俺が日常を過ごしていると脇道に異常が見える

1.俺が日常を過ごしていると脇道に異常が見える


 白いローブを被せられた人間がいる。

 暗い路地の奥、簡素な住宅の入口に縋るようにしてうずくまっている。

 顔は見えない。


「こんなところに居た」


 声のした方を見下ろすと、ケイが戻ってきていた。

 赤銅色の瞳は無邪気に笑っている。


「どこまで聞いてた?」

「聞いてない」

「わかった」


 今日も空は翠色で、天頂には二つの太陽が重なり、赤い雲が落とした天気雨は薄墨のように濁っている。

 脇道の異常には目もくれず、ケイは俺の袖を引く。






 俺は遭難していた。

 今日は荷物持ちとして来ていた。だが、街の風景を少し眺めている間にはぐれてしまった。迷子と呼ばれるのははばられる年齢なので、街中で遭難したことにする。

 二つ目の鐘が鳴ってから城下街の人通りは激しくなった。


 俺の身請け人は、髪は鮮やかな赤橙色でそれが本物の炎のように見える時もある。身長は俺の鳩尾に届く程度だ。最後に見た時は腰の曲がった老人と真っ直ぐ立って話していた。

 通行人に尋ねようとしたが郊外とは少し空気が違う。大人は俺を見上げると無言で下がり、赤ん坊は目が合っただけで泣き始めた。


「こんなところに居た」


 通行人達に非難の視線を向けられている俺を見つけて、赤銅色の瞳は無邪気に笑っていた。


「ごめんごめん、あんたが南魔書店のユーおじさんと入れ替わってたからびっくりしたわ」


 アテで彼女の眼鏡も上等に作り替えていたはずだが、度が合っていないのだろうか。


「どこまで聞いてた?」


 昨日も同じ会話をした気がする。


「聞いてない」

「わかった」


 機嫌を損ねるわけでもなく、彼女はまた最初から同じ話を繰り返した。


 彼女の本名はケインベルグ・ニュー・トリニエという。彼女は自分のミドルネームを嫌っている。成り行き的に使っているケイという呼称を気に入っているようだ。


 俺は石澄暁(イシスミアキ)と今は名乗っている。

 含みのある言い方になるのはいくつもの異世界でさまざまな綽名を付けられてきたので、本来の名がなんであったのか確信できなくなったためだ。

 覚えていた短い音を繋ぎ合わせ、手が覚えていた字を使って作ったものだ。この名は五十二界前から使っている。


 今は黒いローブを着せられている。ケイから渡されたそれは右肘の辺りが少し摺り切れていて、丈が足らず脛が少し見えている。今のところ皮膚に異常はない。

 革靴も屋敷の靴箱に仕舞われていたものだ。騎士団に没収されていたが三日前にケイが取り返してきた。

 屋敷から出る前はボサボサの髪をフードで隠そうとしたが「なんか変」とケイに指摘されて取り払われてしまった。無精ひげは整えていない。

 もう何年も、自分の顔を鏡で見ていない。


 第二水道橋を越えた。右手に見えているイシス城は権威の象徴として街の中央に鎮座している。

 北西の山脈から敷地内へ流れ込んでいる三筋の川、そのうち最も大きな川はアンクと呼ばれている。それぞれが浄水塔兼通信拠点を通り、一番太い主流は堀を流れて大通信塔の地下へと入り『瘴気』と物的な汚れをさらに除去したのち都市の生活用水となる。外壁側のレベルでも飲料水にはできるが北側の畑を忌避する者も多いとケイは嘆いていた。俺には関係ないことだが。


 屋根の隙間から国営図書館が見えた。

 二区画を占める巨大な建物、大階段は三方に広がりどの道からでも入れるようになっている。柱の間に見える黒い扉は開放され、その奥には豊かな葉を蓄える大樹のタイル画が飾られていた。多様な服装と年齢の者たちが親し気に談笑している。


