2.身を隠していた絶滅しつつある存在と出会う


 唸り声は低く洞窟内を揺らす。

 痩せた全身が光を反射しない黒い毛に覆われている。頭部には同じ色の四つの角を生やし、オオカミのように顎が突き出ているが、前脚は犬のものではなくサルに似ていて、曲がった指先には鋭い爪が見える。逆関節の後脚。それらの四肢は地面ではなく洞窟の両壁についていた。天井を這うようにそれは忍び寄って来ていた。

 獣に目は存在しなかった。顎だけの四角い頭部が、鋭い歯列を剥いて唸っている。


 騎士達はまだ剣を抜かない。敵の出方を警戒しているのだろう。俺は胡坐に組んでいた足を静かに動かす。クラウチングスタートの姿勢に近い状態で、巨大な獣から目を離さないように体を移動させる。

 これが、魔物か。

 ケイは固まっている。絶滅種の登場を心待ちにしていたはずだが、いざ目にすると参ってしまったか。


「魔法で助けてくれないのか」


 ケイが首を横に振る。一瞬置いて念話が怒涛の勢いで流れ込んできた。


  攻撃魔法なんて私は使えないわよ。規制と焚書で今の時代使えるのは史学研究者かヤバイ奴くらいだもの。見世物にしてる芸人だって動かない野菜を切ったり焼いたりするくらいだし野生の生物だって殺したことない魔術師が実戦で魔物に対抗できるわけがないじゃない廃れた技術なの私はあなたに期待していたのよアキ。


「もういい」


 獣が動く。四本の角に見えたそのうち二つが、ずるりと下がっていく。長い牙は自らの上顎を貫いていた。


 咆哮。


 それと同時に構えていた騎士たちが一斉に倒れ始めた。なんだ。考える前に俺は獣に向かって突進していた。踏み出すと足首を繋いでいた鎖が千切れた。

 不可視の攻撃は俺には利かなかったらしい。黒い鉤爪が跳ね上がる。俺はそれを掴み全身で押さえる。いや、見た目以上に力が強い。俺の身体は天井に叩きつけられる。肉が破壊される感覚。腕を離した俺を鉤爪が空中で掴みなおす。首の関節が悲鳴を上げた。

 片手に俺をぶら下げたまま獣が落ちた。鉤爪に傷つけられた岩石が、ギュウイッ、と不快な音を立てる。

 獣が大きく口を開け、甲冑に包まれた肉の山に食らいついた。金属を食い破り骨を砕く音。食いちぎった上半身を咀嚼もせず丸呑みした。長い牙は独立して動くのか、捕食中は前方へ向くらしい。ぶれる視界の中、細い胴が不気味に膨らむのが見えた。人体の形が見る間に下垂し水風船のようになる。どんな消化力をしているんだ。獣は長い牙に血を滴らせながら次の獲物を飲み込む。

 鉤爪を剥がそうと両手で掴むが、硬い皮膚で覆われた獣の前足はびくともしない。


 重なった騎士たちの隙間から刃が飛び出した。ローディは気を失っていなかったらしい。

 金属同士が擦れる音。

 また獣の咆哮。彼女は立ち上がり、その全身を露わにする。斬撃が横殴りの鉤爪を逸らす。前に見た時よりも動きが鈍って見えた。魔物は攻撃の手を緩めず、爪を繰り出しながら咥えていた恰幅の良い騎士を飲み込んだ。

 獣の腕が振られるたびに風が起こる。襲い来る鉤爪に彼女は刀身を当て続け、後ろへ下がっていく。暗闇に火花が散る。


 俺はまだ痛む全身に力を入れた。拘束された手で獣の足頸関節を掴んだまま、膝で獣の肘を捉える。硬度がわからない骨を折るのは得策ではない。動物の関節を極めるのは人間よりは難しいが、出来ないことはない。弾性の皮に逸らされぬよう確実に骨をひねる。神経を巻き込めたのか、頭に食い込んでいた鉤爪の力が緩んだ。目頭に血が流れ込んで視界が赤く染まる。

