悪魔に乗るか

 人力車の往来が激しい道を、正と琴葉は無言で歩いた。

 街の喧騒が、別世界の音のように聞こえる。


「琴葉さん、なんとかする。私がなんとかするから……君は絶対に、筆ノ森の技術をあんな悪魔に売り渡すようなことだけは、考えてはいけないよ」

「ご当主様」


 正の顔は青白い。なんとか、と言っても、琴葉にもこの結婚を回避する案が思いつかない。


 彼は「他の選択肢はない」と言った。ここで突っぱねたとして、おそらく弓弦はあの手この手を使って琴葉の札屋を潰しにかかるだろう。すでに白藤家という外堀を埋められている。その執念は見掛け倒しではないと見るべきだ。


「彼は、札の原本は変わらず卸すと言ったけれども……政府とあまり折り合いのよくない彼が、墨島で印刷している退魔科の札を、そのまま売らせてくれるはずがない。おそらく何らかの圧力をかけてくるはずだ。そうなれば、うちの売上も信用も落ちる。それだけは避けなければ」

「政府に――退魔科に卸している札は、やはり私のものだったのですね」


 琴葉に取引先の詳細が伏せられていたのは、要らぬ衝突を避ける為だろう。札の原本を書き下ろしているのが若い娘と知れれば、もっと早いうちから今回のような強行手段に出たがる者が、後をたたなかったかもしれない。

 琴葉は自分の身を守るように、右手で左の二の腕をぎゅっとかき抱いた。


「弓弦家に琴葉さんの存在を知られたことが最大の過ちだった。いつも通り、私が用件を聞いて言付ければ良かったのに」

「あの時は仕方ありませんでした。特殊な札の依頼でしたから」


 前回、實を見かけたあの日のことだ。特注の札を作りたい、どうしても札屋を呼べと言われた正は、仕方なく琴葉を紹介した。弓弦の血を数滴混ぜたインクで札を書くという、琴葉にとってはたいそう悍ましい依頼だったが、術士の遺伝子の入った札は、その血筋のものにしか扱えなくなる上、使った時の威力が絶大に跳ね上がるという特性を持つ。気が進まないながらも、理論としてはよく知っているものだったため、結局は圧力に屈して書かされた。あの時、正が仮に拒否したとしても、墨島印刷は弓弦家に叩き潰されていただろう。遅かれ早かれ、またどんな手段であれ、こうなることは必然だったと琴葉は思う。


「弓弦家は、政府に恨みでもおありなのですか」

「少なくとも、面白いとは思っていないだろうね。何せ、退魔に関わる利権を根こそぎ持って行かれて公営化されたんだ。一番損をしたのが、弓弦家だと聞いている」


 正は渋面を作った。


「昔は、五藤宮家ごふじみやけや弓弦など、神力の高い家柄の人々が、怪異を退治することで人から信頼を集め、高い信奉料を取っていた。当時は札も貴重な一点もので、印刷はもちろん禁止。一般人は安価なものでさえ、手にすることはできなかった」

「それは、聞いたことがあります」


 琴葉が生まれるよりも、ずっとずっと前のことだ。怪異は常に人と共にあって、畏怖の存在だった。暗闇や夜半など、条件が揃えば誰でも目にすることはあるが、追い払う方法のわからない黒いもや。人を襲い、喰らう。それが怪異である。怪異に襲われれば、大抵の者は即死し、運良く生き残っても言葉を失い廃人になる。恐ろしい事故、あるいは病のようなものだ。


「退魔の家のほとんどは、真面目に退魔の仕事をすることで正当な報酬を受けていたけれど、怪異事件の増加とともに、段々と阿漕あこぎな商売をする家も増えてきてね。それで帝が、退魔科を創設するようにお命じになった。破魔札の印刷権も解放して、怪異からある程度の身を守る術を世に公表した。こうした経緯で創設されたのが退魔科だ。白藤をはじめ、主だった術者を輩出していた雪宮ゆきみや風宮かぜのみや雨宮あまみや紫藤しどうの全てが退魔科の創設に賛同し、一族の誰か一人が退魔科に所属することを約束した。うちのような印刷所が札を刷ってよくなったのも、帝のお陰なんだ。親父さんから習わなかったかい?」


