今後も定期的に間違いは言葉で訂正していかないと、術士の言霊は次第に事実として定着してしまう。それは避けなければ、と琴葉は思った。


「弓弦は先日の訪問で多少堪えただろうから、しばらくは大人しくしていて欲しいところだな。あとはきみにとっての気掛かりと言えば……白藤家か。私は火事の前に、当主と次期当主の二人に対面しているが。きみは、あの日以降全く会っていないからな」


 気掛かり、というほどの事でもないが、確かにこの五日間で、白藤家からの使いが誰も来なかった事は少々気になっていた。


 父亡き後、琴葉の行末は全て白藤家が決めてきた。

 弓弦家の縁談の一件以降、その干渉が急に消えた事は、どこか不安にも感じられる。あれだけ頻繁に顔を出していた涼夜でさえ、縁談以降ぱったりと顔を合わせていない。


「白藤家は……私のことなど、歯牙にも掛けていないと

思いますが。今までのことを考えると、奇妙に感じているのは確かです」


 雪宮家に嫁いだ琴葉とは、縁を切ったつもりだろうか。それにしては、清一郎が来客たちにわざわざ白藤家の後ろ盾をちらつかせるのも不自然な話である。琴葉を「そのへんの札屋の娘」ではなく、「婚姻に際して白藤家からの正式な了承が必要な、由緒正しき血を引く秘された令嬢」という印象付けで話の筋書きを作るには、白藤家も他家からの追及を免れないはず。だとすればやはり、その不便を被ってでも、かの家が弓弦より雪宮家に利点を見出したということだろうか。

 何にせよ、白藤が琴葉に求めていたのは、最適な場所で使い捨てる為に温存していた手駒という役割だということだ。


「あの家に戻りたいと、きみが思うことはないのか?」


 清一郎の問いに、琴葉はびっくりして顔を上げる。


「私が、白藤の家に、ですか?」

「遠縁とはいえ、親戚だろう」


 清一郎の言葉は歯切れが悪い。琴葉は真意が掴めずに、目をぱちぱちと瞬かせた。


「私が白藤家に『親戚』を感じたことは、あまりありません。本家の方々と顔を合わせるようになったのも、父が亡くなってからのことですし……次期当主になる涼夜様は、自分のことを兄と思って頼れ、と仰ってくださいましたが、兄と呼ぶには……あまりにも遠すぎるお方です」


 父を亡くした直後に、初めて涼夜に出会った時は、憧れに近いものを抱いたことはあった。淡い初恋だったと言われれば、そうかもしれない。美しく微笑みかける彼は誰よりも優しくて、この人の傍なら寂しさの全てが埋まるような気がしていた。


 けれど、それも束の間の夢だった。



『涼夜様の嫁は――家の令嬢と決まったのだろう。卜占の結果は覆らない。あんな痩せぎすの娘を拾うなど、彼は何を考えている。しかも筆村の娘とは、また厄介な』

『まあまあ、あの歳で、しかも女ながら、札作りは一級品の腕だと言うぞ。誰かに奪われるよりも、こちらの手駒にしておけば、利益はあっても損になることはあるまいて。大きくなれば、他の五藤宮家との縁繋ぎにも価値が生まれるかもしれん。そう思えば、涼夜様の先見の明とも言えるではないか』



 そんな大人たちの会話を聞けば、齢十三と言えども己の立場は自然と弁える。

 あれから六年。琴葉は白藤の物言わぬ駒としてあり続けることを自らに課した。目立たないように息を潜めていれば、それ以上に誰からも干渉されることはなかった。


 涼夜は彼自身が得意とする卜占通り、良家の娘と結婚した。見目麗しいその妻との間に、夏頃には待望の嫡男が生まれる、と専らの噂だ。白藤家は安泰であると皆が安堵するその陰で、琴葉は静かに自分の命が朽ちるのを待つだけだった。