 魔物は右腕が脱臼したが、騎士にしか眼中にないらしい。彼女は袋小路に追い詰められつつある。

 俺はようやく地上に足をつけ、次の一手に移ろうとした。その時に気付いた。


 彼女の苦戦は剣が変わったためか、あるいは、初めて戦う『魔物』という相手のため。

 そう考えていたが、どうやら違っていたらしい。


「魔剣などと言うものは存在しない」


 獣の動きが止まっていた。

 ローディを飲み込もうと口を限界まで開けたまま、行き止まりの壁に腕をついていた。


「存在したとしても、道具に頼るようでは真の鍛錬はままならない」


 巨大な獣は剥製のように全身を硬直させており、顎を閉じられないままぶるぶると震えている。

 あの唸りが聞こえていない。呼吸すらも止まっている。


「培った力だけが、最後にはものをいう」


 つぶやく言葉は誰に向けられたものでもなく、まるで祝詞のようにも聞こえた。


 彼女の剣技は魅了の技であり、幻惑術だ。かつて世界を脅かした魔王を倒すために作られたという。


 ローディは、両手で構えた剣をそのまま魔物の上顎に突き刺した。確実に頭蓋を割り、両断する。勢いよく噴出した血が壁を染める。ローディは刀身を抜き巨体の横をすり抜ける。巨体が一度大きく嗚咽した。黄土色の液体がこぼれ出て、青い血と混ざりあいながら、由来者自身の肉を溶かしていく。

 魔王亡き後も今日まで生き残った魔物は、岩壁に寄りかかったまま絶命した。死骸はやがて黒い液体に変わり、床をわずかに溶かしてその場に溜まった。もがくこともできないその様に俺はどこかもの悲しさすら感じていた。


 マントの端を持ってローディは剣に付いた血をぬぐう。青い血は鎧全体を染め、兜の中まで侵入したようだ。瞼甲を上げた彼女の顔は部分的に青く染まっていた。


 彼女は眼を閉じていた。左右の肩をつなぐように指先を当てる。それは基督教の聖職者が十字を切る様子に似ていた。マントの端を掴んだまま、剣の次に顔をぬぐう。

 その頃、完全に気配を隠してたケイは何度も唾を吐き、口の中に入った血を一生懸命吐き出そうとしていた。レンズで防がれた部分以外は魔物と人間の血で紫色に染まっている。


「近くに湧き水があるわよ」

「そうか」


 ローディはやはり無感動に答えた。未知の存在との闘いの後だが、呼吸は荒れていなかった。


「さっさと行きましょう」


 ケイが眼鏡に付着した血をローブの袖でふき取ると、右レンズにひびが入っていた。彼女はため息をつく。






「魔力吸いよ。過剰吸引されると精神力も奪われるの。並の人間ならああなっても仕方ない」


 気絶したまま生き残った者は入口まで移動させておいた。彼らの回収要請はケイの念話によって行われた。しばらくは動けないだろうと、ケイは言った。元より魔力を持たない俺とローディ、そして増大な魔力を有するケイだけがあの場で意識を保っていられたようだ。魔物が使ったのと同じ作用を持つ技が存在するらしく、あの魔物は人が行使した場合の何倍もの魔力を吸い取ったと彼女は興奮気味に説明した。


 ケイは顔面を俺の服を使って粗方拭いたが、顎にまだ青い色が残っている。俺自身の怪我は治療魔法によって塞がれた。打撲裂傷と少々額の骨が削れただけで大事には至らないだろう。彼女は顔をしかめていたが。


