改めて、初めまして

「冬見清一郎と言う」


 客間に座った彼はそう名乗った。

 涼夜が推測したように、彼は軍部の「退魔科」というところに所属しているらしい。昨日は夜道を巡回する当番だったのだそうだ。


 先ほどまで涼夜が座っていた座敷に、別の男が座っているのが何だか奇妙だ。ここに尋ねて来る人といえば、涼夜か、ごく稀に訪れる馴染みの印刷屋くらいのもので、落ち着かなさそうに部屋を見渡す青年の客人など、滅多にいない。


「私は筆村琴葉と申します。ここの札屋で、亡くなった先代の跡をついで破魔札を作っております。お仕事のご依頼でしょうか」


 退魔科の人であることと、先ほど琴葉に「札屋の娘か」と聞いたことから、用事があるのは仕事のことだと見当をつけていた。ところが清一郎は、「ああ、うん、まあ、仕事――といえば、仕事に関することだが」と歯切れが悪い。

 琴葉が内心首を傾げていると、清一郎は琴葉の背後を指差した。


「その文机にあるのは、硝子ガラスペンか?」

「え? ああ、はい、そうです」

「美しい逸品だな」


 清一郎が感嘆するように褒めたので、琴葉は我が事のように嬉しくなった。


「大切な、仕事道具です」

「あれで、いつも札を?」

「ものによります。あれは縁取りの模様を書くときや、気配を紛れさせるもの――そうですね、怪異から身を隠す札、などを書くときによく使います」


 硝子細工ガラスざいくのきらきらとした光の反射は、魔除けや呪い避けとしての意味を持つ。


「そうだ、昨日お渡しした札……は、まだ流石に、お使いになっていません、よね」


 使用感を確かめてみたかった、と考えていたことを思い出し、琴葉は一応尋ねてみる。案の定、彼は今その存在を思い出したように「ああ」と呟いて、腰に巻いた革鞄から手のひらに収まる小さな札を取り出した。


「これも、きみが?」

「はい。それは縁取りの模様を、あの硝子ペンで書きました。立涌たちわき文様は、蒸気や雲がゆらゆらと立ち昇っていく様子を表す、上昇気流の縁起物。札屋の世界では、安らぎの空間を護り、怪異を立ち入らせない文様として、よく護符などに使用されます。眠りを邪魔する怪異は、夢に忍び込んでくることが多いですから、この安眠の札はそれを防ぐように作ってあります。術士の方は特に、眠っている時が一番無防備です、ので……」


 少々尻すぼみになったのは、饒舌すぎたかと躊躇ったからだった。だが清一郎は気にする風もなく、静かに耳を傾けてくれている。


 札の根幹となる文字、「いのことば」は、たおやかな毛筆で記されている。札は薄紙に包まれていて、うっすらと透かしてその字と文様が見えるという様子だ。


「以前から思っていたのだが」

「はい?」


 清一郎はとんとん、とその薄紙を指した。


「この紙、剥がすと効力が落ちたりはするか? 紙一枚きりの安価な札もあったりするから、薄紙つきのものには何か意味があるのかと思ったのだが」

「ああ、それは……」


 良い質問である。久しぶりにその手の問いを投げかけられた琴葉は、ふっと頬を緩ませる。


「正直に申しまして、効力の差異は殆どございません。薄紙は見分けの用途か、包装紙としての役割しか持ちませんので。ですが」

「ですが?」

「薄紙に包まれていた方が、浪漫ロマンがありますね」


 琴葉の答えに、清一郎は一瞬ぽかんとした顔をした。


「ろ、まん」

「はい。まるで御簾越しにしかお目にかかれない殿上人との謁見のような、高貴さと神聖さがあると思うのです」


 琴葉は胸を張って大真面目に答える。すると清一郎は琴葉の顔を見て、思わずといったように噴き出した。


「……変、でしょうか。冬見様は浪漫を感じませんか」

「いや、悪い。きみの意見を否定するつもりはない。……ふふ、確かにそうだな、御簾越しに見える方とのやり取りの方が、顔を突き合わせて行う御前会議よりも断然趣がある」


 まだ笑いを噛み殺している清一郎は、よほど琴葉の回答がツボに入ったようだった。「御簾越し……」ともう一度呟いた清一郎は、琴葉の書いた安眠の札の字を、薄紙の上から指で軽くなぞった。


「私は中の文字に興味があって、使う札の薄紙を大抵剥がしてしまうんだ。今後は半分にしておこう」


 それでも半分は剥がすつもりらしい。札を扱う術者は大抵の場合、薄紙に三箇所押してある封緘印の色で用途を見分けている。朱色の封緘印は退治札、金色はさまざまな効果を付与した特殊札、黒いものは繰り返し使える護り札、というように。退魔科のような、札を日に何枚も扱うような人は、取り違えたりしないように、見た目の区別の他にも鞄の中でしまう位置を決めている、と昔父から聞いた覚えがある。


