4.不吉な夢から目覚めると猶予が終わっている


 目撃から屋敷に戻るまでの記憶が抜け落ちてしまった俺を見て「記憶を『掃除』された自覚は」と騎士の一人が聞いた。レコーダーの録音記録を消すようなもので、人の記憶にそこまでの比重を置いているわけではないらしい。

 この件は犯罪者集団ギナミによる通信官襲撃として収まったらしい。


「襲撃者は、すーべーて追い払いました」


 ケイはそれだけ応え、なぜか誇らしげに俺の背中を叩いて彼らの前に押し出そうとしていた。俺がやったはずはないのだが。

 聴取を終えて屋敷を取り囲んでいた騎士は立ち去り、遠巻きに見ていた数人の民間人が集まってきた。


 彼女を心配しているのは声色でわかる。後で聞くと皆田園の労働者だった。八方に広大な田園を挟んでいるがそれも近所という感覚らしい。

 襲撃者の姿は見ていなくとも田に跡を残す禍々しい竜巻は覚えているだろう。

 立ち去る背中は、米粒ほどにしか見えないそれぞれの住居へと帰っていった。


「今日はもう疲れたわ」


 ケイはずりおちた眼鏡を直すと悪態をつき、変死体が運び出された現場をなにごともなく通り過ぎて、俺の泊まる部屋について要望を聞いてきた。

 温和な顔の老女に抱きしめられている時、ケイは困った顔で笑っていた。

 彼女という人間はよくわからない。






 ダンジョンのごとく入り組んだ屋敷内で俺は用意された寝室を見失った。

 そこを右。

 頭の中にケイの声が聞こえる。『強制念話』と呼ばれる方法らしい。


 彼女が自分の書斎に閉じこもってから、この念話で風呂桶の場所からイシスの基礎語まで教えられる。こちらの考えていることはほぼ全て彼女に聞こえているらしく、読心範囲の広さはあながち誇張でもないらしい。

 少々うるさい上に常に見られている感覚が付きまとうが、それも致し方ないだろう。屋敷の中は度重なる結界術によって時空間が常に変異し、一歩間違えれば延々と同じ通路を彷徨うか出口のない闇に放り出されることになる。悪漢が忍び込んでいつの間にか消えていることもあったという。


 俺は精神をやられたという転生者の数を思い出す。この環境が原因では。

 そんなことないわよ。多分。

 投げやりな返答が俺の意識を通る。一度俺自身の脳を通すためか、まるで自分の妄想と会話しているような錯覚を起こす。

 ……レコーダーの記録を消すようなことができるなら。この力を使って合成音声で嘘を吹き込むように、記憶を書き換えることもできるではないか。

 質問したつもりだったが、ケイは黙ったままだった。




 翌朝。

 ドアを何度もノックされ、俺は面倒ながら体を起こす。


「食事は必要ない」

「そうなの? 魔族みたいに人の感情でも食べるの?」


 ドアを開いた途端、ケイは真顔で質問した。悪意はないらしい。

 無言で首を振る。


「それでも朝だけは席を同じに」


 彼女は契約条件を追加した。


 ケイに連れてこられた食堂は広い部屋に大テーブルが一つ。壁に並ぶ窓は閉め切られているか、外の景色を映すか、屋敷内部のどこかに繋がっている。数分もすればそれも変わっていくため、部屋の光量も目まぐるしく変容する。慣れた彼女は気にすることもなく、自身で用意した料理と紅茶の入ったポットを錆びた台車で運んでいる。