 夏至祭を過ぎた今、農民を除いて正午の休みを長く取るよう法で定められている。子供たちは自由時間を使ってここへ学びに来ると聴いていた。


「あっ」


 ケイが何かに気付いた。

 大階段を降りて来ていた白い姿が止まった。長身で黒髪。今は薄い色つきの眼鏡を掛けていたが、俺も知った顔だった。


「グッスンじゃん」


 白いローブの『査問官』の青年はおそるおそる顔をこちらへ向ける。


「トリニエ。その綽名は」

「珍しいわねー、外で会うなんてー」


 階段を斜めに駆け抜け、ケイは青年を確保した。深い青の目は怯えている。

 グッスンと呼ばれた彼の本名を俺は思い出せなかった。舌を噛みそうだったのは覚えている。十日ごとに取り調べで顔を会わせてはいるが、その度にわざわざ確認するわけではない。

 俺はゆるゆると階段を上がり、バランスを崩しそうな彼からケイを引き剥がした。

 襟首を正して青年は芝居がかった咳ばらいをした。


「彼を道具扱いしてないだろうね。今のイシスで奴隷は禁じられているんだから、彼の意思を尊重しないといけない」


 彼の声は良く通る。その流暢な語り口で粘着質に詰問するのが常だった。


「うわっ出たグッスン節。それはぜひ騎士団の末端に言ってほしいわね。第一部隊なんてひどいもんよ」


 ケイはこれ以上ないほど邪悪な笑顔を浮かべていた。


「そもそも謹慎中だよね。君に罪悪感はないのか?」

「家に籠ってるだけで反省したかなんてわからないじゃない。不敬罪で石投げられるような時代じゃないんだし、むしろ健全な姿を見せるべきじゃない?」

「理屈をこねるのは構わない。でも君の余罪は……いや、いい。こんなところでする話じゃない」


 互いの声を遮り合った口論が途切れて、ケイが俺に気付いた。


「あ、元クラスメイト。こう見えて首席卒業なのよコイツ」


 『こう見えて』という感覚がわからない。少なくとも彼女よりは有能な官僚候補に見える。

 実際官僚に近い存在なのだろうが、貫禄が出る年齢には至ってない。クラスメイトということはケイと同年代なのだろうか。見えないが。


 彼が右腕を出した。

 後ろを見ると腰の曲がった老婦人が杖を突きながら階段を登って来ていた。

 道を開けて婦人を見届けた後、彼は話を続ける。


「そもそもトリニエ、あの時は君が念話でごちゃごちゃ言うから、書類を書き間違えて提出してしまったんだ。あの後全員に謝りに行って……」


 俺が来た日の話だろう。正攻法で許可が下りたとは思えなかった。当のケイは悪びれもせず、こちらを見て肩をすくめている。グッスンの詰問は早々に彼自身の愚痴に変わり始めていた。


 この国では思想規制がある。例として、恐喝、脱税、殺人、そして自殺を企てた者は、執着度と実現可能性に応じてカウンセリングあるいは拘留がおこなわれる。

 読心の術は魔術の心得さえあれば子供でも出来るためイシスで生活するほぼ全員が相互監視状態にある。俺が今何を考えているのかも、魔術のエリートだけでなく周囲の人間には筒抜けだった。今更なんとも思わないが。

 いや、一部はたしかケイが『ブロック』を施していたか。俺の思考の一部が外へと漏れ出さないための魔術がかけられている。

 それは彼女の立場が不利になる『ある記憶』であり、ついでに俺の『希死観念』にもかけられていた。


 俺は死にたいのだ。

 この世界はなかなかそれを許してくれない。


 死にたい感情は俺を構成する確固たるものなのか、今現在、頭から消えることはなかった。

 ケイが隠している記憶は思い出せない。狭く黴臭い場所が頭の偶に浮かぶが、それが何だったのか、そこで誰と会ったのか、繋がる前にぼやけていく。体が慣れれば周りに知られないまま思考できるようになると言っていたが、説明がなければまず自分の正気を疑うだろう。

