5.当たり前のように伝説は受け継がれる
「騎士ローディの英雄譚はご存知でしょう」
太陽の国、アテの王は九十年前の偉人の名を口にした。
まだ若いのに憔悴しきった彼は、玉座に深く腰を下ろし、背を丸めていた。
「嫌でも知っている。この地のドラゴンより剣術を教えられ、一市民である鍛冶屋の息子が魔王に迫る力を得たと」
俺の隣に立つローディ、いや、ブローディアと名付けられた女騎士は、その問いかけに答える。それは愚問に等しい、彼女こそが英雄の末裔に当たるのだから。
「我々の歴史では違う」
彼はもう一度深くため息をつき、この国から見た英雄譚を紐解く。
「ドラゴン信仰はこの地に深く根付いております。毎年鍛冶職人たちが打ち上げた傑作を持ち寄り、その中で最も優れた品を奉納する儀式が執り行われていました。英雄になる前だったローディは栄誉を欲してはいましたが、自らの剣を山に奉納することを拒みました」
奉納。その言葉は研ぎ師も口にしていた。今も残るこの国の祭りだ。
「周りの者の説得も聞かず、ついには彼の父が強引に山へ納めたとあります。だが彼は諦めきれず一度奉納した剣を持ち出してしまった。それからこの地を嵐が襲い、まともに火も焚けない日が何日も続きました。いざとなれば国を捨てる覚悟もしたが、ドラゴンがそれを許さなかった。その吐息に燃やされ、何人もの民が命を落としました」
俺たちはドラゴンの実体もこの目で見ている。老いたドラゴンが語ったのは強欲と執念を纏う呪詛だった。強大だが慈悲深くもない異種の存在を、この国は長年恐れていた。あの体躯が空を舞えば嵐くらいは起きるだろうと、その口から炎が吹きあがる光景すらも、信じさせる力がある。
王は深く息を吸い、すこし逡巡してから続けた。
「人々はこの国が滅んでしまう前に、彼自身をドラゴンに捧げたのです」
それが正しい判断だったのか。今の俺に断ずることはできない。
「だが、ローディは生きていた」
「……仰る通りです。勇者が彼の命を救っていました」
彼女が口を開き、滞った王の語りを促す。
「国の者がそれを知ったのは魔王が死んだあと、彼が婚姻した他国の妃が訪問した際です。魔王と刺し違えるまでローディは一度もこの地へ戻っては来なかった。当たり前でしょう。当時の民は彼を見捨てた。この地のドラゴンに背いて戻ることはできない。彼もわかっていました」
その声は、目の前の女騎士に対し懺悔するようだった。
「折に触れて、私たちは思うのです。ローディの怒りがこの地を呪っているのだと。イシスからの離縁状を渡すのがローディの血を継ぐあなたであるのも、私は因果だと悟った。この国が消える運命にあるのなら、どうか希望するもの達だけはイシスで暮らせるようにしてほしい。私たちはあなた方の提案を享受しましょう」
語り終えると彼はひどく咳き込み、側近の者が水を入れた杯を渡す。
呪いに汚染された水を含み、アテの王は玉座に背を預ける。王の仕事はこれで終わった。アテは国家の解体を選んだのだ。
彼女はこの答えを持ち帰り報告すればいいだけだ。
国が滅ぶ様など珍しくもなく、それまで見て来たものに比べれば穏やかな最後だと思った。ドラゴンの吐息で蒸発することもなく、人々はここではない土地で生きていくのだから。俺の感情は冷えていた。
だが、女騎士は肯定しなかった。
「私は亡霊ではない」
その声は強かった。
ハンマーで砕かれた氷の粒のように、鋭く、俺も含めてその場にいる全ての物を貫き、眼を覚まさせた。
「私は生きている。生まれてから二十三年の間、この世に食らいつき、イシス国の騎士となった、フェルタニル・ク・ブローディアだ。血は受け継いでいても私は英雄ローディではなく、だからお前たちを勝手に許すことはできない。死者は語る口を持たない」
冷淡は相変わらずだが、その声に確かに混ざる気配がある。一度あの店で聞いているからわかる。憎悪だ。彼女は英雄の影を、押し付けられた期待を、憎悪している。
その憎悪は食傷とも言う。
彼女は剣を抜いた。護衛兵がざわめく。まさかここで乱心か。俺は彼女の肩を掴んで、したたかに肘を食らった。
その切っ先は王には向かなかった。背筋を伸ばしたまま、ただ水平に彼女は構えた。
「この剣を見よ。この国で砥いだ」
一つの欠けもない金属は弱い光を集め、輝く。
