5.解凍を試みる


 幾度か呼鈴を鳴らしたが、人の気配はない。

 辿り着いたのは小さな一軒家だった。石造りの壁を埋め尽くすように貼り紙がある。今の俺には読めない罵倒雑言の類だ。

 ハルが見た『記憶』では、この家はどんな状態だったのか。


「目を合わせてはならない」


 ハルはそれだけを俺に伝えた。


 二階の部屋に鍵はかかっていなかった。扉を開く。


 古びたベッドと机以外に何もない。ここは綺麗にされている。廊下は異臭のする食器が転がり、埃も積もっていたが。

 ベッドを覆う毛布が膨らんでいて、壁側へ細い木の根のようなものがはみ出している。近寄り目を凝らしてみるとそれは髪の毛だった。


 そこに寝ていたのは痩せ細った人間だった。

 縮れながら八方に散った髪の毛。魔術光で照らした肌は血管が透けて青白い。頬はこけて、鼻柱はクタリと潰れている。毛布の起伏は異様に薄かった。


 彼、でいいのかもわからない。あるいは、彼女かもしれない。

 これがハルのたずね人なら、後者のはずだが。

 確かに歩ける状態ではないが生きているかも不明だ。その者の目の前に手を翳してみた。

 反応はない。落ちくぼんだ二つの眼がただ天井を見つめている。


 呼吸はしていない。


「入っていい」


 俺は背後のハルへ伝えた。摺り足で慎重に歩いてくる。

 ようやくベッド脇に辿りつくと、死体を見下ろしてハルは言った。


「凍結魔術だ」


 俺はもう一度その者を見た。


「生物には効かないんじゃないのか」

「リスクは高いが自分に使うことはできる。解除の言葉を協力者に教えればいいが……」


 沈黙の後、彼が何かを途切れなく呟き始めた。


「  、  、   。  、  ……」


 手が白いローブの袖に隠れる。


「止め、ないでくれっ」


 俺は腕を掴んでいた。

 解除キーの総当たりを中断して、ハルは俺を振り解こうとした。


 捻り上げると逆手に構えたナイフが覗いた。少し前に木の実を割っていた刃は、薄暗い壁を映していた。

 彼の菱形の瞳孔は大きく開いている。視線は女を見たまま。


「理由も聞くな。僕にはそうする権利がある」

「説明したほうがいい。このままでは俺に『お前が動けない人間を殺した』という記憶が残ることになる」


 彼はこちらを振り返り、気まずい様子で視線を下ろした。

 まだ解凍はされていない。


「殺す気はない。ただ、話したいだけだ」


 ハルから顔を逸らすと、視界の端に何かが見えた。

 人が居る。

 腰の曲がった老婦人がこちらへ杖先を向けていた。


「何をしてんだい?」


 俺は予感した。


「『ハル』!」


 皺がれた声が叫んだ。


「え?」


 ハルは混乱して声を出す。

 俺ではない。咄嗟に白いローブを掴んだ。乾いた音が響く。頭上で風が鳴る。凍結された彼女の上にハルが倒れる。


 杖の先に廻旋溝が見えた。1センチほどの穴だ。


 俺は飛んだ。ハルを庇いながら、老女に向かって。

 杖を掴み、自分の脚に押し付けた。衝撃が腿に響き籠った音へ、つづいて金属がぶつかり合う音へ変わる。

 老女が濁った目を剥く。


「ハル!さっさと、起きなってんだよ!」


 仕込み杖が破裂した。


 一瞬、視界が霞む。

 狙撃手の小さな姿が揺らいだ。血が噴き出している。杖の持ち主はその破片によって、喉をえぐられていた。


 暴発の余波を食らった。きっと大したことはない。また治る。

 新しい世界へ転生したら、どうせ。


 魔道具の技術がこれだけ発達していれば、この世界にも銃があってもおかしくはない。ケイもハルも俺に教えなかった。きっと卑しい身分が持つからだろう。不浄の戦斧のように。

 声が聞こえる。


  ……もう呪えないんだよ……


 老女の声が、呪詛を吐いている。


  ……牽引師の末子でも、子供の一人くらいは……


  ……違うの『ハル』……あなたは悪くない……


  ……要らないよ……あたしらを……捨てる平和なんて……――


 今まさに『残滓』に変わろうとする呪詛。それに混ざって、青年が咽ぶ声が聞こえる。

 歪んだ視界は床に落ちた。身を屈めたハルが、俺に近付いてくる。

 よく見た光景だ。これまでもそうだった。


 瞼を閉じる。

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