第5話 大輪

 ひと月だけの蝕神しょくがみの花嫁として、小花こばな石室いしむろで過ごしていた。神様の花嫁と言っても、特別な役割があるわけではなく、日がな一日、蝕神の話し相手になっているだけだった。最初は蝕神の存在にも慣れず緊張しっぱなしだったが、蝕神は小花になにか無理強いをすることはなかった。それどころか蝶よ花よと丁重にもてなされた。「愛してやる」の言葉通り、小花を本当の妻のように扱った。それが嫌ではないことに小花自身も驚いた。薄暗く湿度の高い石室は快適とは言いづらかったが、黒木家の座敷牢より、はるかに居心地がよかった。時折、小花の中の魔性が騒ぐことがあったが、蝕神は怒るわけでも呆れるわけでもなく、小花の魔性を喰い鎮めてくれる。そういう存在がそばにいてくれるだけで心穏やかに過ごすことができた。


 ただ、思いのほか、蝕神は忙しいようで氏子や信者に呼ばれてはたびたび姿を消していた。獣や人間の死骸が出ればそれを喰うのも仕事の内なのだという。小花は鍾乳洞の中で、雛人形で遊んでいた。穢れや災いを移す流し雛に使われた人形だったが、蛆虫うじむしが喰らったせいか。そういう邪気のない呪具はただの道具に戻っていて、好きに使っていいとも言われた。


(あ、でも……あれは真っ黒……)


 まだ邪気を喰い切れていない呪具の中、ひときわ蛆虫が集っている人形があった。人間が恨みを込めた呪具の邪気は重い。穢れを喰うのに蛆も手こずっているように見えた。そろり、と小花は人形に近づいた。蛆虫が周りを取り囲む。人形は小さな女の子を模した日本人形だった。高価な着物を着ているのにぼろぼろで、片方の目に釘がささり、腕は折られていた。誰かの身代わり人形にされたのか、それとも持ち主の癇癪の八つ当たりを受けたのか。ひどい有様だった。


(可哀そうに……)


 小花が日本人形に触れる。ぶわりと邪気があふれて──


「ただいま、小花ちゃん。なにしてるの?」

「あ、蝕神さま、おかえりなさい」


 日本人形の黒髪を櫛で整えながら、小花は微笑んだ。

 蝕神は「こらこら」と小花の頬をつっつき、


「名前、呼んでって言ったよね? 敬語もなしにしてよ」

「あ、ご、ごめんなさい……え、と、おかえり──うつろ

「よくできました。ただいま。小花」


 蝕神しょくがみ──うつろから脱いだ着物を受け取り。小花は丁寧に畳む。ほとんど形だけの夫婦と言えど、それらしくふるまうだけで本当に情が湧くから不思議だった。


「この日本人形、まだ穢れが残っていたの。蛆さんたちが大変そうだったから、私が払っちゃった。虚のお仕事の手助けになるかなって。よ、余計なお世話だったかな?」

「……へえ、さすがだね」


 虚は目を丸くさせたあと、小花を膝の上に乗せた。櫛を受け取り、小花の枯色かれいろの髪をく。興が乗るとりぼんを結われたり、三つ編みにされたり髪の毛を玩具にされて、小花はそのたびに面映ゆかったが、虚に触れられることは嫌ではなかった。腐食した左手も、『蛆虫』が彼の在り方だと聞かされてからは愛おしくすらあり、


「蛆虫、気持ち悪くない?」

「うん、もう大丈夫。最初は怖かったけど、蛆虫自体は穢らわしいものじゃないよ。死肉を食べるから嫌悪されるだけで、蛆さんが食べてくれるから、人も獣も土に還れるんだし」


 小花は虚の顔を覗き込んだ。


「……虚もそうでしょ? 怖がられてるだけで、私にすっごく優しくしてくれる。いい神様なんだよね? 穢れを食べるから、嫌悪されちゃうかもだけど、ろ装置みたいなものっていうか。あ、機械扱いはよくないかな? ご、ごめんなさい」

「んーん、別に気にしてない。小花ちゃんの言う通り、蛆虫はそういうもんだよ」

「そ、そうだよね。むしろ、汚いものを綺麗にしてくれる存在だよね? なのに、なんで虚は祟り神って呼ばれてるのかな? ひどいね」


 そりゃあ、しょうがねえよ、と小花の髪を編みこみながら、虚は笑った。


「蛆虫が湧いて出る状況を考えてみれば分かるだろ? 死体や汚物があふれている場所。よしんぼ、寄生された人間が生きていたとしても蛆虫が湧きだした時点で終わりのようなもの。死を確定させる虫。だから、オレが触った人間はすぐ死んじゃうんだよね。そういう概念の神様っていうか。触ったら祟るっていうのはそういうことなんだけど、」


