札屋の娘

 札屋とは、怪異や妖を祓うための破魔札を作る仕事を主に請け負う者である。


 怪異、妖退治と一口に言っても、いつも同じ札を作っている訳ではない。攻撃するための投げ札、害意から身を守るための札、あるいは神社で売っているような、お守りの中身の小さな護符を作ることも、札屋の大切な仕事だ。


 人の縁を取り持ったり、開運を手助けしたりする『縁結び』の札も依頼されることがあるが、琴葉の仕事は専ら、怪異退治の札を作ることに特化している。


 退治したいものの特性に合わせて、最も効果のある文言を記したり、墨の色を変えたり筆を変えたり、調薬のような作業も併せ持つ専門職である。


 万物の怪異に効く安定的な札は、印刷所に持って行って量産され、一般にも安価に流通していくが、特別な一枚を作って欲しいという依頼も時々ある。


 その場合はだいぶ高価なものになってしまうが、そういった依頼は大体は華族からのものなので、金に糸目はつけないということがほとんどだ。


 琴葉は、先ほど一度筆置きに置いたガラスペンを手に取った。

 透明な軸のそれは、持ち手部分から軸の先にかけて捻れるような細工が施されており、太陽に透かすと光を反射して虹色の影を落とす。

 琴葉はその、きらりと光る瞬間が好きだった。日に透かしてみて、思わず頬が緩んだ。


 シンプルで美しいこのガラスペンは、琴葉が初めて自分用の「筆」として、先代の父に贈ってもらった高価なものだ。右手の戸棚を見れば、父がずっとコレクションしてきたガラスペン、万年筆、毛筆、絵筆などが、整頓されて飾られている。用途によって使い分けているが、琴葉にはまだ、使いこなせないものもある。


 札屋の仕事は、「筆鳴らし」と呼ばれる作業から始まる。はじめは意味のない波線から、次にひらがなの五十音。それから破邪退魔の祝詞、まじない、漢詩まで。何枚も何枚も、決まった文句を書き連ねて、感覚を研ぎ澄ませていくのである。


「集中、集中……」


 琴葉はひとりごちて、紙にガラスペンを滑らせた。



 急ぎの仕事がない日には、筆鳴らしをこなしたあと、部屋の掃除をしたり庭の手入れをしたりして時間を潰す。出かける時は、昨日のように馴染みの印刷所へ顔を出して、新しい需要がないか聞いて回ったりする。日用品や本を買ったりするのは、だいたい仕事の外出のついで、必要最低限のものだけだ。


 琴葉の一日は、基本的には特筆すべきこともない、平穏な時間として過ぎていく。昨日のようなことは、本当に珍しい事件なのである。


(あの軍人さん、とても綺麗な方だったわ)


 ふと昨晩のことを思い出して、琴葉は筆を一瞬止めた。


 怪異を切り裂いた、よく通る低い声も。

 吸い込まれそうな瞳も、すっと通った鼻筋も、濡れたような漆黒の髪も。


 暗がりにぽつりと立ったガス灯が、その怪しい魅力を引き立てていたのかもしれないが、一瞬だけ見えた彼の表情は、物憂げとも儚げとも見える美しさだった。思わず緊張で、琴葉が視線を逸らしてしまうほど。

 もう会うこともないだろうと思うと、琴葉は少し残念な気持ちになった。美しい顔ももちろんだが、できればお礼にと渡した、安眠の札が役に立ったかも知りたかった。


 無理に押し付けたものなので、捨てられているかもしれない。専門外ながら、気まぐれに試し書きしてみたものだった。結構うまく出来た自信があるだけに、そうなっていたらほんの少しだけ悲しい。


「いけない。きちんと集中しないと、ですね」


 筆鳴らしの鍛錬は、札屋にとっていわば基礎訓練である。気を散らしているようでは、とてもいい札は書けない。


 気合いを入れ直し、ガラスペンをまた走らせようとした、その時だった。


 カラン、コロン、カラン。

 聞こえてきた鈴の音に、琴葉ははっと顔を上げた。


「お参りの方……?」


 続いて響いてきた柏手に、琴葉は弾かれたように立ち上がる。

 琴葉の住む工房は、古びた小さなお社がぽつんとあるだけの、寂れた神社の横にある。

 近隣の人が顔を見せにきたり、気まぐれでお参りしていくことはあるが、わざわざぼろぼろの綱を握ってまで鈴を鳴らしてお参りするような人はなかなかいない。その音を聞いたのは、琴葉が物心ついてこのかた、一度あったかどうかを思い出せないほどである。物珍しい音色は彼女の心をざわつかせた。


 参拝客を悪く思いたくはないが、万が一ということもある。先ほど涼夜に気をつけろと言われたばかりだ。怪異を祓うための札を引っ掴み、琴葉は外に続く玄関の引き戸をがらりと開けた。


 木漏れ日が柔らかに降り注いでいる。そよそよと木々を揺らす風は、寒さを和らげて春の訪れを告げている。

 いつもの光景。平穏な日常そのものを映す鎮守の森のただ中に、「彼」は目を閉じて立っていた。

 社に手を合わせて、背筋をまっすぐに伸ばして。

 静寂の祈りを捧げていた彼が、気配に気づいてふとこちらに目を向ける。


『あなたは……』


 揃った二つの声は、驚きに彩られた。

 昨日出会った美しい青年が、軍服のままでそこに立っていた。


「幻覚……ではなさそうだな。きみ、昨晩の」

「は、はい、助けていただいたのは私です」


 目を何度もまたたかせて、彼が琴葉をじっと見る。何か粗相でもしただろうか。人の視線に慣れない琴葉は、あまりの落ち着かなさに視線を地面へ落とす。そこではっと、自分が右手で握りしめた札の存在を思い出した。こんなものを人に向けるなんて、失礼極まりない。慌てて後ろ手に隠そうとすると、勢いよくその手首を掴まれる。


「きみは、この社の巫女で札屋の娘か?」

「い、いえ……違います……巫女では、ありません」


 この社に巫女はいない。神主もいない。訝しげに首を傾げた青年の綺麗なかんばせが思ったよりも近くにあって、琴葉はどきりとする。


「み、巫女はこの社に長らく居りませんが、札屋をお探しでしたら、それは私のことかと」


 隠し損ねた札を見せるように、掴まれた右手をゆっくりと持ち上げた。彼は一瞬それを見つめたが、はっと我に返って手を離した。


「――悪い。勝手に腕を掴んでいた」

「いえ、大丈夫、です」


 強い力にとてもびっくりしたが、手に持った退魔の札を見咎められた訳ではなかったようだ。心を落ち着けるために深く呼吸した琴葉は、彼の瞳を見つめ返す。

 光の加減か、その瞳は宝石のような青い輝きを内包しているかのように見えた。


「あの、お話でしたら、中でお伺いいたしますが」


 青年は軽く頷いた。

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