 ふたつのカップに紅茶を淹れると、一方を手にケイは長いテーブルの反対側へ移動する。自身の分は少量のサラダとパン、スープだけだ。質素な食事だった。

 俺の目の前に置かれた紅茶は、冷めていくだけだった。


 食事が終わる頃にザワザワと庭に人が訪れる気配がした。食堂の窓から彼女が手を振る。昨日見た近隣の者だ。破壊された玄関の改修工事が始まるらしい。

 俺は所在なく寝室へと戻った。

 部屋の中は比較的綺麗なベッド以外は、ほぼ何もない。余計なものは置くなと俺が望んだ。壁紙は剥げれかけている。


 何もしないと決めたのだから、寝ていればいい。


 外から活気に溢れた声と作業音が聞こえる。

 窓から覗いてみた。ちょうど空間が外へと繋がったため玄関前の様子が見える。

 魔術駆動の車が資材を運び込みに来る。


 喉が渇いた。


 紅茶を飲めばよかったのに。

 ケイの念話が口を挟む。


 彼女のナビに従い、キッチンへ向かう。数人の女性が掃除をしていた。イシスの言葉であいさつされ、無言で頷く。

 水を一杯飲み終えて玄関に出る。玄関前では木を削っている。細い材木しかないが、それらを組み合わせて大きな扉にするのだろう。どれほどの時間がかかるやら知れない。

 足元に風で飛んできた木くずが落ちている。ケイから借りた靴はなめしも足らない素朴な革の靴だったが、この世界では高級品だそうだ。その爪先で払いのけた。一人の少年が気付いて何やら叫ぶ。肩には、身に合わない長さの材木を担いでいる。

 昨日ケイから教えられた記憶が確かなら、あの言葉は「すまない」だったか。


 俺は少年が引きずっている材木を奪うと、無言のまま進行方向を指さした。彼は前を先導し、材木を作業場の近くに置くよう身振りで教えた。

 引き返す彼についていく。話しかけてくる内容にわからない言葉が増える。車の材木をとりあえず下せばいいのだろうと、担げるだけ両肩に担いだ。


「すごい、力持ちだね」


 同時通訳は術式が複雑だから。

 ケイの声に、急に意味がわかった少年の声がかぶさる。


「わざわざ外から切り出してくるんだ。瘴気が魔力を増幅させるんだって、知ってた?」

「いいや」


 母国語のまま答えると、彼の目が見開かれた。そばかすが目立つ顔だ。


「言葉わかるんじゃないか」


 少年の声に合わせて、周囲の者もこちらを向く。





 遠く離れた市街地から、風に乗って鐘の音が聞こえる。

 ケイは降りてきていた。


「事前に言っておいてよ。手伝いたいなら」

「そのつもりはなかった」


 へえ、と気のない声を漏らして、ケイは追加の食事を運んでいった。キッチンを掃除をしていた女性達が用意した仕出しは大皿に山と盛られ、それを十数人の男たちが平らげていく。市場に乗らない収穫物を持ち寄っているらしい。

 本当に、手伝うつもりはなかった。呪いにも似た染み付いた体質だ。いつの間にか選んでいる。


「おじさんさ、一回死んでるんだろ」

「おいおい馬鹿ヒルン、失礼だろ」

「それを言うなら転生したお兄さんって言わねえとな」


 大人たちに笑われながらも、隣に座っている少年は目を輝かせている。ヒルンと呼ばれた彼はそばかすが目立つ顔で、ナチュラルな金色の短髪が跳ねている。前歯が少し出ているがそこまで器量は悪くない。齢が上がれば気にならなくなるだろう。彼の手にある梨に似た果物はほとんど齧られている。


「異世界ってやっぱりさ、魔界みたいな怖い場所なのかな」

「……世界によるな」

「すげえなあ! いくつ行ったことあるんだよ!」


 ヒルンの唾が顔に飛ぶ。


「トリニエちゃんは良い子だろう」


 快活に笑っていた男が話しかけてきた。壮年を過ぎているだろうが小麦色の肌艶はよく、体も衰えている様子はない。

 トリニエとはケイの名だ。下の名が個人名になる文明は比較的少ないが、そこまで珍しいわけではなかった。


「お父さんの跡を継いで、十の頃から勇者様たちの面倒を見てんだ」


 勇者。

 男はたしかにそう言った。


「良い子かどうかはわからない」


 俺の答えを聞いて笑う。


「疑り深いねえ。疑り深いくらいがちょうどいいさ」


 男はそう言って、熱い紅茶をあおる。


 管理職と商人は読心魔術が使えなければならないが、農民は必ずしもその才がある必要はないらしい。

 市街の女の間では皺を気にして、念話だけで日常を過ごすのが流行っているらしい。

 畑に囲まれて行う声の会話は、彼らにとって何よりも心を和ませる時間だと。

 秘められた貴人の血の妄想を吹き込まれたり「可能性は無限だが時間は有限」と煽るような虚像はこの世界にない。血筋のために職業の幅が変わるのはこの世界では当然の摂理だ。その諦めが俺には健康的に見える。

