青天の霹靂

「ちょっとそれ、流石に騙されているのではないの? 顔が良くて退魔科の軍人で、性格まで素敵って。そんな殿方、本当に存在するのかしら。素敵な方ならすぐに噂になるところでしょうけれど、冬見なんてお名前、女学校でも聞いたことがなくてよ」


 あり得ない、と鼻息を荒くするのは、目の前の椅子に腰掛けて足をぶらぶらと遊ばせている一人の乙女であった。


 彼女の名を、墨島すみしま文子ふみこ

 帝都でも指折りの大手印刷所、墨島印刷のやんごとなきご令嬢である。流行りのりぼんを髪に結った彼女は、派手なそれにも見劣りしない、華やかな顔立ちをしている。


 納品した過去の札が一覧になっている帳簿を眺めていた琴葉は、思わず手を止めて文子の言葉に「確かに」と同意しそうになった。


「で、でも、お会いする時はいつも軍服ですし……」

「軍人は軍人でも、所属が本当に退魔科かどうかまでは分からないじゃない。もしかしたら情報将校かもしれないわよ。ねえ琴葉お姉様、破魔札を作る上で、自分自身が重要な機密そのものであるということは忘れたわけではないわよね?」


 言い方は辛辣に聞こえるが、その通りの正論だ。琴葉は困って、とりあえず曖昧な笑みを浮かべておく。


 墨島印刷は、父の代からずっと世話になっている印刷所である。琴葉の書いた札の半分以上は、墨島印刷に卸している。文子とは小さい頃から、この印刷所でよく顔を合わせてきた。文子は琴葉より五つも年下ではあるが、女学校に通い、良家の子女として堂々たる振る舞いを身につけている彼女になんとなく引け目を感じる琴葉は、今でも敬語を外すことができない。文子の方はお姉様、などと呼んでくれてはいるが、琴葉にとっては「雇い主のお嬢様」のような感覚が抜けないのかもしれない。


「それに今、お姉様ったら『いつも』って言わなかったかしら? いつも軍服、って、もうそんなに逢瀬を重ねたというの!?」


 琴葉の言葉尻を捕まえて、文子がかっと目を見開く。琴葉は慌てて打ち消した。


「逢瀬って……全然、そんなものではありません。先日お見かけした時の話、です」


 本当は清一郎とはあの日以来、三日と置かずに定期的に会っている、気がする。初めて出会ったあの日から、およそひと月が経過しようとしていた。


 清一郎はだいたい午前中の早い時間、出勤前なのか巡回時間なのか、はたまた何かの道中なのかは知らないが、ぴっしりと着こなした軍服に腰に巻く札の入った革鞄、という出立ちで、よく筆ノ森神社に参拝に来るようになったのだ。鈴を鳴らす音で琴葉が気づき、神社の前でいくつか言葉を交わす。中身は天気の話とか体調を尋ねたりとか、当たり障りのない会話が殆ど。ただそれだけの関係だ。出かけようと誘われたり、ましてや琴葉の作る札について、あれ以上根掘り葉掘り詳しく聞かれたりなどはしていない。


 安眠の札はよく効いたようで、それについては大変絶賛してくれた。近頃、眠りの浅い日が続いていたのがすっかり良くなったらしい。琴葉はまた、嬉しさと気恥ずかしさの同居した、むず痒い気持ちになった。


 それから、清一郎がよく使う札については何枚か見せてもらった。祝詞の詠唱について意見を求められたが、専門外の琴葉は「どちらの言葉の方が好きか」という問いに少し答えた程度だ。


 琴葉には自分で試す術がないので、自分の書いた札が人の役に立っている、ということが直に分かってありがたかった。


 だが、それだけだ。


 「きみ」とあの柔らかな声色で呼ばれると、胸が熱くなる。彼がいつ来てくれるのかと、そわそわと待っている自分がいる。それは確かに、紛れもない事実だ。惹かれている、と形容されればそうかもしれない。けれどこれを、仮初にでも「恋」と呼ぶには、あまりに早すぎる。と、琴葉は思う。