「今となっては、魔術が刃の代わりになる時代だ。紙や野菜を切るくらいなら必要ない。なにより形ある刃はすぐに鈍る。隙だらけで重いだけの鉄の塊を腰に下げる必要がどこにある、そう言う者は我が騎士団の上層部でも珍しくない。魔術は確かに便利な道具だ。だがそれは限られた者にしか使いこなせず、わずかな環境変化によって揺らぐ。そして魔術の血統は度重なる交配によって薄まりつつある。後世魔術師の大半は身一つで火を熾すことすら難しくなると、我が国の協会そのものが発表している。魔術だけに頼れば、文明は遅かれ早かれ破綻する」
おそらく事実だろう。広大な範囲の読心魔術を使うケイですら魔術の力は絶対ではないと言っている。騎士の言葉はなおも続く。
「なによりも便利な代替物があるからといって、この高度な製鉄技術が国ごと消えていいものではない」
アテ王の顔が上げられた。
「イシスにも鉄工は居る、だがこの技に届く者はイシスのどこを探しても存在しない。鉱山に囲まれ灼熱の暑さに耐え、そうしてこの地に生きた人間にこそ出来る技だからだ。信仰と共に技術を今日まで伝承してきたその力をあなた方は誇るべきだ」
この国は滅ぶべきではない。
ローディは断言した。それはイシスの王を代弁しているわけではなく、彼女自身の我儘でしかない。
我儘だが、まるでそれが物語の正しい答えだと言うかのように、彼女は迷わない。
「我々の目を盗んでカナロとの交渉ができるくらいだ。アテの王よ。あなた方はまだ食い下がれる」
アテの王はぷっと息を噴出した。
「あっ、はっはっはっは!」
それから責を切ったように笑い始めた。弱弱しさも消え、見事な高笑いだった。
憔悴していた顔は今や威厳を取り戻していた。
「やはり、隠し通せませんか。生きていた山岳の魔物すら利用しても。その通り、私達にはまだ余裕がある」
「心は読めない。船を見たのは偶然によるものだ」
「その剛運もローディに似ている」
アテの王は口角を上げ油断ならぬ表情を作った。
「おそらく、あなたはそれ以上となる器を持つ」
やがてローディは剣を収めた。
「腹を割って話し合おう。勇者ではないが、ここに転生者も居る」
その冷徹な口元が、わずかな微笑を浮かべたように見えた。
「ローディ」
そう呼ぶと彼女は振り返った。俺はすぐに訂正する。
「すまない、ブローディア」
「愛称でいい。ようやく許せるようになった」
相変わらずの無表情だったが、声がわずかに和らいでいる気がした。
いつの間にか太陽は二つとも山脈の向こうに沈んでいた。
王との話し合いは『イシスとの交易再開を望む』で決着がついた。魔物によってイシスと断絶したのは事実だが、カナロの船から情報だけは入って来ていたという。その漏洩にイシスは気付いて停止を要請したが、回数が減っただけで変わらず海路の貿易は続いていた。
イシスに蔓延するアテの評判はやはり、冷戦ムードから生まれたネガティブキャンペーンだ。アテの鉄器や工芸品は良質で今も国内の骨董物が高価で取引されているとローディは答えた。俺は魔物の存在を明らかにし、ケイに頼んでイメージを払拭してもらうよう助言した。あるいは友好国でありながら中立的な立場のカナロに協力を仰ぐのもいい。
そこまでしても疑心に満ちたイシスの王が和解を受け入れるかどうかわからない。ローディは必ず説得すると謎の自信に満ちていた。彼女のやったことは外交官の仕事に見えたが権限を渡されているのだろうか。
問題はひとつひとつ解決していくしかない。こじれてから十六年、失った信用を取り戻すのに何年かかるだろうか。
何年でも食い下がれと、ローディは繰り返し言っていた。
「お前の天邪鬼が発動したか。あの様子をケイが報告したらまた所属を変えられるぞ」
「構わない。雑用だろうと騎士は騎士だ」
跳ね橋を足鎧の底で叩きながら彼女は力強く応える。騎士団をクビになっても彼女はそう言い続けそうな気がした。
ふと彼女の腕が俺を制止し、首をわずかに傾けた。青磁色の髪が揺れる。
「ところでアマノジャクとはなんだ」
魔術で翻訳されない言葉だったらしい。ケイの辞書に相当する単語が無いのか。俺は少し考えて説明した。
「周囲の期待を裏切る奴のことだ」
彼女はしばらく逆側に首を傾けて思案していたが、やがて真っ直ぐ俺を見返して言った。
「それはお前だろう」
ケイがなにやら叫びながらこちらへ走ってくる。声が届く頃には息が切れていた。運動不足か。両膝を手で支え肩で息をしながら喋り始める。
「王様の記憶粒子から、魔物のスケッチを見たけどね。私たちが会ったのとは違うわ」
「騎士団へ連絡を」
「部隊がこっちに向かっている所だったわ。昨日の気絶者から、話を聴いたのでしょうね。幸いというか、不幸というか」
