2.飯をおごられ調査に協力する
ローディに競り落とされた俺は身体も動くようになり、今は市場から離れた商店街の一角に居る。
重力方向の感覚がなかったのは蝸牛管が凍っていたためらしく、立ち上がってからもしばらくフラフラした。
店頭でスライスされていた正体不明の切り身は巨大で、店主の体格ほどあるが希少な部位だと言う。
熟成されたそれは青黒い断面を晒していたが、高熱の油で素揚げされると白く変わる。油を切った大きな塊は、隣の角缶を満たす濃赤の液体に付けられた。
炊き上がった雑穀が平たく盛られる。産地のイシスでは挽いてパンにするが、こちらでは水を吸わせて炊くのが一般的らしい。
その上に刻んだ葉物を重ね、素揚げの切り身が乗せられた。
熱い魚介丼を受け取って俺は半野外の席に戻った。
この世界の人間には無害でも、俺には毒かも知れない。しかし芯が凍る冷えと不安から食わずにはいられなかった。
正体不明の魚介素揚げにかぶりつく。パリパリの表面。中身は歯ごたえがあるが、咀嚼するうちにとろけていく。
舌の感覚が戻っていたらその味も知れただろう。しかしこの触覚だけでも『美味い』と思えた。
次々と腹に入れ、七割ほど片付けた頃にやっと調味料の刺激を感じられた。
何十年ぶりだろうか、食事でここまでの満足感を得られたのは。最近口にし始めたケイの質素な料理も決して悪くはなかったが。
「任務遂行のため、保護の必要があると判断した。しばらく私と行動を共にしてもらう」
ローディは冷たい美貌をほとんど動かさず、瓶入りの透明なジュースを呷った。
「用心しておけ。隙をついて酒と入れ替えられる」
「任務とはなんだ。と聞いても、答えないよな?」
「ああ」
食事の代金はローディが払った。食った分は働けというわけでもないようだ。
他の席では鼻を赤くした男たちが遅い朝食を取っている。
漁業国カナロ。国民の八割が漁業と船舶業関係者で、国と同じ名を冠する宗教『カナロ教』により治められている宗教国家なのだという。
四十年前のイシス国内ではカナロ教徒を追い出す動きがあり国交も断絶しかけていたが、今は治まっている。
この世界の水棲生物は瘴気への耐性が強いとケイに教えられたことがある。自らの肝に瘴気をため込むのだと。
魔物は海の底から現れたと伝承にあり、そもそも水棲生物が魔族の末裔であると説いた本も図書館で目にした。
海洋調査には船と海の知識が必要だ。それが国交回復の条件だったらしい。
柱に渡された半透明のシートは鱗様に光る。巨大魚の皮を加工したものだと近くに座っていた漁師から教えられた。
店の壁にデザインされた文字がある。
『波とは戦わず、乗りこなせ』『待ち飽きたら勝負に出ろ』『ぶつかった後は、助け合え』『常によき男たれ』
話を聞く前は、店主の格言だと思っていた。これがカナロ教の戒律だったらしい。
「食事が終わったら付き合え」
ローディはそう言うと中身がほとんど減っていない瓶を店頭へ返しにいった。漁師たちに彼女の心がわかるはずもなく、ヒューヒューと口笛で囃し立てられる。
店を出ると赤錆色の曇天が見えた。
巨大な教会へ入った。人々が床に座って祈りを捧げている。
「ようこそ、イシスの騎士よ」
恰幅の良い女性が出迎えた。下唇の青い口紅がここでの正装らしい。
軽い挨拶をしたあとローディは相槌を打ちながら視線で何かを探しているようだった。
俺は中央天井近くの窓に目を向けた。丸から八方に広がる波打った文様が刻まれている。俺の生まれた世界であれば太陽を表すような形だ。
女性は両手をかざし、なにか祈りを捧げた。俺に対しても同じように。
「ただ妄想を増幅させるだけの入れ物だ」
教会から出たローディの第一声がそれだった。相当苛立っているらしい。
「探しものは見つかったか」
「いいや」
「俺を解放する気は?」
「ない」
俺の両腕には魔術で強化した縄が括りつけられている。抜けようと思えば抜けられるが、彼女相手には無駄なあがきだろう。
「切れ味がなまっている」
彼女の苛立ちは教会での対応だけではなかったようだ。
剣の柄を掴んだまま放そうとしない。
「あの国があるだろう、ええと」
「アテの王が死んだ」
彼女が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
「患っていたのを、周囲にも隠していたようだ。交渉どころではなかっただろうな。国が存続していようがあの店へもう一度入ることは叶わない」
なかった、とは、どういう意味だ。
ローディが新聞を投げてよこした。魔術が使えない人間のための念写された紙だ。
そこには「アテ国陥落」と、無機質な字体で書かれてあった。
地面が揺らぐような錯覚。
「あれは私の落ち度でもあった。すまない」
ローディが言う。頭を下げたりはしない。
「査問官だ。彼は仕事の際に読み取った『記憶』を全て申告する義務がある。虚偽や隠匿を許されていない」
ああ、そうか。
俺から洩れたのか。城の造りから、秘密裏の交易から、本来の軍隊規模も何もかも。
ケイは、ケイの防壁は張られなかったのか。謹慎中の彼女の立場を危うくするだけか。人情家だと思っていた彼女でも隣の国へ義理立てするほどじゃないのか。いや、それは俺が勝手に思ってるだけだ。
あの日俺とケイを連れて行くことになってたのも、最初から仕組まれていた。よく考えればわかることだった。
「何も感じないのか?」
ローディの言葉が頭に響いた。
「私に、見えないだけだろうか。彼らを助けたいと思ったのではないのか?」
思っていたはずだ。
けれども、心のどこかではこの結果を『仕方ない』と思っている。
俺には勇者だった瞬間など、一度だってなかった。
彼女に引きずられながら、俺はイシスで読んだ子供向けの勇者物語を思い出していた。
世界が魔王の軍勢に支配され、人々がその影に怯え暮らしていた頃、異界より現れた勇者は剣士、術師、僧侶を仲間に引き入れ、たった四人で各地を解放していった。
魔王の城へ攻め入る前に、負傷した術師を村へと返し、決戦の場に勇者は剣士と僧侶だけを連れて行った。
剣士、放胆なれど智慧は鋭く。
術師、聡明なれど忠義は堅く。
僧侶、厳格なれど慈愛は深く。
そして勇者は、破荒なれど機知に富む青年であった。
勇者は笑みを絶やさぬ人であったが、魔王との決戦を前に、彼はひとすじの涙を流すのを術師は見たという。
彼がなぜ涙を流したのか、その理由を知る者はいない。
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