 その運命を大きく変えたのは、目の前に座る雪宮清一郎という人物だ。


「私は――形だけとはいえ、もう清一郎様の妻、にございます。白藤の家に戻りたいと、願うことはありません」


 妻、という単語を口にするのは勇気が入った。これはあくまでも、仮初の契約だ。けれど、言葉にするのは気恥ずかしくて声が小さくなってしまう。

 清一郎は琴葉の言葉に、何か思うところがあったようだ。ぐっと膝の上でつくった拳を握り込むと、ひとこと「そうか」と相槌を打った。



 清一郎が琴葉の右手を取り、包むように握りしめる。自分の指先が熱を持つのを、自覚する。


「きみは必ず守るから。きみの、大切なものも」


 あの火事の中でも、同じ言葉を聞いた。

 けれど清一郎が、どうしてそこまで自分を思ってくれるのかは、まだ分からないままだ。


 この屋敷に来た翌日、清一郎には「どうしてそこまでしてくれるのか」と一度尋ねた。けれど彼は微笑みを浮かべて、「私がそうしたいだけだから」と言った。それ以上踏み込ませてくれる気配もなく、琴葉は引き下がるしかなかった。


 結婚のことも、火事の翌日に少し、話題に登ったきりだ。雪宮家の人々は、琴葉に対して花嫁の心得や作法など、何も求めない。


 それなのに自分は、この指先が持つ温度に、違う意味が宿ればいいのにと、甘やかな願いを持ち始めてしまっている。


「私は――清一郎さまのお役に、立っているのでしょうか」


 つい、そんな言葉が口から溢れて、琴葉は清一郎に捕まっていない左手で慌てて口を覆った。


「申し訳ございません、差し出がましいことを。お世話になっている分際で、お役に立つなど」

「きみはそればかりだな」


 清一郎が琴葉の指をきゅっと強く握った。


「昔、誰かに言われたことがある? 『人の役に立て』と」

「……それは、えっと……」


 あまり考えたことはなかった。けれどいつも自分はそれを気にしていて、人の顔色を窺ってしまうことは事実だ。


「そう、いえば、父の口癖、だったかも知れません。『人のお役に立つ人になりなさい』と、よく言われました」

「とてもいい言葉だ。けれど、今のきみにはそれが『呪い』になっているように思う」

「呪、い……?」


 不穏な言葉の響きに、ひゅっと心臓の奥が冷える気がした。


「ひとは『大切な人の言葉』を大事にしすぎて、時に重く受け止めすぎることがある。足枷のように、自分で重荷にしてしまう」


 清一郎は少しだけ、痛みを堪えるような顔をした。しかし一瞬でその表情を消すと、もとの柔和な微笑みを浮かべて言葉を続けた。


「きみにとって父上は、大切な家族であると同時に、偉大な師でもある。思い出の言葉は、これからもきみが人生の支えにしていく信念になるだろう。けれど、その言葉に縛られて、きみの気持ちが曇ってしまうのはよくない。『どうせ役に立たない、けれども頑張らなければ』という立ち位置から物事を眺めていたら、いつまでもきみの望む場所へは行けない。……私の言っている意味が、伝わるだろうか」

「――つまり、人のためと思うのを止める、と……」

「いや、そうではない」


 そうではないよ、ともう一度、噛み締めるように清一郎が言った。


「息苦しいほどその言葉に執着しているようなら、手放した方がいい。その言葉のおかげで自分が真っ直ぐ立っていられると思うときは、拠り所にしたらいい。言霊を『呪い』にするか、『言祝ことほぎ』にするかは、自分次第だ。少なくとも私は、そう思うことにしている」

「呪いか、言祝ぎか……」


 考え込んでしまった琴葉に、清一郎は「分からなければいい」と笑った。


「きみが妻としての役割に悩むなら、そうだな。私が出かけるときには、できるだけ見送りに出てくれるか」

「お見送り、ですか」

「ああ。我々にとって『必ず家に帰る』と誓いを立てることは、とても大事な意味を持つから」


 琴葉は曖昧に頷いた。あまりにも簡単すぎると思ったが、彼が望む事ならばまずはそれを一生懸命遂行しようと決めた。

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