 文子が美男子や男前な殿方の話に目がないので、興味を引くかと思って面白半分の意味で清一郎との出会いの話を聞かせたのだが、かえっていらぬ心配をさせたようだった。琴葉は選ぶ話題を間違えた、と反省した。


「文子の言う通りだ。あまり見知らぬ人に気を許すものではないよ、琴葉さん」

「ご当主様」


 声のした方を振り返ると、文子の父である墨島ただしが立っていた。白髪は混じるが、まだまだ彼の仕事ぶりは健在だ。一人娘の文子にいい相手を見つけない限りは死ねない、というのが口癖で、とにかく娘を溺愛している。昔から琴葉のことも可愛がってくれ、父亡き後も、筆ノ森神社にきちんと札屋の仕事を回してくれる優しい人だった。出来るだけ琴葉が表舞台に立たなくても良いように、程よく外部との接触を絶って琴葉の存在を隠してくれている他、本当に必要であれば、客との顔つなぎまでしてくれる。今の琴葉の親代わりのような人だ。


「お父様。今日はどちらまで行かれるの?」

弓弦ゆみづる家に呼ばれていてね。前に納品した札の話になりそうだから、直接琴葉さんを連れて行ったほうが早いと思って彼女を呼んだんだよ」

「弓弦って退魔の名家よね。確か、弓弦みのる様っていう素敵なご長男がいらっしゃったのではないかしら。退魔科に所属していない、個人の術士で、すらっとしていてとっても見目麗しいと女学校でも持ちきりなのよ。一度お会いしてみたいわ」


 やはり、文子は情報通な上、素敵な殿方の話には目がないようだった。琴葉は以前の呼び出しの折に一度だけ彼を見かけたことがあるが、確かに顔立ちは整っていた気がする。ただ直接やりとりしたことはなく、どんな人物かまでは知らない。

 目をきらきらとさせる娘に対し、父親の正は苦虫を噛み潰したような、しかし少々残念そうな、複雑な顔をしている。


「實様はご長男であられるからな……大層優秀だそうだが、文子の婿には、難しいだろうし……」

「あらやだお父様。わたくしの結婚相手に、とは一言も言っておりませんわ」


 目の保養という言葉があるでしょう、と胸を張る文子を、琴葉は少し羨ましく思う。自分の意見も要望もはっきりと口にできる文子は、琴葉にとっては眩しく映る。

 親への遠慮ない甘えの態度も、琴葉がとうに忘れたものだ。


「まあ、機会があれば、そのうちということも。な」

「楽しみにしているわ、お父様」


 ちゃっかり父親に紹介の圧をかけた文子は、お姉様もお仕事頑張ってね、と無邪気に手を振った。琴葉はぎこちない笑みを浮かべて、小さく手を振りかえした。







「どういう、事でしょうか」

「どうもこうも、そのままの意味だ」


 困惑する正と琴葉を前に、呼び出した本人である弓弦家の当代はふん、と鼻を鳴らした。その隣で、先ほどまで琴葉たちの話題に上がっていた息子――弓弦ゆみづるみのるが、驚くほど冷たい無表情をこちらに向けている。

 彼は確かに美しい顔立ちをしていた。だがその怜悧な顔は、首筋に刃物を当てられたような緊張感を琴葉に抱かせた。


「私が、弓弦家の、嫁に?」


 今しがた彼らから受けた提案を、もう一度琴葉が口にする。その違和感は喉元まで迫り上がり、強烈な吐き気を催しそうになる。


「何か不満かね。手前味噌ではあるが、うちの實は見目も悪くない、中身も優秀だ。君は満で十九になると言ったな。世間ではそう……行き遅れと言われはじめる年齢ではあるし、悪い話では全くないと思うが」


 彼らが座る豪奢な椅子は革張りで、弓弦家の財力を知らしめるものだ。当代は洋装の蝶ネクタイを指先でいじりながら、まるでこちらを品定めするかのような目でみている。そしてわざとらしく、ひとつため息をついてみせた。