 そういった経緯いきさつのことは、父から話してもらった記憶がない。最も、自分が聞き落としていただけかも知れないが、琴葉は首を傾げた。


「雅臣さんは、そういうごたごたやお金の話には無頓着そうだしな」


 正は琴葉の様子を見て、少しだけ笑った。


「けれど弓弦は、最後まで退魔科の仕組みに反対していた。自由競争の原理に反する、とね。退魔の仕事は退魔科だけの特権でもないから、弓弦が個別に術士を続けること自体は何も問題はない。けれど邪魔をしてくるとなれば話は別だ。うちが政府の札を印刷していることは、公表こそしていないけれど薄々勘付いていたんだろう。印刷精度にかけて、この帝都では墨島の右に出る者はいないと自負している。國が仕事を依頼するなら、うちくらいの技術がないと」


 贔屓目にも思えるが、墨島の技術は本物だ。今回は逆に、それが目をつけられるきっかけとなってしまった。


「ともかく、琴葉さんは早く家に帰って、しばらく外に出ない方がいい。筆ノ森神社には、盗まれたら困るものが山ほどあるだろう? 奴らが直接、神社を襲いに来るかもしれない。結界があるから大丈夫だとは思うが……万が一に備えないとね。私がきっと、いい方法を考えるからね。明後日には遣いをやるから。必ずだよ」


 墨島印刷にほど近い神社まで帰ってきたところで、正は琴葉の手を握ってそう言った。

 琴葉はただ、素直に頷いて、半ば放心状態のままで鳥居を潜った。


(結界、なんて……目には見えないから、分からない)


 琴葉は人気のない木の影まで行って、そっと目を閉じた。両手を合わせ、自分の工房のことを思い浮かべる。


 鎮守の森から鎮守の森へ、瞬時に飛ぶことができる。

 札を一切扱うことのできない琴葉が、唯一行える術式じみた真似である。


 これを使えることだけが、自分が筆ノ森の、筆村という名を引き継ぐものの証だ。父が札を使えない琴葉を心配して、琴葉本人を媒介に帰巣機構を構築したのは幼い頃の話だ。

 

 父以外の誰も見たことがない、琴葉の右の二の腕に、その秘密は眠っている。


 琴葉はゆっくり目を開いた。


 自分の体を包んでいた淡い光が落ち着くと、見慣れた古い社が目に飛び込んでくる。


「万が一の、備え……」


 正の言葉を反芻すると、急に背筋に寒気が走った。


 今まで一人暮らしを怖いと思ったことはない。それなのに、實の顔が脳裏にぎると、途方もない嫌悪感と恐怖が込み上げてくる。


 琴葉は小走りになって、工房兼自宅の戸を開けた。一通り仕事道具を確認して、何も無くなっていないことを確かめる。


「何の役にも、立たないかもしれないけれど……」


 琴葉は棚から一本の万年筆を選び取ると、文机の前に座った。軸を外してインクの色を確認する。文机のそばにある引き出しから紙を数枚選び取り、琴葉はそれにさらさらと文字を書き付け始める。


 縦長の札にびっしりと文字を書き終わると、今度は別の紙を取り出した。それにはガラスペンと青いインクで、魔除けの模様である鱗模様を縁取っていく。最後に、中央に毛筆で『除』の字を書いた。これで、簡易な魔除けの札の出来上がりだ。


 琴葉の作る破魔札は、主に「怪異」に対して効力を発揮する。逆に言えば、相手が怪異でない場合――たとえば、人為的で物理的な悪意には、おまじない程度の意味しか持たない。そもそも、琴葉には書いた札を発動する術がない。


 それでも、何もしないでいることは出来なかった。落ち着かなかった、というのが正しい。自分のできる最大限の努力に、縋るしかなかった。


 琴葉は大切なペン類を棚から出し、何本も収納できる特別製の木箱にしまった。今度から家を留守にする時には、多少大荷物になろうともペンと最低限のインク、紙を持ち歩こうと決めた。最悪の場合、出先から帰って来られなくなる可能性もある。手の届かないところで、自分の半身のような存在を勝手に持ち去られる事だけは許せない。


 ペンの入った木箱を、愛用の文机のそばに置く。


 それから琴葉は眠るまでの間、食事も忘れて一心不乱に札を書き続けた。家の入り口と窓、ありとあらゆる隙間にそれを貼ったり置いたりしてから、琴葉は倒れるようにして眠りについた。

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