 彼らが開示する情報を俺はただ黙って聞いていた。


 コップから口を離した男がぼそりと言った。


「       が無ければねえ」


 一瞬、耳をふさがれたように。声が消えた。

 なんだ。


「ああ、すまん。聞かせたくないだろうな」


 発言した若い男がはっと顔を上げてそう答えた。


「トリニエちゃんが通訳からはじいたんだ。こんな場でお父さんのこと、とやかく言われたくないんだろ」


 検閲が行われたのか。視線をそちらへ向けると、ケイは他の皿を囲んでいるグループと話している。

 一体、何をはじいたのか。


「これ食べなよ」


 ヒルンが手つかずの果物を俺の口元に押し付けてくる。子供ゆえか少々距離感がおかしい。だが悪意があるわけではない。


「こらヒルン、困ってるだろ勇者様が」

「だってさぁ母ちゃん、異世界の話、直接聞きたいんだもん。俺念話得意じゃないからさぁ」


 彼の母親も、勇者と呼んだ。俺は小さな手をやんわりと退ける。


「勇者というのは」

「ああ。転生者はみな勇者様さ。ずっと昔からね」

「やめてほしい」


 表情が変わった。同じ皿を囲んでいる彼らが、怪訝な顔で俺を観察する。


「俺は、勇者ではない」


 周囲の喧騒はそのまま、この輪の空気が淀みはじめる。


「謙遜しなくていいさ」


 ヒルンだけが馬鹿正直な笑顔で応じた。




 食事を終えると彼らは去っていった。作業は二つ目の鐘が鳴るまでで、後は畑仕事に当てるという。ケイも国家機関へ勤めに出るため、彼女が帰ってくるまで俺は部屋にいるしかないのだが、特に不満はなかった。

 二日目から彼らの食事に参席するのはやめた。そのため、一言二言指示のやり取りをするだけになった。だがヒルンだけはやけに懐いていて、たびたび仕事をさぼりながら俺を質問責めにする。

 玄関脇に置かれた作業の跡は、日に日に完成へ近づく。

 あの子供とどのようにして距離を取るか考えている。構ってやれば良いだろうとケイは言うが、なるべく身軽でいたいのだ。


 この頃は浅いながらも眠れることがある。もう一度熟睡する夜は来るのだろうか。あの女騎士に会った時のように。

 俺は瞼を閉じた。







 青い光。

 夏の空のような。


 巨大な、継ぎ目のない透明な材質でできたカプセルは、上下から金属の骨格で補強されている。その中心は大きく破られている。作られた当時は堅牢だったであろうそれは錆びと無数のフジツボに侵食され今にも崩れ落ちんとしている。

 青い光を放つのはカプセルを満たしていた液体だ。穴の縁はこちら側へめくれ上がり、そこから液体はさらさらと流れ出ていく。夏の空のような、毒々しいほどに鮮やかだった。


 内部から歩み出ようとしている影がある。


 白い頭髪は長く、液体に毛先が浮かんでいる。水を吸ってベッタリとその肢体に貼り付いている。

 顔はわからない。見えるのはあどけない鼻先と小さな顎だけだ。閉じられた薄い唇。柔肌。首から下は少女のようにも見えるが、はっきりとは分からない。なんの感情も見えない。