「中身に、ご興味があるのですか?」

「面白いじゃないか、札の中身。私は結構活字中毒な方で、小説はもとより、看板や説明書きまで、ついつい目で追ってしまう癖があるんだ。札には漢詩や古文、字体も行書や楷書や色々あるし、読もうと思えば意外と意味のわかるものもあって、意外な発見があるのが好きだ。私は札に合わせて、既存の詠唱を変えることもあるよ。そこまで拘る人間は、退魔科でもなかなか見ないが」


 札の用途に合わせた祝詞を唱えると、それに反応して札が効力を発揮する。大体は決まった文言があって、それをそのまま唱えれば誰でも札の力を引き出せるものだが、祝詞ひとつをとってもその道の玄人には工夫があるらしい。


「たとえばそうだな……この札なら、普通は『安眠臥福あんみんがふく』とでも唱えるところだが。立涌たちわき文様が入っていて、祈り詞が毛筆なら、『安き眠りの――』いや待て、試しの祝詞のせいで、ここで私が寝たらまずい。家で試す」

「術士の方の祝詞のりとは、『たてまつる』を頭に付けないと発動しないと、聞いたことがありますが」

「術士の言葉は、それだけで言霊になることもある。初対面の人前で寝顔を晒すわけにも行かん」


 慌てて言葉を止めた清一郎に、琴葉は思わず声を上げて笑いそうになった。術士の言霊は強力だ。琴葉としては目の前で札の効力を確かめさせてもらえるなら願ってもないが、そういうわけにもいかないようだ。


 流石に失礼だと思い直し口元を隠したが、清一郎には見つかってしまったのか、彼は少しだけ肩をすくめた。琴葉は彼の手元の札に視線をやった。


「そこまでご覧になっている方がいるなんて、思いもしませんでした。札は消耗品ですから」

「消耗品だが、私にとっては命を預ける大切な仕事道具でもある。札屋には足を向けて寝られないと常日頃思っているよ。直接話す機会はあまりなくても」


 清一郎は穏やかな微笑みを浮かべていた。琴葉の心に、じんわりと暖かいものが灯る。


「私の札は、お役に立っていますか?」

「勿論。普段使わせてもらっている怪異退治の札は、覇気があって美しい文字で、いつ見ても心洗われる。いつか原紙を書いている人に出会うことができたら、その時は必ず礼が言いたいと、そう思っていた」


 昨日も使った札だが、と清一郎が革鞄から出した札は、確かに薄紙が外されていた。そしてその札の中身に、琴葉は見覚えがあった。

 清一郎は札を眺めながら、ぽつぽつと語り出す。


「札のことに詳しい同僚によると、私たちのいつも使っている札の原本はとある神社の巫女が書いているものらしい、らしいというのは誰もその巫女に会ったことがないどころか、どこの神社のことなのか誰も知らない、そして滅多なことではその場所に辿り着くことすらできない、という。夜廻りの翌日は休みだから、いつもふらっと散歩をしてから家に帰って仮眠を取るんだ。昨晩もらったこの札と、いつも使う破魔札の文字がどうにも似ているな、と思いながら歩いていたら、偶然この神社を見つけた。吸い込まれるように入ってしまったら、札を手にしたきみがいた、というわけだ」


 この神社の所在があまり周知されていないのは、地図にも乗らない小さな祠が本殿であるということ、また、あまりの寂れ具合に鳥居上の『筆ノ森』の字が掠れ掠れになっていて殆ど読めず、地域の人間さえ神社の名前をよく知らない、というのが主な原因である。おまけに琴葉は巫女の格好をしておらず、札作りをしている工房を誰かにわざわざ見せることもない。また、揉め事を防ぐためもあって、琴葉が札を扱う術士と直接対面をする機会もほとんどない。この神社を取り巻く全ての事情をすべて混ぜた噂が、まことしやかに広まっていたとは知らなかった。


「この社の巫女は、私を産んで間も無く亡くなった、私の母が最後です。神主で札屋だった父も、六年前に他界しました。おそらくその辺りで、話が混同してしまったのでしょう」


 琴葉の話を聞いて、清一郎は「そうか」と呟いた。工房にある神棚の下に、両親の霊を祀る祖霊舎を見つけた彼は、向き直ってそっと手を合わせてくれた。

 静かに祈りを捧げてくれる彼を、琴葉は改めて綺麗だと思った。


「まさか、ずっと探していた札屋が昨日のきみだとは思いもしなかった。母君が最後、ということは、きみは巫女にはならなかったんだな。何か、理由が?」


 祈りを終えた彼が、再び琴葉の方を向く。

 琴葉はその問いに、こくりと唾を飲んだ。

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