緑の目のおばけ

月這山中

 




 コンコンコン。


 窓の向こう側に緑の瞳が見えた。丸く、感情がみえない、鳥のような目だ。

 眼の持ち主は全身が黒い毛皮におおわれていた。2メートル程度の、ずんぐりとした山のような体格。頭と胴体の境目が分からないし、眼と手足以外の、口や鼻といったパーツも毛に覆われてみえない。もしかしたら口も鼻も存在していないのかもしれない。ただ、正面を向いた一対の目が鈍く光っている。


 コン、コンコン。


 怪物は太い二本の足で立ち、大きな体にしては短い腕で、僕の部屋の窓を慎重に叩いている。もう片方の腕は、赤いポリタンクを下げている。


 僕は窓を開けた。深夜二時の冷たい空気が流れ込んでくる。

 怪物はただ、じっ、と僕を見つめている。


 怪物は僕が5歳の頃から、母も父も寝ているこの時間にやってきて灯油を借りていく。返してもらったことはないが、放っておくと朝になっても居座りそうでもある。

 人間ではない。かといって、図鑑に載ってるような動物でもない。よくわからない存在だが、子どもの頃から毎晩のように見ているので恐怖もマヒしている。

 僕が夜型になった原因はこいつのせいかもしれない。だが、そうやって責任をなすり付けられたら奴もいい気はしないだろう。


 僕は部屋のストーブを止めて、給油口にポンプを差し込んだ。怪物は窓から腕だけを伸ばし、空のポリタンクを僕の前に置いて、腕先に付いた4本の爪で器用に蓋を開ける。のそりと動く様はナマケモノのようだ。

 僕が灯油を移し替えている間、怪物はピクリとも動かず、ポリタンクに灯油が満たされていく様子を見ていた。


 ストーブのタンクがほとんど空になった頃、怪物がもぞりと動いた。

 これが「もういい」の合図だ。太い腕が伸びて来てポリタンクを回収し、怪物は背を向けた。


 僕はふと、そいつの後をつけてみたくなった。

 この怪物にも住処があり、ストーブがあり、灯油を燃やして暖を取っているのだろうか。想像するとシュールな光景だが。毎日のつまらない宿題よりも、今は図鑑にない怪物の生態を探るほうが建設的だろう。


 寝間着の上に通学用のコートを羽織り、靴を取りに行く間に見失っては仕方ないので、乾かしていた体育館履きを手に取る。湯冷めしてしまった身体を震わせながら、部屋の電気を消して窓から外へ出た。


 月明かりを頼りに、僕は怪物の背中を追って歩いた。




 怪物の住処はそう遠くない場所にあった。近所の土手だ。

 ごうごうと、風とも川の流れともわからない大きな音が響いている。


 怪物の住処は橋の下にあった。住処といっても、剥き出しの地面をドラム缶で囲ってあるだけだ。ストーブどころか寝床もない、ただ中心に何かが転がっている。起伏の形は、横たえられた人間のように見える。近くまで来てようやく正体が分かり、僕は、おっ、と口に出していた。


 同じクラスの子だ。後ろ手に縛られてハンカチで猿轡をされている。

 名前は……なんだったっけ、毎日会っているのに。彼女の顔は覚えている。ずっと怯えているような、頬の筋肉が引きつった表情は。

 今は実際に怯えているのだろうけれど。


 彼女を観察している間に、怪物は動いていた。

 ポリタンクを開け、怪物が僕の部屋から拝借した灯油を少女の全身にかけていった。灯油が鼻に入ってむせたのか、彼女は身体を揺らしている。だけど抵抗する気はないらしい。


 何が起こるのかわかっていたが、僕は止めようとしなかった。

 瞬きの間に彼女は炎に包まれた。


 炎は橋桁を焦がす。

 猿轡が燃えつきて、彼女がなにか叫び始めた。

 ごうごうと響く川の音に混ざってよくわからない。

 彼女は叫び続けている。もはや悲鳴に変わり、言葉にはなっていないのかもしれない。


 いつも彼女は僕に何を言っていたっけ。

 いつもは、


 休み時間、近付いて来ては、僕のノートを覗き見て、オドオドした様子で話しかけてくる。やれ「何を書いてるの」とか「あれに似ているね」とか、その声も内容も嫌で仕方がなかった。僕を無視している奴らは既に背景だと思っていたが、中途半端に干渉してくる分、その引きつった笑顔も含めて、彼女への嫌悪はずいぶん溜まっていた。