 足取りは遅く、確実に近づいてくる。


 強烈な芳香を感じた。噎せ返るほどの潮の臭気と混ざりあって、なおそれは強く香る。俺はこの芳香を知っている。


 影は迫る。排水溝に引っかかった深海の藻屑が俺の足を滑らせる。閉じられた空間。床には水が残っており、徐々に青い光が浸食しつつある。

 手をついた先は不快な感触と共に滑った。奇妙な形の魚が内臓を吐いて絶命している。


 青い光が浸食しに来る。しかし、その領域が広がっているわけではなかった。俺は引きずられていた。

 深海の水と共に上がってきたその影にまるで引力があるかのように、あらゆるものが集束しようとしている。この空間を閉ざす鋼鉄の壁すらも内側に歪曲し、悲鳴を上げていた。


 影は、その両手を上げる。自分の顔に貼り付いたその髪をかき上げようと。

 その顔は。






 壁紙が剥げかかった天井が見えた。


 ドアがノックされる。

 俺はベッドから降りると厚みを失った絨毯の上を歩いていく。


「おはよう」


 ドアを開けるとケイが眼をこすり言った。服は同じ形のローブを何着も持っているらしい。眼鏡は額にひっかけたままで、纏めきれていない赤い髪が房から飛び跳ねている。


 今回はいつの間にか朝になっていたが、熟睡できた感覚はない。七日でこの屋敷に慣れるのは相当な愚鈍者だろう。それだけが理由ではないが。

 前頭に残る鈍痛があり頭を抱える。昨日は妙に青い入浴剤が落ち着かなかった。


 青い水。

 先ほどまで見ていた悪夢を思い出す。


「あんなことをしてまで俺に世界を救わせたいのか」

「なんの話? ティナのせいでスケジュールが遅れたから、寝てる時まで話しかける暇ないわよ」


 ティナという名に聞き覚えがあったが俺は思い出せなかった。ただの既視感か。


 飲まない紅茶を差し出され、ケイの節制された朝食に立ち会う。今日は工事も休みか喧騒は聞こえない。澄み切った空と、屋敷のどこか室内と底なしの闇を代わる代わる映す狂った窓を眺めている。

 食事を終えたあと彼女は地下室へ行き、その間俺は玄関で待つように言われた。

 最初に見た時と比べれば玄関と台所は綺麗になっていた。破壊された扉は跡形もなく取り払われ、舗装工事中の道と晴れた空が見えている。


 やがて分厚い資料を抱えたケイが、玄関の結界を解除しながら言った。


「というわけで、行くわよ」


 言葉が足らない。


「あなたの裁判」








 裁判を受けた経験は数えるほどしかない。

 死刑執行まで進めたのは数えるほどしかない。それらも全て、割って入った権力者に邪魔をされたが。偶然助けられただけの浮浪者を法を曲げてまで救うのだから、ああいった手合いは面倒くさい。


「……で、あるからして。彼の思想は他者への影響を著しく与えうるものではないと主張します」


 ケイの同時翻訳がようやく追い付いて来た。俺は過去へ向かっていた意識を現実へ戻す。

 こちらの裁判は被告に手枷と口枷をして行うらしい。


「執行猶予中、彼は自死を行うそぶりは見せませんでした。これは彼の希死観念は見知らぬ土地へ投げ出された不安から来るものであると証明しています。衝動的に自死を考えている場合は処罰にあたわないと過去の判例にも存在します。このことに関して騎士団はどうお考えですか」


 魔術の光に煌々と照らされた裁判所の最も高所の机には、冠をのせた年老いた男と数人の側近が向かっている。次に高い傍聴席らしき所には着飾った貴族達が。その次に、討論をする検察と弁護に分かれた左右の机。それぞれの入口には警備役の騎士が立っている。

 拘束された俺は中心の最も低い場所、胸の高さまである鉄製の柵に囲まれている。広さは半畳もなく、手枷の鎖は後ろ手に柵に繋がれていた。


 なにも発言できないなら俺は立ち会う必要がないのでは。あるいは聞かせることが大事なのか。裁判とは名ばかりで、本質はただの断罪宣告なのだろうか。

 弁護人のケイは俺から見て右側の机にいる。彼女の発言がどこまで加味されるのか予測はつかない。

 ケイの反対側には甲冑を着た中年の男がいる。あの女騎士は見当たらなかった。


「弁護人は、彼の希死観念は不安から来るもの、一時的な衝動的自死と仰りました。ですがどうもそうは『聞こえなかった』と、現場に居合わせた証人から聞き及んでおります」


 証人と言っても俺が捕まった時のあの場所には騎士団員しかいなかったはずだ。今はケイの方が事実を曲げようとしているわけだが、身内の証人が認められるなら騎士団には都合がいい裁判に変わりない。