 腐食した左手が小花の頬をなぞった。うぞぞ、と蛆虫が肌を這っても小花は大きな瞳を丸くさせるだけだった。


「……ね、小花ちゃんはオレに触られるの本当に嫌じゃない?」

「うん! 嫌じゃないよ! だって私はどうせ死ぬから。全然気にしてないよ!」


 虚はその無邪気な笑顔をじっと見つめたあと、肩を揺らして笑った。


「うら若き乙女が、蛆虫が気持ち悪くないっていうのも、どうかとは思うけどね~」

「あ、そ、そうか、そうかな? そういうものかな。でも、蛆さんは私の中の魔性も、呪具の穢れも頑張って食べてくれてるし。う、虚だって、は、働き者でえらいと思うよ」

「えーめっちゃ殺し文句。小花ちゃんほんとかわいーね。オレの仕事を手伝ってくれるのは嬉しいけど、無茶しないでくれよ。小花の身体は限界なんだから、生き急がないでほしいな」


 虚は懐から菊花を取り出した。鮮やかな黄色い大輪の花を咲かせている。


「はい、可愛いお嫁さんに贈り物。供物のひとつだけど、小花ちゃんに似合うかと思ってもらってきちゃった」

「えっえええ、う、嬉しいけど、こんな大輪、似合わないよ」

「そう? 確かに〝小花〟は小さい野の花って意味もあるけど、小さな花が密集して大輪になる花って意味もあるよ。この菊のようにね。オレにはそっちの意味のほうが合ってると思うな」


 そうして、小花の髪に菊花を挿した。枯色に明るい黄色が映える。


「く、口がうまいね、虚は。あ、ありがとう」


 ぽ、と頬を染める。枯色の髪を撫でながら、虚は目を細めた。


「……ところで、〝小花〟という名は誰につけてもらったの? いろんな化生が馴染むように、黒木家は霊媒れいばいはずなんだけど。もしかして、自分でつけたの?」


 小花はふるふると首を振った。


「じ、実は、秘密の名前なんだ。……黒木家の使用人で私の面倒を見てくれた人……良平りょうへいさんという方がいてね、呼び名がないと不便だからってつけてくれたの。あの人だけがあの家の中で優しくしてくれたんだ」

「……もしかして、恋仲だったりした?」


 「まさかそんな」と小花は頬を両手で包み。「でも、いい仲だったんでしょ」と虚に言われて、こくりと頷いた。


「良平さんは、いつも私の励ましてくれたなの。呪詛の仕事のとき、使役しえきする式神に憑依されておかしくなってる私の手を握っててくれてね。良平さんも、呪詛を生業にしている黒木家が嫌でしょうがなくて。いつか二人でこの家から逃げようって──」


 ふ、と小花は目を遠くさせた。その目の中は邪気がとぐろを巻く。


「いつも約束してくれたんだ。その約束だけが支えだった。いつか、逃げよう、二人で幸せに暮らそうって。私が大人になったら。良平さんがもっとえらくなったら。黒木家のご当主が死んだら。次の呪詛が終わったら。次の年が明けたら。次の新月がきたら。次の次の次の次の」


 ぶわり、と黒煙が噴き出した。小花の目、口、耳から、どろどろと泥のように流れ落ちる。


「それまで頑張って耐えてって。我慢してって。いつも手を握ってくれてね。だからわたし、頭がおかしくなりそうになったら、〝小花〟って名前を唱え続けて自我をタモッタンダァ! 良平さんがくれた名前、〝わたし〟の名前! 名前があったから、化け物たちは〝わたし〟を乗っ取り切れなかったの! すごいでしょ! すごいよね! 〝わたし〟を守ってくれたの! 良平さんが守ってくれた! その名前だけが〝わたし〟の証明だったの! ね! 宝物でしょ、だから耐えなきゃ耐えなきゃ耐えなきゃ耐え──」

「──小花」


 虚は小花の顎を掴み、その唇を塞いだ。むぐ、と小花は目を見開いた。口からあふれる邪気を直接吸いだし、ゆっくりと嚥下する。たじろぐ小花の耳たぶを腐食した左手がなぞり、耳からあふれる邪気を蛆虫が喰らう。耳の中を小さな虫がうごめき、小花は擽ったそうに身を震わせた。最後に目から流れ落ちる邪気を丁寧に舌で舐めとると──小花はほとんど腰砕けで、うっとりとしていた。


「仮にも旦那の前で、昔の男の話? だめだろ」

「……あ、わ、私ったら、ご、ごめんなさ、」

「分かればいいんだよ。分かれば。いきなり口づけしてごめんね? 焼けちゃった」

「い、いいの。私が悪かったんだし。でも、う、虚、私を妻にするって言ったのに全然手を出してこないから、び、びっくりしちゃったあ」

「そりゃそんな身体で交わったら小花ちゃんによくないからね。オレは紳士なのさ。それとも、期待してたの? 意外にスケベ~」

「……!! も、もう、からかわないで、虚ったら!」


 ぺしぺしと小花は虚を叩いた。あはは、と乾いた笑みを浮かべながら、虚は小花の髪に刺した菊花を撫でた。邪気払いの花であり──死人に手向たむける花を。

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