「そこを右」

「ケイ、なぜ水があるとわかったんだ」


 俺を先頭に立たせ、彼女は騎士の一人から拝借した地図を手に迷いなく指示を出す。洞窟の内部は全体的に湿っている。溜まり水の匂いなどわからない。


「そうね、なぜかしら。でもなんとなくそう思ったのよ」

「山脈にはドラゴンが住むと聞いた」


 ローディの言葉を、ケイはハッと笑い飛ばした。


「たしかに神獣の住まう山と呼ばれてるわね。大図書館保管の逆鱗は大イカの骨でできた偽物と去年判明したけど。そりゃあ、アテの民間信仰のご神体だし大昔は存在したなんて言って本気で探している人もいるけれど、そんな質量の生物が空を飛ぶなんて命知らずにもほどがあるわ。まあ、年に一回のジョークとしては面白いんじゃないかしら」


 ドラゴン。この世界では魔物とは違った存在なのだろうか。これまでは敵としても味方としても相対したことがあった。

 ケイのドラゴン否定説は続く。魔物の噂にはあれほど心躍らせていた彼女がドラゴンに対しては手厳しい。ローディは反論もせず黙って聞いているだけだった。


「谷の形が作る気流を昔の人が見間違えた説が有力よね。もしかして、水の場所をドラゴンが教えてくれたってこと? そもそも……あっ、こっち。ここを掘って」


 彼女が指したのは一本道の途中にある壁だった。ノックしてみるが、明らかな空洞があるわけではない。


「ここでいいのか」

「うん」


 掘削機があるわけもなく、ローディの方を振り返るが大事な剣を使う気はないらしい。俺は呼吸を整え、壁に当てた指に力を込めた。

 まず一撃。

 壁は開通しなかったが、やがて洞窟を揺るがす振動が起こった。


 俺の拳によるものではない。穿った壁の反対側から徐々に近付いて来ていた。堅い岩を掘削しながら何者かがこちらへ向かってきている。

 壁から手を離し身構えた。ローディも剣を抜く。ケイは俺の背中に貼り付く。


 拳を叩き込んだ中心が向こう側から押され、ボロボロと崩れはじめた。俺は相手に隙を与えまいと手刀を突き込む。薄くなった壁を突き破り、岩よりも堅い何かにぶつかった。

 黄色く尖った円錐。象牙にも見える。


  元気な人間だ。新たな勇者か。


 頭の中に何者かの声が響いた。

 穴をふさいでいた物が離れる。その円錐に傷はついていなかった。

 横穴の先にいたのは、巨大なドラゴンだった。

 とぐろを巻いて寝そべったまま、長い爪先で岩を崩していたのだ。ドラゴンのいるその空間だけが明るい。


  入るがいい。


 またも声。振り返って見ると、ケイは両耳をふさいで座り込み、ローディは剣を収めていた。俺の幻聴ではないらしい。

 俺は横穴へ踏み入った。ローディも後に続く。足元が見えづらい。

 少し歩くと、ケイが魔術の光源を携えて追いついてきた。


 この空間だけが、スポットライトに照らされたように明るい。見上げるとせり上がった壁の間に雲が見えた。

 巨大な顔は爬虫類の特徴を備えているが、褐色に汚れた長い毛が眉と口髭を形作っている。胴体は蛇のように長く、西洋よりも東洋系の形に近い。翼をたたんだ龍は全身が黒緑色の鱗に覆われている。艶はなく、緩い呼吸も寿命の近い生物を思わせた。