「彼は転生者です。しかも査問官によれば、これまでに幾度も自らの命を投げ出している記憶が彼にはある、と。この世界ではない異世界でのことを罰しはできませんが、その経験記憶は常習性ある希死観念の証明には十分足りえるのでは?」


 ケイが身を乗り出すが、反論の前に間髪入れず発せられた騎士の声に遮られた。


「イシス歴七十五年、若年魔術師達によって儀式と称した集団自死が行われたことは」


 場の空気が凍った。


「『強い意志と共に死ねば異世界に往ける』などという妄言を広めた発端者が何者か。まさかケイベルグ様がお忘れではないはずですが」


 赤髪の頭が下がる。

 ケイは俯き、資料に目を落としたまま黙ってしまった。


「最初は誰から見てもケインベルグ・イド・ラクターの論文は、荒唐無稽な内容だとわかった。しかしその論文によって事実二十一名の若い命が投げ出されたのです。まさかお父上の言葉通り、十五年前の魔術師達はどこか異世界へ転生したと、あなたは信じておられるのでしょうか」

「……いいえ」


 中年の騎士の言葉は怒りを奥に潜ませたまま、淡々と続いた。


「彼が転生を期待して死に、その強い残滓が民の間に渡れば『またどこかへ転生したのだ』と考える者が少なからず現れる。申し訳ありませんが、魔界以外の異世界の存在を教え民に混乱を与えるのはイシスの方針にそぐわないのです。このイシスの地こそが楽園であり、肉体も心も大地に還ることが至上の喜びであると皆信じている。研究成果を認められたいのならヤームでの発表をお勧めいたします」


 くすくすと、悪意に満ちた失笑がどこからか響く。聞いたことのない地名だが、彼らの反応から見下していることは明らかだ。


「……このイシスこそが楽園だと、皆が信じているとは。具体的には」


 やっと絞り出すように、ケイの声が発せられた。

 騎士が息を吐いて資料をめくる。


「昨年度の市勢調査にて、住民は全体の八割が幸福、残り二割が大きな不満はないと答えております。この幸福度計測はケインベルグ様も関わってるはずですが」


 あなた達じゃない、その二択を選ばせろと命じたのは。


 彼女の心が念話となって届いた。

 相当に強い念だ。おそらく屋敷で聴かされた強制念話をこの場にいる全員に送ったのだ。場内は完全に静まり返ったが、すぐにひそひそと貴族達は話し始める。


 声ならぬ声の影響を主張しながら、この場の声ならぬ声には意味がないとでも言うように、裁判の参加者は一様に聞こえないふりをしている。

 ケイは父について言われても、俺への通訳をやめることはなかった。


「これ以上の弁論が無いようなら……」


 黙っているのも飽きたので、俺は口枷を柵に打ち付けた。


「抑えろ」


 動揺が聞こえる。警備が鎧を鳴らして駆け寄ってくる。

 俺は気にせず顔を打ち続け口枷を壊した。口の端が切れたが問題はない。血の味が広がる。

 ケイはこちらを見て一瞬だけ目を見開いたが、すぐに額を抱えた。


「俺は、転生するために死にたいわけではない。残滓などというものを、この世に残そうとも思わない。死が最後の行先だ。俺は、永遠に眠りたいだけだ」


 甲冑の腕に脇を固められながらも言葉を発した。動揺しているわけではないが、抑えつけられたせいで息が切れる。

 俺を見てけばけばしい化粧をした中年女が口を覆い隠す。傍聴席がざわざわと騒ぎ始める。実に面倒くさい。


 ふと、こちらを見る中年騎士の顔が、恐怖から柔和に変じた。これまでの醜い怒りが嘘のように慈愛に満ちた笑顔になる。


 寒気がした。


「お聞きになりましたか彼の望みを。永遠に眠る。結構! イシスの刑務が慈悲深いことは皆さんご存知かと思われます」


 満を持して参列者を見渡しながら声高に叫ぶと、その笑顔のままこちらへ向き直した。


「ノルマはこれから決まりますが、その時間を達成する気があればいくらでも寝ていただいて構いません。生命維持、健康面、ありとあらゆる全てを専門の魔術師が管理いたします。労働の喜びに目覚めればその考えも変わりましょう。そうなるまで、魔術によってあなたは可能な限り生き続けることができます」