 査問官は他者の記憶粒子が体に付着することもあると言っていたが、残念ながら痕跡は見当たらなかった。


「……で、なんだかんだ訂正されないままだけど、国王はいったい何を」


 詰問を聞き流していたケイが大きなあくびをしている。


「綽名、どうしよっか」

「話を流さないでくれ」


 苛立っているが、語気は一向に強くならない。もともとそうできない性質(たち)なのだろう。少し彼を気の毒に思う。


「グッスンで呼び慣れちゃったしなあ。あんたのルルなんとかいう苗字面倒だし」

「人の名前を面倒とか言わないほうがいい。ハルルワルト・グスタフだ」

「ハルルワふっ」

「いいかげんにしてくれ」


 ケイが舌を噛み、青年が自分のこめかみを抑える。


「……ハル」


 二人の視線がこちらへ向いた。

 無意識に彼の名を復唱しようとしていたらしい。口元を引き締める。

 顔を逸らすと髭がローブの襟に引っかかる。整えて来なかった身姿を少し情けなく感じた。


 口元を抑えていた手を顎に移動し、ケイがにやついた口角を見せた。


「ハルかあ。私のケイと同じね。グッスン如きに不相応だけど、呼びやすいし」


 ケイは芝居がかった動きで彼を指さす。


「今日からあなたはハル」

「嫌だよ」


 早々に却下され、ケイはがっくりと肩を落とした。

 図書館の利用者は、大階段で繰り広げられる茶番を特に気にすることもなく通り過ぎていく。


「ところで、なんでも閲覧できる査問官様がどうして公共の図書館に?」

「君ほど無節操じゃない。個人的な用事だった」


 彼の視線が遠くを見る。何かを捜しているかのようだった。


「じゃあ私は聞かない。あっ、でもアキは大丈夫よ。イシスの情勢にほとんど興味ないから。言いたくなったら黙って聞き流してくれるから」

「さよなら」


 不毛な会話はそこで終わり、彼は去っていった。

 その日、正午の鐘が鳴るまで俺たちは図書館を見て周り、ケイは数冊の本を借りて屋敷へ戻った。







 数日後。俺は一人で城下街に来ていた。


 ケイの支配下から脱したわけではない。買い出しを頼まれている。

 屋敷を彼女の案内なしに脱出することはできないし、騎士団の監視を抜けてこの国を出ることも叶わない。頼まれた店は術の効果範囲内にある。研究に没頭するため翻訳魔術は切れると言っていた。

 査問官が見ればまた小言を言われるだろう。


 彼女は念話で注文して配達させることもできる。俺を使いに出す必要はないのだが、なぜ断れなかったのだろう。しかし、簡単な単語を聞き取るだけなら彼女の翻訳がなくてもできるようになっていた。ケイから渡された地図と買い物リストのメモはこの世界の言語の上にひらがなで発音が書かれていた。

 王城へと延びる北通りは魔王を倒した転生者の名に由来している。案内板には母音が四つ連なっていた。


 橋を通る際、近くの塔から鐘を打つ音が聞こえた。五度、時を知らせる鐘が鳴った。


 市場の入口で女に声をかけられた。


「こんにちは!  な     に答えて   の  が   大丈夫?」


 聞き取るのが難しい。

 黙っていると、俺が確認していたメモを覗き込み「オニイサン?」と俺の母国語を話し始めた。この世界の歴史で多くの転生者が使っていた言語。


「オニイサン、油探してる?」


 ケイから渡されたメモにはたしかに書かれている。俺は頷いた。


「このお店ね、移動してるの。こっちヨ」


 女は地図を爪ではじくと市場と別方向を指し示した。

 俺は気にせず市場へと歩みを進めた。


「ダメダメ、お兄さん。魔術で作った油、体悪い。長生きできない」

「長生きするつもりはない」


 女は乾いた声で笑った。


 俺が歩き出すと健気に歩調を合わせ、相槌もないのに片言のセールストークを続けていたが、五分もすると踵を返して去った。他の獲物を捜すのだろう。

 心が読めなくともこの手の詐欺の手口はどの世界でも変わらない。


 色彩豊かな市場を進む。傷も虫食いもない青果物を積載したテントが連なり、それが途切れた場所に、目的の小さな食料品店があった。

 もちろん移転の貼り紙などはない。

 扉を押すとベルの澄んだ音がした。外観にそぐわず店内は清潔だった。


 奥に長い空間はショーケース兼カウンターで縦に仕切られていた。客側の壁には塩や砂糖、香草、植物油の瓶が棚に並び、その上には家畜が牧草を食む絵が掛けられている。ショーケースには親指の先ほどに成形された固形油と、薄い紙に包まれた調味料が宝飾品のように並んでいる。ガラスは光を反射しない。魔術で強化されているか、あるいはこれが結界そのものなのだろう。