 ドラゴンがこのように年老いていくのだと、俺は初めて知った。

 周りには財宝が積まれているが、宝石は埃を被り、貴金属も風化して朽ちかけていた。ドラゴンの薄く開いた目は白く濁っている。それでもなお知性を見せる穏やかな瞳だった。


 ローディはドラゴンを前にして、まるで従順な騎士のように片膝をついた。そのまま鞘に納めた剣を差し上げる。


「水を使わせていただけるだろうか」


 硬質の鱗に覆われた尾が上がり壁に突き立てられる。俺はやはり罠かと身構えたが、落ちてきたのは細かい砂だけで、少し遅れて澄んだ水が流れ出した。

 ローディが兜を脱ぎ、壁を伝う小さな滝から水を汲み始めた。


  声を知る導師、身を知る騎士、そして新たな勇者よ。

  しばしの間、休むといい。


 ケイはドラゴンの顔色を伺いながらこそこそとローディの後ろに並んだ。

 鎧が外れる。青磁色の髪が水を含み、ますます陶器で作られているように見える。ケイがローブの襟を開く。


 彼女らの洗濯を見ていても仕方がないため、俺はドラゴンの観察を続けていた。






 彼女らが水場を離れ、俺が血を落とし始めてからもドラゴンは動くことはなかった。


  今も持っておるのか。


 老いた片眼はローディの足元に向いていた。地に寝かせられた剣。彼女が家の蔵から持ち出した古い剣だ。念によって話している間、当然ながらその顎が動くことはない。

 鎧を外したローディは白い肌着を纏っていた。胸当てを磨く手を止め、彼女はドラゴンの声に応えた。


「高祖父が勇者とこの山に登った折、龍に会ったと聞いております。フェルタニル家の創始をご存知であられるか」


  身の謎を解き明かした人は、結局お前だけであった。

  我が教えに従っては。


 ローディの目が見開かれる。初めて、はっきりと彼女の情動らしきものを見た。


「……あなたが、この技を」


 ドラゴンの返答は少し、ずれていた。ローディの声をほとんど聞き取れていないのだろうか。あるいは細かいことなどどうでもいいのか。

 老いた龍の眼には若い女騎士が、かつて技を教えた男に見えているのだろうか。ある世界では気の形を見る生物もいた。巨大な神獣は彼女の存在をどう捉えているのか。


  龍とは強欲で執念深いもの。

  財宝を奪われ命を見逃された。

  その屈辱を、忘れるはずもない。


 頭に響く声は笑っていた。


  騎士よ。魔王と刺し違えたのだろう。


 亡霊に語り掛ける龍の問いに、ローディは唇を噛み、静かに頷いた。

 ドラゴンの体が初めて動いた。ゆっくりと牙を剥き、笑うように。


  それこそが我が呪いよ。

  人の時はまこと、まことに短い。

  余る力を手にすると、簡単に狂い死ぬ。

  幼子のまま塵となるがゆえに、すべてに辿り着けはせぬ。

  そして我もまた塵に迫りつつある。


 声は醜悪な呪詛を吐ききると途端に疲弊の色へ染まった。深く息を吐き、興奮した現実の呼吸も静まる。


  魔王の毒は、我々を蝕んだ。

  世界にいた同胞たちは、皆死んだ。

  龍が去り、わずかな、本当にわずかな間の、人の世が興りつつある。

  身を知る騎士よ、結局、お前の望み通りとなったな。


 鱗に覆われた顎が閉じる。


  その栄光は、太陽の国アテを守るだろう。


 ドラゴンの声はそこで終わり、また緩い呼吸を再開した。

 ローディの表情はまた鉄面皮へと戻っている。俺は疑問を投げかけた。


「お前がアテを守るとは、どういうことだ」

「高祖父の故郷はアテだ。鍛冶屋で生まれたと聞いている」


 表情を変えないまま彼女は答える。


「つまり家の英雄の故郷を滅ぼすために、お前は向かっているんだな」

「アテで高祖父が生まれたとしても私が仕えるのはイシスだ。家系を守るのも私一人。関係ない」


 彼女は立ち上がり、鎧を纏い始めた。

 皮肉になっているのに気付かされ俺は黙った。矛盾を指摘したくらいで立場まで変わりはしない。

 矛盾など承知の上で、ローディは先祖の故郷に向かっている。


 ひとときの眠りについた老ドラゴンへと、ケイがおそるおそる近付いては飛び退っている。なにがしたいのだろうか。


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