 そう来るか。

 労働力の維持が優先なら、犯罪者の使役先など決まっていると。

 強引な論拠の刷り替えに反論の余地も与えず騎士は続ける。


「起きている間の労働の痛みがあるから、我々は眠りの幸福を得られる。これは明白な事実です」


 異常な拍手が起こった。ケイは頭を抱えたままだ。

 俺の余計な行動で弁護のすべも無くなったのだろう。刑務が始まれば、おそらく研究材料でいることも難しい。惜しいことをした。


「現国王イシス・ライズ・ガリアノス、判決を」


 騎士は議論を締めた。顔は上げずに右手を胸に当て、語りかけたのは最上段の王冠を戴いた老人だ。左右の側近はおそらく魔術師か。国のトップが易々とこんな場所に出るには相応の用意と道理があるはずだ。


 染みの多い頬が動くのが見えた。


「戦わせよ」


 イシスの王の声は掠れていた。


「……申し訳ありません、国王。今、なんと?」


 騎士が耳を疑い、おそるおそる質問する。顔の方向は変えても視線は下がったままだ。王を直視するのはマナー違反らしい。


「城内貯蔵畑での農耕労働ではなく、戦闘演習に協力させよと王は申された」


 代わりに応えたのは王の右隣にいた側近だ。低い声は機械のように朗々と代弁する。


「ついては明日の合同演習より参加を申し付ける」

「しょ、正気ですか。かような異常者を」

「異常だからこそ。追い詰められた戦士を下す力を、予測できぬ気配を察知する技を、近衛騎士団第一部隊以下は蓄えるべきである。王は申す。いずれ来たる戦に備えよ」


 戦、の言葉に騎士の顔が青ざめるのがわかる。貴族達も息を飲む。己を脅かすかも知れない恐怖に。

 ケイは額に当てた手をそのまま、指の隙間から王を見ている。声を発していない方の側近に睨まれ、彼女は視線を逸らされた。


「我らの資産は麦に藁。まことに失いやすい物。火をつけ食らわれる前の防衛術こそが要である。

 敵は飢えに追い詰められた獣であると知れ」


 やがて閉廷が宣言され、中年の騎士はようやく我に返って敬礼した。

 ケイは一度俺を睨むと、絶望した顔で資料をまとめ始める。

 冷徹な宣告は、その場の誰にも勝利を味合わせはしなかった。


 俺もまた、ため息をついた。






 サーカスの猛獣の檻のようだ。2メートル四方程度の鉄籠に、俺は蹴り入れられた。

 周囲には先客がいて、死刑囚の屈強な男たちがそれぞれの檻に収容されている。彼らは俺をじっと睨むか、あるいは虚空や石の床を見つめている。ひどい臭いだった。

 新しい口枷は用意されず、代わりに手首の拘束を厚い鉄板のような手枷に交換された。


「まるで獣扱いだな」


 そう呟くと俺を連行した騎士の一人が吐き捨てた。


「獣をこんな場所には入れんよ。お前なんかより貴重だ」


 備え付けられた二つの錠を閉め、扉に手を当てて呪文を唱えると檻全体が一瞬光を帯びた。彼らは施錠を終えると去っていった。

 ここは演習場の控室のような場所だと教えられた。かつては闘技に使われた、円形の建造物だ。


 つまり、闘技場か。

 いったい何度目だというんだ。


 俺はうんざりして、なるべく鈍らせなければと体を横たえた。

 早く殺されなければ。そうでなければ面倒が増える。

 勝手に評価されて、勝手にあのケイが叫ぶのだ。うやむやの内に俺を祭り上げて攻略軍の先頭にでも立たせるか。英雄にするか。考えるだけでも疲れていく。

 俺は想像の中で疲れ切っていた。


 労働の痛みがあるから、眠りの幸福を得られる。

 あの中年騎士の声が記憶の中を反響する。高慢だったが、その言葉には同感できた。


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