 店員は中年くらいの男が一人、筋肉で盛り上がった体を窮屈そうに畳み、新聞を読んでいる。他の客の姿はない。


「………」


 買い物リストのメモに俺が視線を落とした瞬間、店員は立ち上がった。何も言わないうちにさっさと商品を包み始める。

 大瓶に入った液体油、香草と塩を混ぜた調味料、そして、乾燥して棒状になった木の皮。

 リストの内容全てが紙袋に入り、俺の前へ置かれた。太い指が伝票を千切りとって見せる。

 俺は渡されていた金を出した。薄紅色の紙幣を三枚。店員は一瞥もなくカウンターに張り付いた代金を指先で数えて、余計だった一枚を突き返す。簡易金庫を開ける音がして、しばらくすると灰色の紙幣がカウンターに叩きつけられる。


「………」


 無言のまま取引は終わった。


 おそらく俺の視覚情報から商品の名前を読み取ったのだろう。

 読心によって客が何を求めているのか解るわけだ。言葉が未熟なことも。


 釣銭を仕舞っている間に店員は元の位置へ戻り新聞を読み始めた。


 どうやら今日の俺は、買い物リストの札を下げられた飼い犬だった。

 犬の方がまだ上等だ。振りまくような愛嬌はない。


 店を出る時は、ベルの澄んだ音だけが俺を送った。






 ふと、気配を感じた。

 脇道を覗く。


 白いローブを頭から被った人間だった。

 暗い路地の奥、簡素な住宅の入口にすがるようにしてうずくまっている。顔は見えない。


 以前も同じ場所で、同じ光景を見た。

 関わらなくてもいいはずだが、俺は気が付くと脇道へと入っていた。


「どうした」


 声をかけると、ローブの隙間から顔が見えた。

 ハルルワルト・グスタフは焦点の合わない目をしばらく動かしていた。


「先生?」


 深い青の瞳は半眼に薄められている。

 彼は俺の服装と顔を何度か見比べる。


「……なんだ君か。トリニエは?」

「今日は屋敷に居る」


 査問官は深く息をつく。そして、脱力した拍子に扉へもたれかかった。

 自由なほうの腕が出て俺を制止する。

 別に動いてはいないが。


「ありがとう。大丈夫」


 覚えのない礼を言われる。

 そういえば、彼の仕事は特殊な魔術を使うものだった。表層に上らない記憶や『深層意識』を読むには、この世界の魔術師でも才能を要する。


「もろに食らってしまってね。扉だけでこれだ」


 視線を上げる。灰色のペンキで塗られた三階建ての石造り。木製の扉の枠に白いテープが渡されている。

 ドアノブとの境目にわずかだが黒い染みが見えた。


「殺人か」


 声に出してみると、彼は眼を見開いた。


「違う。もしかして、君も視えるのか?」

「いや」

「すまない。もう少し待ってくれ」


 目下を押さえて彼は昨日かけていた眼鏡を取り出す。魔術の副作用が彼の身には起こっているらしい。

 薄い色のグラスで外界と自らを遮断して、ようやく呼吸を整えた彼に、俺は質問してみた。


「護衛は?」

「いない。これでも護身の術くらいはある」

「その状態でも言えるのか。何をしていた?」

「話すことはできない」


 疑しさは深まるばかりだ。

 彼は眉間を抑えた。


「言っておくけれど、意外な真実もどんでん返しもないから関わるだけ損だよ」


 青い瞳はようやく焦点が定まった。


 『残滓』という単語が、この世界では使われてる。

 死んで残るというから、それは幽霊のような存在に近いのか。

 俺にはわからなかった。

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