それで納得した。おそらく魔物の話を聴いた時点で、イシスの部隊へ念話が届く場所まで行って帰って来たのだろう。山の麓までなら相当な距離がある。
「にしても、大胆なことしたわね。戦争しなくていいなら、嬉しいけど」
「これより帰還する。念話が入ったら魔術協会にも要請を。囚人用の檻と密閉瓶も用意するように頼んでくれ」
「……? あー、はい、はい」
頼まれた内容をケイが理解するまで少し時間がかかったが、やがて得心したように頷く。
「小隊襲撃者の証拠を集める。魔物を発見次第、生け捕りにしてイシスへと運ぶ。生け捕りが難しければ死骸をサンプリングする。ケイベルグ、まだしばらく苦労をかける」
労われたのが意外だったのか、ケイは荒い息をしながら顔を上げた。
「帰りがけに捕縛しておくか」
ローディは他愛もないことのようにつぶやいた。
「あの洞窟をくまなく見ていくの? 魔物の気配なんて察知できないわよ」
「もう覚えた。そいつも居る」
ローディが顎で指したのは俺だ。
あの獣が放つ異臭、唸り声、そして悪寒を引き起こす独特の気配。自信はないが、もう一度味わえば間違えることはないだろう。
初めて彼女に頼られたような気がして意外だったが、続く言葉に浮足立つ間もなかった。
「一体見つけるごとに恩赦をやる」
ケイが大きく深呼吸する。
「英雄並、というか、化け物よ。あんたたち」
ようやく軽口を叩く余裕が戻ってきたらしい。
「しかしイシス王を説得なんて、もしかしたら首が飛ぶわよ」
「説得ができないようなら、次の王に替わってもらうまでだ」
どちらの首が飛ぶかだな。ローディの言葉は冗談にしても物騒すぎた。
笛と太鼓、弦、そして合いの手の声が織りなして、原始的な鼓動を繰り返している。
薄明の空をいくつもの篝火が照らす。静かだった街に人が溢れていた。どこに身を隠していたのだろうかと思うほど。人々は大通りの左右から、音楽に率いられる人々を見送っていく。
大きな金属の山車を、刺繍の施された衣装に身を包んだ男たちが歌いながら曳いている。山車の上には巫女が乗っている。魔光に照らされた天蓋は内側の装飾ひとつひとつが見え、巫女が掲げた見事な細工の冠を神々しく輝かせていた。
奉納祭の様子は昔話で語られた印象と違っていた。華やかで活力に溢れ、荘厳さよりもこの地に根差した気安さが色濃く見えた。
おそらくあの冠が年老いた龍の下へ運ばれていくのだろう。対象が滅んでも、なお伝説と共に受け継がれるだろう。それは恐怖への服従ではなくこの地の気概としての儀式だった。伝統はその意味を、時代と人々に合わせて変え生きていく。
通りに見た顔が居る。あのキュネウスの店の娘だ。談笑しているのは目元が似た二十代くらいの女性だった。研ぎ師の孫だろう。その女性は赤ん坊を抱いている。
そのすぐ近くに、引き手の男たちと同じ衣装を着た研ぎ師が立っている。俺と目が遭うと、彼は皺だらけの顔を泣きそうな笑っているように歪めて、深く頭を下げた。
「良いことをしたわね」
ケイが語り掛けたのはローディに対してだ。
「興味はない。敵か味方かどちらへ転ぶか、解らん連中にはな」
「味方になるわよ。少なくともあなた個人にとって。良いことよ」
失われた信用を、俺は自分の力で取り戻したことがない。そうする前に死んでリセットするばかりだ。だからその光景を知らない。
俺がしたアテの王への助言は遠い昔に聞いた受け売りばかりだ。それでも彼は納得し笑顔で感謝の言葉を述べてくれた。
『転生者とは、我々にない考え方をできるのですね』
彼の言葉が頭に残っている。
俺もまだしばらく死ねないのだとしたら、何百と渡った世界でも見たことがない、その光景を目にできるのだろうか。偶然に助けられてばかりだった俺が、一つの国を救う光景を。
一人の人間が変わるのは難しい。だが国は何年も続き、中の人間も変わっていく。
次の代へ託す。それは責任転嫁と言う人もいるだろう。
だが、国を維持し次代を育てること自体が今すべき仕事なのだと、王は結論付けた。
ローディがもう一度あの店へ訪れることは、よほどの偶然が助けなければできないかも知れない。
だが、いつか彼女の次の代が、この地で調理器具でも研ぎにくるかもしれない。
「ここには、腕のいい鍛冶師がいた」
俺の心などわかるはずもなく、淡泊な感想をローディの口は漏らした。
終
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