「まあ、急な話に驚くのも無理はないか。実は實がね、琴葉さんのことを一目見て気に入ってしまったようでね――」

「下手な芝居はやめましょう、父さん。彼らにはきちんと現実を理解してもらい、要求を呑んでもらう方が得策です」


 實が間髪入れずに割って入った。そして優雅に立ち上がり、琴葉の方へ歩み寄る。琴葉は思わず身を引いたが、座らされた椅子から即座に立ち上がることもできず、彼の接近を許してしまった。


「この度、私を主体として、新しい札屋事業を立ち上げる事にいたしました。端的に言えば、筆ノ森の札は大変性能がいいようだから、その販売権が欲しい、という相談です。私も何度か、弓弦家用の特注の札を使わせてもらったことがあるが、本当に使い勝手が良かった。強力な怪異も一発でよく燃えましたよ」


 褒めてもらっているはずなのに、先日清一郎にもらった言葉とは決定的な何かが違う。琴葉の顔は引き攣った。


「縁談はその事業のおまけ、とでも言いましょうか。その方が多方面において、丸く収まるかと思いまして」

「販売権、と言いますと、うちが……墨島が印刷した札を、そちらで仲買したい、ということでしょうか」


 正が会話に割って入る。ちらりとそちらを一瞥した實は、いいえ、と首を横に振った。


「いや、そうではなく。欲しいのは『筆ノ森』の札技術、そのものです」

「つまり――私に札づくりを、手放せと?」


 琴葉の声は震えた。その時初めて、無表情だったみのるの口元がほんの僅かに笑みを浮かべたのを、琴葉は見た。彼がゆっくりと口を開く。


「君が私に、いや、正確には私の雇う者に、だが、札づくりを教えてくれればいいだけのことです。もちろん、相応の金は払う。それは君自身の財産にして構わない。教えた後は、君は労働する必要はなくなり、自由気ままに暮らせばいい。利害関係で結婚という形は取るが、君の尊厳は十分に守るつもりだ。悪い話ではないでしょう」


 政府に雇われる外国人の相場でどうだ、と、實がそばにあった書き付けへ価格をしたためる。目も眩むような大金が提示されたそれを見て、正が血相を変えて立ち上がった。


「ふざけるな! 彼女が、筆ノ森が血の滲むような努力で守り続けてきた札屋の仕事を、たかが金如きで譲り渡せと言うのか!」

「たかがとはなんです? どうせその技術、この娘の代で途切れることになるではありませんか。巫女も神主もいない、小さな社の筆ノ森。そうなる前に、私が買い取ろうという話をしているだけです。何も、墨島の利益を横取りしようというわけじゃない。今まで通り、原本は卸すし、それで護符でもなんでも印刷すればいい。私は純粋に、この伝統ある由緒正しき筆ノ森の札を、次世代に継承したいだけなんですよ?」


 あまりの話の飛躍に、琴葉はついていけない。


 自分が札作りをやめる?


 そのような日が来ることなど、思いもしなかった。いや、考えないようにしていた、という方が正しい。琴葉は女一人で身を立てている、世にも珍しい札屋だ。華族、白藤家の遠縁という血筋の庇護と、墨島印刷の優しさを隠れ蓑とした奇跡的な環境が、琴葉を今まで守っていたに過ぎない。


「白藤家の耳にこの話は、入っていますか?」

「ええ、もちろん。真っ先に相談しましたよ」


 ということは、琴葉はすでに、白藤にも見切りをつけられているということになる。金に目が眩んだのか、別の理由があったのかは分からないが、白藤に筆ノ森を守るだけの利点が無くなったという事だ。琴葉は目の前が真っ暗に閉ざされたのを感じた。


「せめて……あと三日、返事の猶予をもらえないだろうか」


 正が振り絞るように言った。實は鼻で笑った。


「まあ、構いませんよ。どのみち貴方達に、選択肢など残ってはいないでしょうから」


 話はそれだけです、と告げられて、琴葉たちは追い出されるように弓弦家を後にした。

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