「秘密の箱」
白い光の塊が目の前にいる。表情は見えない。
「はははあ」
その存在は無い口から声を発した。
間延びした余韻が響く。面白がるような、呆れたような。大人ぶった幼い子供のようにも、子供に視線を合わせた大人のようにも聞こえる。
耳鳴りがする。
「久しいね、きみ。まだ形を保っているじゃないかあ。しかも随分と高尚に見えるよお。本当は死にたくないんじゃないかあ」
「そんなはずはない。俺は、俺の意思で死ぬ」
俺は言葉を返した。
肌に触れるのは生ぬるい空気だ。背景は遠近も上下もなく白い空間がどこまでも広がっている。
白い空間にその塊は、自ら発光しているかのように、そこに『在る』ことを主張している。
「保ちながら死にたいのかあ」
それはため息を発する。
「ようは惜しまれながら見送られたいんだねえ。寂しがり屋め」
俺とそれの間には、いつからか小さな丸テーブルがある。上には陶器のコーヒーセットが置かれていた。
「ただ独りの獣へ戻ってしまいたい。それなのに世界とのかかわりを捨てずにいる。見送りは少ない方がいい。大勢では重くて薄いから。できることなら一人だけを、最愛の人に殺されることを欲する自己中で狂ったロマンチスト」
「たとえ狂っているとしても関係ない。巻き込む数が少ないのなら、それに越したことはない」
「かず、数、かあ。今更だねえ」
輪郭のぼやけた白い二つの手が伸び、カップとティーポットを持ち上げる。薄く蒸気が立ち上っていることに、俺は気付く。
「だいたい、自死という言葉がよくないなあ」
存在は腕をわずかに揺らし、その中に入っているであろうコーヒーらしき液体を回している。
「まるで自分たちが作ったかのように言うのはやめてほしいなあ。きみたちが高等であるという主張の裏付けにしたいだけだろう」
見えない唇が、にやりと笑った気がした。
「ごめん、さっきから嘲笑ってる訳じゃないんだ。ただの痙攣だよ」
コーヒーが注がれた。黒い液体が静かに、その水面を保つ。その香りは対面する俺にも感じられた。
「摂理を曲げるため自分を騙しているだけだねえ。きみもまた役を演じきったらそれらしく死ねるだろう」
「それが正しいのか」
「いや、抗うことも生物の本懐だ。どちらも正しいよお。でも、きみは自分を定義できてないだろう」
胸の裏側を逆撫でされた気がした。
「死んでいるのか、生きているのか」
白い存在は両手にある物体を投げた。
小さな二つの陶器は放物線を描かず、水平にこちらへ向かってくる。俺は反射的に腕を出していた。
だが、手に触れる前にそれは浮きあがり、カップは黒い液体をその内側に固めたまま、色のない空へと昇っていった。蒸気は空間に張り付いたままだ。
それらは徐々に遠ざかり、ついに視界には見えなくなった。
その時、香りは錯覚だと悟った。
俺の腕は黒い影の塊だった。
「それに意味があるのかな」
俺はわずかな可能性を想像して、すぐに否定しなければと考えた。
「 」
声が出ない。
「ははははははははは」
白い存在は笑った。意味を持たない音を繰り返し。
世界の色が反転する。俺の腕が白い光の塊になる。世界は無限に続く闇だった。
視線を戻した時には、テーブルは消えていた。
目の前には黒い影の塊が浮かんでいた。
「世界から抜け出すことはできない」
声は途切れなく続いた。
「本質とは塵一つない真空の宇宙だ、そこはなにも育たないし存在しえない人の身のまま受け入れることなどできない。きみが唯一受け入れた塵は『理想的な死に方』だけ。無駄なものとわかりながら選び取った。その理想パターン以外には興味もない。潔癖症のきみは理想がわずかに穢れると破壊してしまう。憎悪がわずかに薄れたのを悟り、愛がわずかに曇ったのを悟り、きみは何度も同じことを続ける」
複雑に声は入り乱れる。俺を喝破するように、慰めるように、嘲るように。
「本当なら今回もさっさと終わらせてしまいたいけど、耐えているね。見つかりそうなのかな? しかしこうして言葉にしてみると陳腐だなあ。言葉に落としてしまえば何事もそうなる。その陳腐さに救われることもある」
「俺の心を勝手に決めるな」
「思考もずっと動かしていては疲れるよ」
子供をあやすように。
「疲れたら寝る。捨てる。忘れる。逃げる。どれもできなければ、死ぬ。救われるために」
俺は質量のない手を握りしめ、力を籠めようとする。だが感覚がない。
「それでも俺は……」
言葉にしようとして、ためらった。その存在が発した言葉に引っかかったからだ。
陳腐になるのだろうか。
だが、それは相手も同じだ。
存在は、得心したようにその身を動かした。
「そうか。そうだね。良いよ。きみはなかなか良い」
耳鳴りが大きくなる。
耐えきれなくなり頭を抱えそうになったが、今の身体にそれはない。ただの光の塊だ。目も閉じることができない。
やがて視界全体が、灰色へ、均一に、溶けていく。
「ゲームを続けようか」
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