 その彼女が燃えていく。僕の感情と一緒に。

 緑の目の怪物と一緒に、僕は、燃えていく彼女を見ていた。


 炎に引き寄せられて、白い羽根が集まってくる。

 数匹の蛾が焼かれながらくるくると踊っている。火の粉に当たって、一匹、二匹、炎の中に落ちていく。

 蛾とは、こんなに綺麗だったのか。家の中に入って来ても不快としか思わなかったが。僕は黒焦げになっていく少女ではなく、舞いながら死にゆく蛾の生を慈しんでいた。


 怪物は隣にいる。顔は見えないが、奴もこの炎に見惚れているのだろう。

 あの感情の無い目が笑顔に細められている。そんな気がしていた。

 そんな気がしただけだった。


 四本の爪が背中に触れたかと思うと、まだ燃え盛る炎に、僕は叩き込まれた。







 僕は机に突っ伏し、グラスの中身を机いっぱいにぶちまけていた。

 気が付くと満三十歳の自分がいた。


 夢とは奇妙だ。


 実家にいた時代、灯油を借りに来る怪物などいなかったのに。あの頃の僕は、この時間までダラダラと起きて、ラジオを聴きながら勉強をしていただけだ。

 今では悪化している。安アパートのワンルームで、ネットラジオを聴きブログを更新して、夜明けを見てから寝る生活だ。

 頬についたアルコールがジンジンと皮膚を焼いている。もともと乗り気ではなかった記事依頼だが、気分がすっかり醒めてしまった。僕は机とキーボードを拭きながら、断片的に残った夢のストーリーラインを手繰り寄せた。


 非現実的な内容だが、炎の熱さや土手の様子に妙なリアリティを感じる夢だ。

 怪物の視線や、歩く姿の雰囲気もどこか懐かしかった。なんだったのだろうか。


 緑の目の怪物と言えば、シェイクスピアだな。嫉妬の疑獣化だ。

 深層意識の表出か。皮肉な夢だ。


 昔、自分は素晴らしい物語の作者になれるのだと、ずっと思い込んでいた。しかし現実は、完成する前に飽きてしまうし、書き上がっても自分で面白いと思えない。

 努力らしい努力も、挑戦らしい挑戦もしていないのだから、素晴らしい作品など書けるわけがない。

 そのうち人に見せるのも嫌になって全て仕舞い込むようになった。


 自分が嫌で嫌で、評価されている他の作家が羨ましくて仕方がなかった。

 適当にブログを立ち上げて、流行りものから有名どころまでなりふり構わず記事にして批評を続けて、アクセス数の上下に一喜一憂していたら、いつの間にか、掛け持ちのバイトとそれで日銭を稼ぐようになっていた。


 もはや嫉妬という感情で食っているようなものだ。


―――お気をつけなさい、緑の目の怪物に……

 彼女の放送にも引用されていたな。


 燃えていた彼女は文章が上手かった。優秀賞を貰っていた。僕は佳作だけだ。


 僕はそれでも作家になろうとしていた。しかし何度か応募に落ちて、いつの間にか何も作らなくなった。評価されている他人が羨ましくて仕方なくなった。根性無しで惨めな自分が大嫌いだった。


 優秀な彼女は有名な美術大学へ行った。なにがあったのかわからないが、心をやられてしまったらしい。自ら灯油をかぶって焼身自殺するまでの様子をネットで生放送なんてしたものだから、ニュースは瞬く間に広がった。

 彼女が同級生だと思い出したのはタイムシフトを最後まで見てからだ。僕の本名を出された。恨み言などはなかったが、ただ、


「頑張ってね」


 それだけ言って、彼女はライターの火打石を回した。



 あれが、彼女に残された最後の表現行為だったのだろうか。

 ここまで逸脱してしまっては、同情心と物珍しさで消費されるだけだろう。

 頑張ってね。一体何を頑張れと言うのか。そこまでして、僕の記憶に焼き付かせたかったのか。


 今の僕は嫉妬と虚栄を肥大化させた、

 君の遺書を、明日の飯を買う糧にしようとしていた、

 みすぼらしい怪物だというのに。



 コンコンコン。


 硬いなにかがぶつかる音がした。

 カーテンをおろした窓からだ。ごうごうと風鳴りも聞こえる。


 ここは二階だ。


 コンコンコン。


 音は止まない。強風で飛んできたものがベランダに引っかかったのか。それとも間抜けな泥棒が降りられなくなって、助けでも求めているのか。

 そんな下らないことを考えて薄笑いをしているのは、我ながら気持ち悪い。

 向こう側にいる泥棒にフェイントをかけるつもりで揺らさないようにカーテンに手を掛け、一気に開けた。



 緑の瞳が見えた。



 丸く、感情がみえない、鳥のような目だ。

 窓の向こう側で、怪物はただ、じっ、と僕を見つめている。




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